因縁~女たちのルーツ~



  因縁~女たちのルーツ~


ある日、子供の器の問題を説いている文章に出くわし、読み進めると、DV被害に関して、例え親子の場合でも被害者になる方に実は問題があると書かれており、そういう文章に反応してしまう程、私の心はまだ尖がっていたのかもしれません。。。

物心つく頃、母をかばって、父からDVを受けたのが始まりの身としては、わずか三歳の頃の私がどんな器だったら、被害を受けずに済んだのだろうか?と考えると非常に憤りを感じてしまったのです。

しかし、器というものを因縁に置き換えたなら?きっと私は何かの因縁を抱えて生まれたのかもしれない。しかしそれを知って、何かの宗教に走るつもりもありませんでしたが、因縁を遺伝子の繰り返しと考えれば、人間は大昔から遺伝子を繰り返しながら現在の人間へと引き継がれている事は事実です。

この時、主治医を院長に頼む前、私の担当だった勤務医から言われた言葉を思い出せば、「この近親姦問題は過去三代前位まで遡って調べられるだけ調べ、考えなさい。」だった。

三代前まではさすがに情報がありませんが、私は、両親のルーツの整理をしようと思いつきました。


父方の祖父善太郎は大層な金持ちだったそうです。工場を持っており、主に作っていたのは戦艦。一家は一時的に上海に住んでおり、その時に末っ子の父が生まれています。上海での父の記憶が一つだけあって、それは私の祖母すなわち父の母の雪がいつもピストルを携帯しており、雪から「何かあったら一緒に死のう。」と父が言われていたという事。

日本に戦争の足音が聞こえる頃、一家は引き揚げてきています。善太郎は家を購入する際、金持ちであるのにわざわざ中古の家を購入。元の持ち主は女郎屋の主で、贅を尽くした作りのその家が気に入ったからで、父にとってはいつも誰かに見張られているような薄気味悪い家だったと聞きました。

雪は元々宮中の女官をしていたそうで、善太郎の元へ後妻として嫁入り。働き者だった雪は工場で出る屑鉄を集め、それを売る算段をまかされていた。。。そのせいで雪は忙しく、父を育てたのは雪に代わって住み込みの乳母でした。屑鉄も結構な金額で売れたらしく、善太郎の親戚からは、金になる仕事を回してもらえないと雪は妬まれており、そういう事もあって親戚たちは父たち兄弟より善太郎の先妻との間に生まれた腹違いの姉二人ばかりを可愛がっていて、父は疎外感を味わったと言っていました。

物資の無い時代、家の蔵に行けば一灯缶にお菓子をぎっしり詰め込み、それがうず高く積まれており、父は喧嘩に強そうな友達を蔵に連れて行ってはお菓子を振る舞い、喧嘩に弱い父が番長になり皆に威張った。しかし、それも終戦までの事でした。

日本が戦争に負けて、旧日本円は紙屑となり、戦争加担していた財産は没収。銀行は凍結され、英語の出来た善太郎はマッカーサーに会いに東京まで出向いて行き、門前払い。一家はあっという間に天から地へと落ちて行きました。

一番上の兄は沖縄で戦死。次男は就職で家を出てしまい、三男はグレてチンピラまがいになり、その兄は旧制中学に通っていた父の制服を質屋に入れてしまったり等、末っ子の父は割が合わなかったようです。そもそも貧乏が恥でも何でもないない時代でしたが、友に威張っていた父は貧乏に落ちた事がこの上ない恥に感じた事でしょう。そんな父に、晩年物売りなどをして食いつないだ善太郎の悪口を雪は話していたそうです。

食べる物にも苦慮して居た時、腐った柿を食べていた雪がかわいそうでならなかったと母親である雪に対する思いを父は私に話していました。父は辛抱する事を余儀なくされて大人になったと言う側面も持っています。仕事中も昼に素うどん一杯を食べる事を躊躇し、公園の水を飲んでしのいだ事。そして、父はたった一人で上京、東京での所属事務所を探す際、節約の為、ドヤ街を泊まり歩いたと聞いています。その後、マンションを借りる為の費用を一年で捻出する為、寿司屋の二階の折倉庫で暮らし、カツ丼を一個注文し、持って帰り、最初の日は、たくあんとご飯半分を食べ、次の日に、カツと残ったご飯を食べると言う風に苦労して、得たお金をコツコツと貯めて、私と母を東京へ呼んだと聞いています。父は尋常ではないストイックな努力の出来る人でもありました。


