その⑲ ちょっとだけ友達以上

 ちゃぶ台の上の教材を床に起き、その上をフェイスタオルで拭いた。

 どうやら松本君はフキンなんてものを持っていないらしい。フキンを探している時に「これ使え」と言い、タオルを寄越してきた。

 こういった生活感の違いは、生まれ育った環境が違うのだから仕方ない事なのかも知れないけれど、適材適所というものを、知ってほしい。そういうダラシない事を続けていると、怠け者になってしまう。

 と、言ったことを怒鳴りたくなったのだが、私はグッとこらえた。怒って怒鳴ってばかりでは、本当に嫌われてしまう。

 折角出来た、友達なのだ。大切にしていかなければ。


 私は大きな鍋を持ち、ちゃぶ台へと向かった。鍋敷きなんて無いので、漫画の本を下に轢いて、その上に鍋を置く。炊飯器なんて気の効いたものも無い事も知っていたので、私は鍋のお湯で温めるタイプのご飯を購入しておいた。あとはそれが出来るのを、待つだけだ。

「うわ……めっちゃいい匂いだな……すげぇな千香」

 松本君は表情を緩め、口元を少しだらしなく、開けている。

 松本君のそんな表情は、見たことが無い。作って良かったと、心から思う。

「松本君、生活感無さ過ぎる。電子レンジと炊飯器くらい、買っておいてもいいと思うよ。特に電子レンジ。無きゃ困るでしょ。冷凍食品だって食べられないじゃない」

 私は松本君の顔を見ていたら恥ずかしくなってしまい、つい、料理を作りながら思っていた事を口走ってしまう。

 折角、松本君がいい気分になり、表情を緩ませていたと言うのに。これでは喧嘩を売っているようなものだ。

「あ……? やっぱそう思うか? はは……俺もそうは思ってるんだが、買いに行く機会がな、無い」

 予想外に、松本君は笑顔を作り、私へと話しかけて来てくれた。

「う……うん、思うよ。これから自炊するなら、必要でしょ。大学合格したら、わた……わた……」

 声が、出ない……「大学合格したら、私がご馳走作ってあげるから、それまでに一式、揃えよう」という言葉が、口から出てくる事を、拒んでいる。

 私は口をパクパクと動かして、松本君から視線を逸らした。

「……どうした?」

「なっ! なんでもな……っ! ない……よ」

 こういった言葉は、口から離れるまで、とてもとても、苦い。凄く凄く、辛い気持ちになってしまう。

 きっと、私の言葉が伝わって、喜んでくれたら、私だって、松本君だって、嬉しい筈なんだ……カレー程度で、こんなに喜んでくれているのだから、お祝いのご馳走ともなったら、嬉しくない訳がない。

 それでも、どうして、こんなに、言い難いのだろう……謎だ。

「……はは、大学合格したら、また何か、作ってくれるのか……? そうだったら、嬉しいぞ。大したもんじゃなくてもいいから、作ってくれ」

「あわわわはわわわわ……たっ! 大したもの作る!」

 私は再びパニックになり、訳が分からなくなってしまっている。

 ああああっ……なんだろう、恥ずかしい……作ろうとしていた事がバレてしまい、とってもとっても、恥ずかしい……顔が熱い。

「……じゃあ、大したもの、作ってくれ」

「うううううんっ!」

「ははははっ。それって、了解したのか断ってるのか、わかんねぇな」

「わっ! 笑うなぁっ! 了解したんだよっ!」

 私はキッと松本君の顔を睨もうと、松本君の顔を見た。

 そこには、優しい雰囲気をまとった松本君の笑顔があり、なんだか、ぽえーっと、してしまう。

「笑ってもいいだろ……友達だろ」

 ……そうだ、友達だ。

 友達なんだから、笑い合うのは、いい事じゃないか。

「う……うん……笑うのは、いい事だよね」

「だろ」

 そう言って松本君は、より笑顔を深めた。

 言っちゃ悪いが、松本君は男前だが、老け顔だ。だから普段は年上のように感じていた松本君の顔だが、今は、初めて同年代のように、見える。

「かわいーね……」

「……あ?」

「え?」

「……あ?」

 なんだ……? 突然松本君の顔が、曇ってきている。

「え? え? ど……どうかしたの? 私、また何か悪い事、言っちゃった……?」

 私は突然心配になり、オロオロとしながら、松本君の体を触った。

 それでも松本君は、不振な表情を作りながら、私の事を見続けている。

 なんだろう……どうかしたのだろうか……松本君は、気難しすぎる。何が地雷なのかが、よく分からない……。

「……今お前、かわいーって、言ったのか?」

「え? えっ! あっ!」

 ……言ったかも、知れない。

「はわわわわわわっ! うわああああっ! ごめんごめんっ! 男の人に向かって、可愛いだなんてっ! ごめんなさいーっ! もぉ私帰るぅーっ!」

 私は立ち上がり、自分が着ていたブカブカのダサいコートと、前まで着ていたダサい服の入った袋を手に握り、玄関へと向かって駈け出した。

 今日は、もう駄目だ……心が乱れすぎて、勉強や会話どころではない。

「おいおい千香、待」

「かかかかかカレー食べてっ! あっ明日私も食べるから残しておいて! 食べきれないくらいあるから食べきれないと思うけど、残してね! あっ! 明日もまた来るから! 明日はちゃんと勉強しよう! 今日はホントにごめん! もう無理いやぁーっ!」

 私は急いで靴を履き、玄関を開けようとドアノブを回す。

 しかしガチャガチャという音を立てるだけで、何故か扉は開かれない。

「おいおい……焦りすぎた千香。鍵かかってる」

 いつの間にか私の後ろに立っている松本君が、私の肩を掴んでそう言った。

 私は思わず振り返り、松本君の顔を見て「うぎゃあああああっ!」という絶叫を、上げてしまう。

 これでは、暴漢にあった人みたいだ……むしろ逆なのに。

「ウルサイぞ……それと、そんなに焦って帰らなくても、いいじゃねぇか……」

「はぁっ……はぁうあ……」

 松本君の目が細くなり、ちゃぶ台のほうを見つめている。

「……一緒に飯、食おう」

「ああああぁぁぁっ……う……うん……お、怒ってない……?」

 私がそう言うと、松本君は「ふっ」と笑い、再びニコッと微笑んだ。

「怒ってない。ビックリしただけだ」

 松本君は私の手を握り、再びリビングへと、私を連れてきた。

「よかった……ごめんね……もう言わないから」

「……別に」

 松本君は、小さく、呟いた。

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