痛み
痛み
ある時、私にとって苦い思い出。。。健ちゃんが勤める総菜屋さんへ父は行きたがった。近所で評判だと聞いたからだそうです。おそらく、今は彼も立場が変わって本社勤めだろうと思いましたので、一度は父を連れて行ったのですが、長い年月の果てに二つの恋は一つを思い出せば、もう一つも思い出す。当然、私の心は揺れます。なので思い切って私は過去に起きた出来事を父に話し、心が揺れるからあそこへは行きたくないと言った。言ってみればあの二つの恋は、父の近親姦によって引き裂かれたようなものだった。
その部分はやんわりと話したのですが、父は私に「産ませてやりたかった。」と言った。「あの時、パパを頼るという選択肢は無かったわ。」と私が言うと「その彼とはちゃんとお別れできたのか?」と私の痛いところを聞いてきました。「話し合う事は叶わなかったわよ。」と言うと「病院へは来てくれなかったのか?」と再び聞かれた。「病院を探すところから私一人だった。伝言で付き添っても良いとは聞いたのよ。でも、伝言だから許せなかった。だから絶対に当日彼が来れない日を選んだ。双子だったのよ。」と言うと父は泣いていた。
その日から私は麻酔の少なかった中絶の時の痛みにまでもフラッシュバックするようになった。それは父の介護に行く前日の事で、次の日、私は体調が悪いと父に言うと「有加ちゃん。それは想像妊娠です。デパートでお祝いしましょう。」と父が言いだし、記念に兜を買ってくれた。私は犬用に丁度良いと思うしかなかった。その時は一瞬親らしい事も言ってくれたのですが、思ったのは、父はもしかしたらサイコパスではないか?。支配し続けると逃げられてしまう。逃がさない為に気を引くような飴の部分で接し、再び支配する。過去にも思い当たる事があった。
私は、娘として親を慕いたい幻想があるからだったのか?諦める事無く父を許してしまった事。もしかしたらそれこそが父から支配され続けてきた感覚を手放せなかったのかもしれない。と気付き始めていました。
そんな頃、正彦さんとも話し合った。
彼は、「君がお父さんを許すのなら僕も合わせられる。でも、君がお父さんを許せないなら、僕も同じなんだよ。薬まで飲んで、夜中に叫んだりして、そろそろ限界なのでは?」。。。
私は「許しているつもりだけれど、むしろ許さないと介護になんか行けない。でもそんなに竹を割ったようにスパッとは割り切れない。それだけこの問題は複雑なんだと思う。暫く考えるから。」と答えました。
彼は父からの給料の事を気にしているようでした。「お金なら大丈夫だから、僕も頑張るから普通のパートにした方がいいんじゃないか?」と。。。
彼の友人の会社で特別待遇の形で仕事出来ていました。私の勝手で仕事を辞め、父の給料付き介護に踏み切ったのです。もう元の仕事のような高待遇では、この不況の中、仕事は見つからないだろうと思いました。しかし、そろそろ介護を手放す心構えは必要だなと私は感じていました。
実家へ行くと、実家の情景が変わって見える事が多くなっていた。しかし、この時はまだ、「記憶の違和感」にまでは私は気づいていなかった。
父がデイサービスに行っているある日、私は浮かび上がる感情に苦しんだ。
ここにピアノがあって、それにキリで文字を刻んだ事。この家で私は二年間近親姦を強要された。当時の出来事が私の脳裏に生々しく浮かんでは消えた。私は現実直視が出来ていなかった事に気づいた。無感情になって近親姦が終わっても、二つの恋で「嫌な感触」に苦しみ続けていた事も、その後父に「愛人になれ」と言われ続けた事も、一度もしっかりと直視した事がなかったのです。そして自分がどのように傷ついたかを考える事もしていなかった。被害を受ける最中、苦しんでいる時に冷静でいられる筈も無く、被害が終わっても上滑りでしか捉えておらず、そのうちに二十二歳から、まるで五年間が無かったかの様に生きてしまった。誰かに近親姦を打ち明けても、その実態の凄まじさ迄は捉えていなかった。それなのに、私は介護に毎日来ている。どうしてそんな事ができてしまったのだろう。。私は一体何をしているのだろう。。
