その⑱ こころのなかみ
俺がちゃぶ台で勉強をしていると、台所からカレーのいい匂いが漂ってきた。どうやら、ルーを溶かしている最中らしい。
千香は意外にも、料理が得意らしい。ドジな奴だから心配していたのだが、慣れた手つきで包丁を使っており、驚かされた。
俺はと言うと、一人暮らしを始めたと言うのに、料理はあまりやった事が無い。スーパーの半額の惣菜か、アルバイト先のコンビニのパンを買って食べてばかりいる。
一度、野菜炒めに挑戦した事はあるが、どうやら俺は料理を舐めていたらしい。焦げた部分と、生の部分があり、とても不味いものが出来上がった。
「いい匂いだ」
俺は台所に立つ千香に向かって、そう言った。
しかしどうやら千香には聞こえておらず、相変わらず鼻歌を歌いながら、料理を続けている。
どうやら一通りの作業を終えたらしく、千香は手を洗い、俺のほうへと近寄ってきた。
そして俺の手元にある参考書を目にして、眉間にシワを寄せる。
「なんで全然進んでないのっ! んもぉーいっぱい時間あったでしょ! 私が見てないと一人で勉強も出来ないの? そんなだから受験失敗しちゃうんだよ!」
確かに俺が悪いとは思うが、そこまで言わなくても……と、思う。
「……すまん。台所に俺以外の奴が立ってる所なんて初めてだから、気になってたんだ」
「はっ……はぁっ? そ……そんな事で集中力途切れるなら、私居ないほうがいいじゃんかっ! こ……これからも、料理、作ろうって思ってたのに……」
千香は急にモジモジしだし、目をキョロキョロと動かした。
しかし、これからも料理を作ろうと思っていてくれた事は、誰かの手料理を食べるという事が久しぶりで、素直に嬉しい。正直、パンや惣菜には、飽き飽きしていた所だ。
それに、彩子は料理をやらない。女子の作ったお菓子なんかは食べた事があるが、本格的な料理は初めてで、なんだか少し、テンションが上がっている。
「あぁ……これからは集中するし、材料費は俺が出すから、作ってくれると有り難い」
「あっあっ……でも、美味しいとは、限らないっていうか……口に合うかどうか……」
「いい匂いしてる。絶対に美味い」
俺がそう言うと、千香は両手をほっぺたに当て、顔を真っ赤にして「はわわわわ」と言っている。
その行動は、なんなのだろう。千香にはいちいち無駄な動きが入る。
「料理、得意なんだな。普段から作ってるのか?」
俺がそう聞くと、千香は「え? ええ……あの、最近は、あまり」と言い、下を向いた。
「む……昔っていうか、前はね、母親が居なかったから、お父さんの食事は、私が作ってたんだよ。再婚して、お母さんが出来て、それであまり、作らなくなったかなぁ」
再婚……か。高校時代の友人には、離婚した親を持つ奴がいた。
両親が離婚して以来、性格がどんどんと変わっていくのを、感じたものだ。どんどんと暗くなり、ねじ曲がっていき、いつしか、付き合いが無くなってしまった。
「そうか……」
「え? あっ……松本君、また暗くなってる……ごめんね、離婚の話とか、嫌だよね」
「いや……千香が良ければ、俺は別に」
そうか、俺はこんな事で暗くなるから、いけないんだ。
それに、今思った友人の話を、千香に話せばいいんだ。それがきっと、会話というものなのだろう。
「……高校時代の友人によ、両親のイザコザで片親になった友達が居てさ」
俺はゆっくりと、千香に話しかけた。
千香はと言うと、特に相槌をうつような事はせず、目を丸くして、やたらと似合う眼鏡越しに、俺の顔をジィっと見つめている。
なんだか、照れくさい……俺はつい、千香の視線から逃れるために、目を離した。
「ソイツ、日に日に性格が、ねじ曲がって行ったというか……暗くなって、卑屈になって、いつもイライラしててよ……」
「あぁー……うん」
ようやく千香は、相槌を打った。
千香の中にも、そういった心当たりがあるのだろうか。暗くてねじ曲がっている千香は、想像出来ない。
