無念という幻



  無念という幻


私の実家には嫌な思い出が多い。しかし、母との思い出もある。あの団地は私にとっては故郷の様な存在。でも父の介護に行っていた時、幼馴染みのお母さんに言われた。「あなた、生きてたの?」って、私の知らぬ間に私は北朝鮮で死んでいた事になっていたのだから。。。

拉致被害のニュースに寄ると死んだと聞かされても生きているに違いないと長きに渡り奪還するべく戦っている親もいる。私の親とどこが違うのだろう。そう考えると何かやりきれない気持ちになった。

母には一人仲の良い沢木さんという友人が居て「毎日の様におしゃべりをしていたのよ。」と言われた事がある。その沢木さんも私が生きていた事に驚いていた。

「昌江さんも私も女学校を出ていて、親に反対されて大恋愛で結婚した。だから団地に居る人たちの中でも話が良く合ったのよ。子供たちが小学校から帰って来る迄、お昼を一緒に食べたりして、毎日のようにおしゃべりしていたの。」と話す沢木さんも母の様に明るい人でした。

沢木さんにはどうしても本当の事を知っておいて欲しかった。介護に行くのがどんどん苦しくなっていた時に私は沢木さんに本当の事を話していました。電話番号を交換していたのですが、そのメモが見つからず、その後連絡はしていなかった。

団地の中のスーパーの店員さんとも仲良くなっていた私は彼女に電話をしてみると「有加についている男が有加をそそのかして、俺の金二百万円を持ち逃げして来なくなった。」と父は言っている。そんな話を聞くと、色んな嘘を積み上げなくては自分の居場所を保てない哀れな父なのだと思いました。

暫く経ってから、無くしていたと思っていたメモが出てきて、私は沢木さんに電話をして、色々話したのですが、驚きの話を聞く事になったのです。

「昌江さんとは本当に良く話した。私の両親はね。堅い仕事をしていて厳しかったのよ。人から悪口を聞いても、それを他の人に言ってはいけない。って躾けられたの。でもね、有加ちゃんはお母さんの事を知りたいでしょ?」とおっしゃった。私は「どんな事でも話してください。知りたいです。」と答えました。

「昌江さんは主人とは絶対に別れるわ。とおっしゃってた。有加を歌手にさせて、スターにさせて、そうしたら私は有加と一緒にこの団地を出て行くの。だから失明する訳にはいかないのよ。そんな事になったら有加の足かせになる。殆どの先生に反対されたけれど、私はこの手術にかけているの。とおっしゃってた。」と聞きました。母が手術の話を聞いたのは秋なのですから、家族三人仲良く月を観たあの時、母は家族の前では仮面を被っていたという事になります。更に沢木さんは言った。

「私は昌江さんのお見舞いに二度行ったのよ。その時もそう話していた。そして空いているベッドを指さして、このベッドは昨日死んだ。あっちもちょっと前に死んだ。ってあっけらかんと私に言っていた。まさか自分が亡くなってしまうなんて想像していなかったんでしょうね~」。。。

私は沢木さんとの電話を切った後考えました。家族が一瞬でも機能していたなんて幻だったんだ。そういえば、母は布団を敷く時二列並べて敷かず、Tの字になる様に敷いていた。あれは父を拒否する意思だったのだと今になって気付いた。

団地の別の棟に住む湯島さんという母の浮気相手。商社に勤める湯島さんから貰った指輪を母は大切そうにしていた。私と出かける時だけはめていたあの指輪。。。時折母はじっと見つめていました。

あの見つめる目は恋をする女性の目だった事も、今の私は認めざるを得ない。お見舞いにも湯島さんを来させていた。遺言したのは私の事だけで、うわ言は生母の皐月さんの名前。父の呼びかけには反応せず、私の声や握った私の手だけに母は反応していた。父と母は精神的には何も繋がれていない夫婦だったのだと思い知りました。むしろ、あんなに看病した父。晩年になってまでも母との性的な事しか思い出せない父が痛ましく思えてきた。父が性に執着した理由はそこにしか良い思い出が無く、心が繋がり合えていなかったからなのだと思った。