それでも、介護に行き続けていると、エレベーター等に乗りこむ時、父がフラフラ歩いている訳ですから、それまでは自分が歩く事がやっとだった癖に、私をエスコートする様な形で父は私の体に触れようとし出した。私はそれが嫌で段々父と離れてエレベーターに乗るようになっていった。そんな時、父が本当によろけそうになって私の腕につかまったりした時は、気持ち悪くて、その後洗面所に行き、腕を思いっきり洗った。
ある日、デパートへ行くのに父を車に乗せて運転中、私は腕がガクガク震えだし、パニックになった。震えを抑えようとしているうちに、アクセルを思いっきり踏んで何処かに突っ込みたい衝動に駆られた。丁度ゴールデンウィークで駐車場係の人が随分手前から誘導に出ていて、顔なじみの人が居て手を振ってくれたので助かりました。私は父に言った。「トイレ等でオムツ替えの時は私の肩に掴まってもいい。でも不意をついて私の腕などに触らないでほしい。」と。。。
父も運転中の私の豹変を感じていたらしく、その時は「分かった。」と言いました。しかし、結局は又同じ様に、よろけるでもなく何でも無い時でさえ、やたらと体を触ろうとします。私は、もう本当に限界なのだと思っていたある日の夜、急に目が覚め、それはまるで溺れ死ぬか?と言う程、酸素が体に入ってこなくなった。心臓がバクバクし始め、胸が苦しく、丁度この三日前位からやたらと体中が攣ったりしていたのです。左肩が今まで経験した事が無い程にパンパンに張っており、私は太っているし、きっと心筋梗塞なのかもしれないと不安になり、正彦さんにSOSを出し、救急車に来て貰いました。まず救急隊員の多さに驚いた。いろんな器材が運び込まれ、一瞬にして私は、体中にいろんなものをペタペタと貼られ、矢継ぎ早にいろんな質問をされた。心臓が!と言って救急車を呼ぶとこうなるんだと言う事を知った。質問をされているうちにどんどん落ち着いていく私。「何かお薬飲んでますか?」と聞かれ「安定剤を飲んでます。」と言うと「何故飲んでるのですか?」と聞かれ言葉に詰まり、正彦さんの目を見ると話して良いと言っている様に感じました。「近親姦被害を受けた父の介護が苦しくて。」と言った。「もしかしたら心臓じゃないかもしれません。ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫かもしれません。」と言うものの、一旦、救急車が出動した場合、病院まで連れて行く事が決まりの様で、大きな病院へ搬送されましたが、結果は心臓には異常は無く、過呼吸の酷いものでした。
それから数日して、父がデイケアの日、実家に置いてあった二百万円が無くなったと父が言い出した。父は子供時代の悲しい経験から、手元に数百万円無いと不安だと言うのを何度も私に言っていました。父は現金の置き場所を知っている私を疑ったのでしょう。丁度私の車の点検前で、保険料込みで父から経費を貰う筈でしたが、お金が無くなった事がキッカケで、父は私に「車を売れ。それで軽自動車にしろ。」と言い出した。私は了承しました。軽自動車なら父に経費を払って貰わなくても済むから良かったと思った。ところが父は「売った金を返せ。それで、俺名義で車を買う。」と言い出したのです。認知症の、しかもアルツハイマーの父に父名義で車を買わせる訳にはいかない。もし、それで人を跳ねてしまったらと考えると私に責任は負えません。購入する際、私の手助けが必要な筈。それを助ける訳にはいかないと思った。私は「父の名義は駄目だ。」と言いました。「あなたはそんなに物が欲しいのか。」と父は意見し出した。それをかわすように私は少々笑いながら「あの車、慰謝料だってそもそも自分で言っていたじゃないの。」と言うと「あなたはまだそんな事を言っているのか。近親姦の事まで俺のせいにしやがって。あれはあなたのせいでやったんですよ。ママの遺言を守るために、あなたの弱さを叩きなおす為にやったんだ。お前はママの遺言を裏切りやがったな。あなたは俺との関係に責任を取らなきゃいけないんだ。責任が取れないなら出ていけ。二度と来るな。給料も払わない。」。。