母の家系の女たちの歴史を見ると恐ろしいものを感じます。母は愛媛県松山市の農家の二女として生れましたが、生母である皐月の妹に子供が出来ないと分かって、兵庫県西宮市の本来叔母である葉月の家の長女として育ちました。養父の仕事は競馬場の蹄鉄師で、さまざまな競馬場を転々とする仕事で、町々に女の影ありの人だったようです。葉月は家事にたけた人でした。しかし朝の食事の支度だけは手を抜き、母はいつも茶箪笥のお菓子を食べて学校へ行っていたそうです。葉月は、晩年精神に異常をきたし、持病の悪化とともに精神の方は治療される事無く亡くなりました。それは私が三歳の頃であり、私には葉月さんの葬式の記憶しか残っていません。

戸籍上、母は一人っ子となっていますし、我儘放題に育ったようですが、生家では本来二女だった訳です。

母の生家の長女の市子は男とお金にだらしなく、それは最初の結婚で失敗してそうなったのか?元々がそういう気性だったのか?定かではありませんが、最終的には勝手に家の田畑を売りさばき、最後には失踪しています。最初の結婚で生まれた市子の長女はろうあ者で、私の従姉にあたるのですが、何をしゃべっているのか子供心に良く分からない人でした。施設を出たり入ったりの生活だった様です。

私が彼女に初めて会ったのは、私が幼稚園に入るか入らないか?の頃であり、良く分かっていませんでしたが、今思うと、年齢的には高校生位だった彼女の心は、非常にピュアだった様な記憶が残っています。一生懸命に生きてる人という印象だった。

その時の市子の夫が実は後に三女の澄子の夫になっていました。その組み合わせで生れた子(私の従姉)由美は健常者です。由美は、市子の娘と従姉妹同士でありながら、腹違いの姉妹という事になります。母が私を産んだのが二十四歳の時であり、母の妹である澄子の子供である由美が私より六歳以上年上であると言う事は、澄子は一体何歳の時に由美を産んだのかと考えると、ティーンエージャーで産んだことは間違い無い訳です。しかもその父親が長女の元夫であったと言う事は、今となって思うと、そこに性虐待が存在していたのかもしれないと想像してしまいます。澄子も浮気性の女で、田舎芸者をしながら浮気三昧だったと聞いています。夫(元長女の夫だった人)は博打好きで、仕事もしてるんだか何だかで、事業を始めては失敗する人でした。澄子は私の母が三十七歳で亡くなった翌年、尼崎の勤めていたスナックの客に男女のもつれで刺殺されてしまいました。当時、松山の田畑はとうに無くなり、長女市子の愛人が運送業を営んでおり、それを頼って一家全員で尼崎にアパートを何室か借りて暮らしていた時の出来事です。私が中学一年の夏休み、父と共に母の養父の家に行った帰りに尼崎に寄り、澄子の仏壇にお線香をあげた時、長女市子が愛人と家族を置いて男と駆け落ち、失踪している事や澄子の死が殺人だったという事を知りました。母の生母である皐月さんは生きているのか死んでいるのか?目が虚ろで、何かの度に「ワヤになってしもうた。」と言っていたのが印象的でした。私の記憶では、母の姉妹のうち四女の時江さんには私はこの時初めて会ったのだと思います。堅い仕事のお家へ嫁いでいて、その夫と共に来ていましたが、自堕落な家柄の尼崎のボロアパートに夫婦二人揃って座っている光景に私は非常に違和感を感じました。この人も母の妹なのか?と考えた時、嘘のような気がしたのを覚えています。一族の中で時江さん夫婦だけがまともに見えたからでした。

五女、里美は一番母と顔が似た人で、家が没落していく時の末っ子というものは、やはり一番損な役割になるのでしょうか?疲れ果て、ボロボロのように見えました。その里美も水商売をしていた。市子の愛人は市子の悪口をボロクソに言いながら、それでも、「この人らを捨てる訳にはいかんやろう。」等と言っていましたが、その言い方が非常に嫌な言い方で印象に残っています。父が帰り際に言いました。「ママの生家は因縁深い。今日で縁を切りましょう。」と。。。

私は母だったらどうするのだろうかと考えました。皐月さんは母を産んだ人なのです。私がこんなに母を恋しいと思っているのに、母が皐月さんを恋しいと思わない筈は無いと思った。母が亡くなる前、こん睡状態の時、一度だけ皐月さんの名前を呼んだ事を思い出しました。母に見捨てる事が出来る訳が無いのだろうと私は思いましたが、父に反論する事は出来ません。そのまま縁を切ったのです。