幼少期に機能しなかった家庭で乳母に育てられ、小さいうちに金持ちから転落し、歪んだ性格を構築させてしまった父は、母の様な自由奔放な人を妻にしてしまった事で、余計に支配欲が高まりDV夫にまでなってしまった。そして、そのDVが妻の心を離れさせる大きな原因になってしまったのです。

私は、何だか母に裏切られた様な気がしました。

あの月を観た時、母は違う事を考えていたのか。。。

あの時、父と母の喧嘩が無くなった事で夫婦仲良く見えたのは、私が子供だっただけで、本当は母の父への気持ちは完全に冷め切っていたのです。あのまま母が生きていたとしても、家族が機能していたなんて幻だったのかもしれません。


遥か遠い幼い記憶の隙間に優しかった父がいる。私がシャンプーを嫌がると、泡のついた私の髪の毛をアトムにして洗ってくれた。あの銭湯の帰り、私は月を指さした。「月がくっついてくる!」と私が言うと、「地球が丸いからや」と父が言った。今頃、こんな時に思いだすなんてと、ため息をついた。


父は温かい家族という幻を探し続けていたのでしょう。自分を立ててくれる妻、子供からも慕われる父親、心の奥底ではそんな家族を探し続けていたのだと思う。。。しかし、思うようにならないから暴れていたのかもしれない。この時、その部分だけは、父の気持ちを痛い程私は理解出来ていました。

怒りたいだけ怒り、やりたい事を自分本位にしていた父でも、結局、父の人生の大半は苦行だらけだった。そして母より父の方が元々は純真な心をある意味持っていた。そして、母は悪気無く大きな裏切りをこの世に置いて旅立ってしまったのだと思いました。


そう言えば母が亡くなった後、父は母の指輪を出してきて、その指輪を処分して良いか私に聞きました。父が仕事先で買ってきた母へのお土産の大島紬の反物は、私に何も聞かず父は数ある彼女たちの誰だったかにあげてしまいました。又沖縄での仕事で父が母へ買ってきたロレックスの時計も私には黙って父の彼女のこずえさんへプレゼントしようとしていた。。。その時、こずえさんが「こういうものはいつか大人になる有加ちゃんの為にとっておかないといけないでしょ。お母さんの思い出があるのだから。」と窘められていた。

父があの指輪の事だけ私に聞いてきたのは、私を試していたのだと思う。「処分しないで。」と私が言えば、母の浮気を知らなかった事になる。「処分して良い。」と私が言えば、母の浮気を私が知って居た事になる。私はあの時、指輪を処分する事に同意してしまった。あの瞬間、私は母の共犯者である事を認めてしまったのです。

夜中に私を叩き起こし、横浜の埠頭で「ママは俺には何も言ってくれなかった。」と泣いた父は、母の裏切りを全部知って居て、本当に孤独だったのです。そしてその孤独が母によく似た私に憎悪という感情を募らせてしまったのでしょう。一つ一つ母との思い出を処分しながら、たった一つ処分出来なかったのが子供である私だったのです。母が亡くなって暫くしてから、父は彼女をとっかえひっかえ、否、同時に何人もの彼女を作ったのは、女性に対しての復讐だったのかもしれない。

そんな中、私は父に殴られ、暴力を受ける度に父の財布からお金を盗んだ。そして不純異性交遊が見つかった瞬間に父は完全に母と私を同一化し、近親姦という復讐をしたのだと思いました。一旦復讐だったものの、一度近親姦という一線を越えた父は、益々私に母を重ね魔物にとりつかれたように性への執着を増大させるようになったのだと思う。