私は一瞬だけ苦笑い、すぐさま感情が抜け落ちた。「一つだけ、言わせて貰う。色々あった人生の中でパパと関わっている時が一番不幸だった。」私は静かに言いました。父が「何だ。その冷静な言い方は。どんどん冷静になりやがって。」と言った。「来るなと言うなら来る訳にはいかない。帰れと言うから帰ります。今日はこれ以上話しても、何の実りも無いでしょう。帰るけれど、電話したくなったらかけていいからね。」と言い残し、実家で出たゴミを片づけゴミ袋を持って出ようとした時、父が怒鳴った。「電話はしない。意地でもしない。」と。。。
赤鬼の様な真っ赤な顔をして。私はゴミ置き場にゴミを出す時、やっと解放されたと思った。私の意地っ張りは父ゆずりなのを分かっていました。おそらく電話はかけてこないでしょう。帰宅の運転中、私は心穏やかで何か大きな荷物をおろしたような感覚だった。
この後、私は治療の為の過去の書き出しを本格的に始めました。それはまるで、すり鉢の淵からぐるぐる回りながら徐々に底に近づく様なもので、一段下がる毎に泣ききっていない事、怒りきっていない事に遭遇。時には感謝しなければならない事や、悔い改めなければならない事にも遭遇した。長い間放置し、見ないようにして生きたツケが一気に押し寄せる。一度しか無い人生。こんなに何も考えず、上滑りで生きてしまったのかと後悔した。世間の人が推奨するような生き方、「辛い事は忘れて前を向け。」。思えば、闇を抱えた五年間に起きた出来た事を封印して私は前を向いて生きていたのです。その年月の長さが拍車をかけ、私は見失った時間の漆黒の闇から抜け出せなくなってしまった。軸の無いコマのように何処に向かって行くかわからない道を、ただ我武者羅に前を向こうとしていただけで、後ろから引っ張られる力にとうとう悲鳴をあげ始めた頃に岐阜の教授に「流せ」と言われたのだと気づいた。流さなくてはいけなかったのは、父でも無く、出来事でも無く、私の心の中にこびりついたものだったのです。心に大きな闇を抱えたままでは、どんなに前を向こうとしても、くたびれるばかりだった。私の深層心理には、まるでジャングルの様に根も枝も葉も複雑に絡んだ闇が存在している。どこから手を付けて良いのやら、それでも、枝をほぐし、いらないものを選別し、泣いて流したり、怒って流したり、その度に心から血を流すような気持ちに苛まれ、それはまるで心の手術をしている様でした。それでも、DVだけなら良かった。DVだけなら私はいくらでも父の介護を続けられたと思う。あんなにキレて怒りまくる父の気持ちは世の中の他の誰よりも私には理解出来るのです。悲しい気持ち、苦しい気持ちを怒りでしか表現出来ない辛さを私も人生の中で同じように味わって生きて来たのだから。しかし、近親姦に至り、愛人になれと言った父の論理にだけはどう逆立ちをしても付いていけない。介護は、否、父と関わるのは限界でした。私は出来る処まで、ギリギリまで、父と向かいあったという達成感はありましたが、自分の過去と更に対峙してみると、刈り取った部分に少々の光が差し込んだとしても何だかやるせない気持ちをぬぐう事が出来なかった。そんな時は、何も考えず生きていた頃のままの方が良かったのではないか?とさえ思える。父だけではなく、一旦は憎んだ母の事、気づくと、私は母の面影を探していた。五十二歳になった私が自分より若い三十七歳の母を探しているのですから可笑しな話ですが、母の味がするサッポロ一番。あの日、スーパーで思いついて買ってから、益々母を思い出し、切なくなり、懐古的気持ちから再び購入する事が増えたのです。母はこんな私の人生をどう思うのだろうか。このままではいけない。自分の人生を取り戻す為には、まだしなくてはならない事がきっとあるのだと思った。
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