後に父から聞いただけの話なのですが、皐月さんと市子の愛人も出来ていた。。。

それが本当なら親子どんぶりでもあった訳です。


結局、この一家のその後は解らないのですが、みんな幸せとは程遠い人生を歩んでいるのだと思いました。

そして、こういう因縁は断ち切りましょうと言った父が、一番酷い因縁を私へと引きずってきたのでした。


母は子供の頃、IQが非常に高い事が解り、飛び級を薦められたのですが、養母である葉月さんが「娘を特別扱いしないでほしい。女性は普通に限る。」と言って断りました。そのせいか?母の口癖は「勉強なんかしなくたって出来る。」だった。。。怠けてもいつも成績が良く、これによって母の人格の中に人生を舐めてかかると言った思考回路が出来上がってしまったのだと思います。

それでも母は一つの目標を立てたのです。それは宝塚歌劇団に入る事で、お茶やお琴、お花等の月謝を勝手にバレエや歌のレッスンにあてていた。それが養母にみつかり、逆鱗に触れて断念したと話していました。自分の人生なのに思うようにならない中、信じていた両親が本当は違っていたと言う事を知り、母は荒れ狂うようにダンスホールに入り浸っていったのです。ある時、母に縁談話が持ち上がり、自由にならない家を出られるならと流れに任せ、結納まで済ませたところで、結婚前に遊ぼうと思った母は、友人に「誰かいい男を紹介してよ。」と言って紹介されたのが父だったそうです。遊ぶつもりだった母でしたが、父と大恋愛になり、結婚したいから縁談を破棄したいと養父母に告げました。

父はその頃貧乏な大部屋俳優で、当然の如く母の養父母に猛反対され、それでも母は、「駆け落ちします。」と言ってスーツケースに荷物を詰め始めた時、養父母が折れて縁談を断り、父と母は結婚に至り、貧乏だった父と暮らす家は母の実家の離れという事に決まって、そこで私が生まれたと言う事になります。


父は終戦と言う形でそれまで手にあったものを根こそぎ奪われています。私は大病院の壁に母から得られるものを根こそぎ奪われています。父も私も小学校生活を終わろうかと言う年齢で形を変えて同じような運命にあったと言えます。そして父も母も私も温かい家庭と言うものに飢えながら子供時代を生きる事になっています。父方の祖父は所謂戦争商人だったのです。祖父の作った戦艦で何人の若者が無念に散っていったのでしょう。私はそういった無念のエネルギーを感じます。そして祖父はその蓄財により、女郎屋の主の家を買い求めて、そこで父は束の間の我儘な時代を送っているのです。私にも束の間、母の前だけでの我儘な時代があります。テレビに出て優勝し、母に煽てられ、私は皆とは違う。特別なんだと子供ながらに傲り高ぶっていました。父のルーツの無念のエネルギーに加え、母のルーツにも無念な女性のエネルギーがある。性に翻弄される女性たち、私もその一部になってしまっていたのです。父と母のルーツを重ね合わせた時、二人は出会うべくして出会い、決して褒められない因縁の縁で結ばれた夫婦であり、私はそれらすべてを背負って生まれたのだと思いました。

正彦さんの祖父は、私の祖父一家が上海にいた頃、一家で大連で暮らしていました。そして両家とも、終戦のドサクサで帰国したのではなく、財産を作って終戦前に帰国しています。ただし、正彦さんの祖父は私の祖父のような成り上がり者ではなく、人徳者であった事は事実です。しかし帰国後正彦さんの父親である祖父母の長男によって財産は散財していく事になります。両家とも大陸に渡って作った財産は消えていく事になったのです。

正彦さんは母親に縁が薄く、好き勝手に生きた父親を一時期は憎んだ事もあったそうです。正彦さんの奥様は私の父と同じ職業、女優だった人で精神の病で人生の殆どを入院生活せざる得ない彼女を支え続け、私もまた母親との縁が薄く、父の事を憎しみ続けた時期があり、その父は気の狂った所業をし続けたのです。私と正彦さんも又因縁の縁で出会ったのだと思います。

人の一生というものは、こうやって大きな出来事を並べてみると、本人だけのもののようで、実は、何かに操られているのだろうか?そんな風に思ってしまいます。

この頃、気になって母の執刀医であった米倉氏の近況を調べてみました。平成二十七年六月に持病の慢性じん不全の悪化により八十二歳で死去されていた。腎臓病の合併症患者には効果が無いと発表されていた手術を、腎臓病の合併症患者の母に手術をした医師が、長い年月の果てに腎臓病で亡くなったのです。これも何かの因縁だったのでしょうか!