「それで……いつの間にか話さなくなって、疎遠になっていって……その時は別に、彩子と付き合ってたし、友人も沢山いたから、寂しくは無かったんだけど、今思うと、アイツの気持ち、分かってやれた筈なんじゃないかって、思うよ」
「うーん、それは難しいんじゃないかな」
千香は軽い口調で、そう言った。
俺は思わず、千香の顔を見る。千香の表情はとても落ち着いたもので、冷静に考えているようだった。
「だって松本君、ご両親健在でしょ? 夫婦仲も悪く無いんでしょ? それにね、話を聞いてると、表面的な事しか、松本君分かってない。だから、気持ちを分かるなんて、絶対に無理だよ。松本君は、その友達自身じゃないんだから」
「……話を聞くくらいの事、出来たんじゃねぇかって、思うんだよ」
「だから、分かってないって言うんだよ。自分の心境の話なんか、よっぽどじゃないと、してくれないよ。すっごく親身になってくれて、すっごく優しくされて、よっぽど信頼出来た時に、ようやく話せるものが、心の中なんだよ。松本君に、その人にとって、それほどの人物になる覚悟があった? 今思うとって言うけど、今だって、その覚悟がある?」
いいや、無い……。
あの時俺は、彩子が居て、多くの友人が居て、両親が健在で、満たされていた。だからわざわざ、暗くて卑屈になっている友人に、構う事が無かったんだ。
今だって、思っているだけで、決して行動に移さない。ましてや、千香の話を聞くまで、俺は友人の事を、思い出しもしなかったんだ。
それを、何を善人ぶって「気持ちが分かってやれた筈」「話を聞くくらいの事」だ。そういったものを、偽善と呼ぶのだろう。恥ずかしい……。
「……そうだな。千香の言う通りだ。俺は、最低だ」
「えええっ! なっ……なんで最低とか、そういう話になるのっ! ほらまた暗くなってっ……ご……ごめん、私が、言い過ぎた……」
「いや……千香は実際、両親の離婚を経験してて、苦労を経験しているんだ……千香に言われる事のほうが、俺の軽はずみな言葉より、絶対に真実に近い。すまん……俺は恥ずかしい事を言った。忘れてくれ」
俺がそう言うと、千香は突然、俺の肩をガッとつかみ、俺の顔を、間近で見た。
千香の目には、力が篭っている。一重だが大きな目が、俺を見つめている。
まっすぐで、綺麗で、熱い、瞳を、している。
「わっ! 忘れられないでしょそんな事っ! だって……私言い過ぎたけどっ……松本君、思い出したじゃん、その友達の事。それって、絶対悪い事じゃないよ! そこから誰かを思う気持ちが始まるんだよっ! 思い出されないで、消えていく想いのほうが、いっぱいいっぱいあるんだよっ! 思ってあげて! そして! 街でその友達を見かけた時、気軽に声をかけてあげてっ! それがきっと、一番嬉しい事なんだよっ!」
千香は、大きな大きな声で、俺にそう言った。
きっと千香の中の、伝えたい想いが、沢山篭っているのだろうと、思う。
その全てが伝わったとは、言えないのかも知れないが、その片鱗は、確かに伝わってくる。俺の心は、今、熱い。
「あ……あぁ……そうだな。誰かを想う事は、悪い事じゃない……想い方が、悪かったんだ」
そうだ……千香はやはり、正しい。正しい事を考え、正しい答えを導き出す、天才だ。
今まで、下らない事で、イライラしてしまった事が、申し訳ない。千香は、俺より遥かに、良い奴。
「う……っ……想い方……悪いって言ったらそうかもだけどっ……気軽に、話しかけるだけで、いいんだよ。それだけで、嬉しいの、本当に」
「俺は、いつか……」
俺はそう言い、口を接ぐんだ。
「んぇ……? 何?」
「……いや、なんでも、無い」
俺はいつか、千香みたいな思考に、たどり着けるだろうか。
誰かの事を、自分の事のように、思えるのだろうか。
誰かが俺を信頼して、心の内側を、話してくれるようになるだろうか。
本当の意味で、分かり合えるような相手が、見つかるのだろうか。
いつか千香は、両親が離婚し、再婚した時の話を、してくれるのだろうか……。
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