しかし、私にも言い分はある。夫婦と子供の性の垣根のない生活で育ち、そのうえ、幼少期から母は私を浮気現場に連れていく。内緒にして良い事も悪い事も一緒くたにして内緒にさせる。そういう母に暴力をふるう父は、見せしめの様に私をも殴り、感情のはけ口にした。母親を失った私に妻への憎悪を膨らませ、私の事を人間扱いしない様な暴力を増大させ、次々彼女を取り替え、自慰行為をする父を見せつけられたのです。年頃になった私が不純異性交遊の一つや二つして何が悪い。と言いたい。

そして、たったそれだけの事でどうして一生を狂わせるような罰を受けなければならなかったのかと、心の中で叫び続けながらそれを閉じ込め、私は何十年も生きて来たのだと思った。


私は佳代さんの事を思い浮かべた。父はあんなに慈悲深い佳代さんに出会えたのだから、どうして思いとどまれなかったのだろう?しかし、父の抱える闇は思いのほか深く、すべてを人のせいにする思考回路のせいで我が身を顧みる事をしないで生きたから、心の闇に引きずり込まれてしまったのだと思いました。佳代さんと父の暮らしを私は殆ど知りません。でも父が言うには、佳代さんには殴ったりしていなかったと聞きました。父にとっては佳代さんが救いの人だったのでしょう。きっと父は自分の心の闇を無かった事にして佳代さんとの人生をやり直そうとしたに違いない。しかし、晩年になって父が鬱になったのは、どんなに無かった事にしても、父自身の心の闇が父を許してくれなかったのだと確信しました。

そして、鬱が治ったのか治らなかったのか分からぬまま、佳代さんが亡くなり認知症になった。佳代さんも又、父の心の闇の道連れにされてしまったのです。父なんかに出会わなければ大腸がんを早期発見するチャンスに恵まれたのかもしれない。佳代さんは本当に幸せだったのだろうか?そう考えると、私と父の事を佳代さんが知らなかった事が本当に良かったのか悪かったのか?わからなくなりました。しかし、父の人生を豊かにしてくれたのは佳代さんが居たおかげだったのです。父にとっては、佳代さんとの歴史だけが救いだったのです。私は佳代さんに深い感謝の気持ちを抱きました。

父と母に言いたい。欲望のままに生き、自分の心の闇を顧みなかったから、無念という感情を抱え自滅の道を辿ったのだ。それは、私も含め、あなた方のルーツではないか?と。。。

しかし、父が亡くなった母の幻を探し続けた気持ちも少し分かる様な気がした。


五年間に封印した私の二つの恋。あれは私にとって二つで一つ。

一つ目は泥水に咲く一輪の花のような恋。私は燃焼する事もかなわなかった無念さが残って居た事に今頃気づいた。もう一つの恋は何も始まっておらず、ただ戦っていた。真実は私の母性だけが生まれた恋だった。一つは女心、もう一つは母性。バラバラになった私の心の欠片が各々恋をしたのだ。あれは二つで一つの亡霊。そして私の壊死した心の象徴。遥か昔の箱に閉じ込めた幻。。。

もし、それを心にとどめ置けば、父が母の幻をつくりあげ彷徨ったのと同じになる。本田君でも健ちゃん無い、この地球上の何処にも存在しない幻を探し続ける事になるのだ。。それでは父と同じではないか。。。


母の味がするサッポロ一番。あれを食べる時いつも思ってた。母と一緒に食べた時の方がずっと美味しかったと。。。そして父も又同じ。貧乏だった頃、ママと飲んだ一本のビールが美味しかったと言っていたのだから。

私と父は同じ次元を堂々巡りしてしまっている。でも、これからは違う。私は自分の心の闇にしっかりと立ち向かっているのだ。私はあなた方とは違うのだ。

この時、正彦さんとの今後を考えてみました。私の抱え込んだ心の闇が彼を道連れにする様な事は決してあってはならないと。


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