もう一つの因縁、私は大人になってから犬を飼うのにいつも一匹を溺愛したかったのです。しかし、事の成り行きでいつも二匹を飼う事になってしまう。その上今の二匹。自分の遺伝子を憎んだ私なのに父に似た男の子と母に似た女の子によって、家族のやり直しをしようとしていたなんて。そんな事をホメオパシーの先生に言われたのを思い出しました。

私が一生の中でどうしても産みたいと思った子達は双子だった。双子と二匹、これも又何かの因縁だったのか。。。

何だか私の人生は無念なレールに乗っかった人生のような気がしました。

しかしその因縁、悪い事ばかりでも無かったともう一つ思い出したのです。

ミュージカルの初舞台の時、立ちんぼ娼婦の役だった。そして、舞台もレビュー小屋のステージで踊る時にも感じていた何か降りてくるもの。

私は振りのテクニックを見せるというより、何か情念めいたもので踊るシーンが得意だった。女性を無念と言う感情で不幸にする母のルーツ。しかし、あの小屋でその無念は情念と言う形になって私に栄養を与え続けた。誰にも認めてもらえない、秘密にしなければならない無念の遺伝子が活躍できる場所を得て、一部は浄化されていたのかもしれない。それを繰り返す事によって、私の細胞の中の隠れた遺伝子が私の心を修復し、ダメな人間からダメではない人間へと化身させていた。。。色んな人に助けられながら、私はその後を生きられるだけの力をあの時、貰っていたのです。それは、困難な中でも生き抜くといったエネルギーの様なものだったのかもしれない。

今は辞めてしまった仕事だけれど、そしてもう元には戻る事は出来ないけれど、あのショーの仕事も舞台も私の人生に大きな華を咲かせてくれていた事は紛れも無い事実なのだから、この歩みは私にとって最適な歩みだったのだと理解しました。

因縁と言えば、忌み嫌う傾向にあるけれど、そういう事ばかりではない。私の味方になる事もあったのです。隠れた遺伝子というものは、かつてこの世に生を受けて生きていたと言う証しなのだから、嫌ってしまうのは、違うと思いました。良い事も悪い事も全部私なのだ。それは私が生まれた時からだけではない。もっと前から、全部が積み重なって今の私なのだ。まだまだ、隠されたたくさんの遺伝子がある筈。だったら、今からだって、きっと何か出来る筈。

どんな時も自信を持つこと。。そう、恩師からも習ったではないか!

そう思うと心の中でスルスルと何かが静かな音を立てて、流れていくものを感じました。

良い行動を起こして良い結果を招くこともある。悪い行動が悪い結果の場合もある。しかし、悪い行動が良い結果に結びつくこともある。逆もある。そして、その良い悪いに定義は無い。

嘗て、双子の子供を中絶した日、私は谷底に落ちたはずだった。でも、急浮上した。あの直前、何とか自分の生活を変えたいと。。戦って居た。戦えば戦うほどにマイナス要素の行動を積み重ねてしまった。しかし、私の運命が変わった。又、ある時は飼い犬の下の女の子が処方ミスを受けた。この時も経済、難病、因縁と戦って居た。そして、その導きから奇跡が起きた。私はああいった時、いつも目の前の事に専念していた。そこには法則も、マニュアルも私の頭の中に入る余地など無いくらいに目の前で起きている事に立ち向かっていた。そして、そういった時、私の人生はツイていたではないか。

マイナスを重ねプラスに転じる「宇宙の法則」

はあるのかもしれない。しかしその法則を真似ても結果は出ないのだと思う。どんな法則にせよ、自分に必要な事を知るに至るプロセス。要は導きが自分の人生プログラムに組み込まれているか否か?振り返った時、自分の歴史が教えてくれる事なのだと思う。大事なのは目の前の苦難に専念する事。そしてツケは払わなくてはいけない。五年間の闇を無視して上っ面で生きてしまったのだから。


心のすり鉢の淵からグルグルまわり回って、闇をかき分け晴らしながら、いよいよ底の方に近づいてきた。ここから先が一番の難関なのかもしれない。私は母の事をもう一度深く考え始めていました。

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