第2二章 幼少期
遠い記憶~自堕落な母~
遠い記憶~自堕落な母~
私が小さい頃、一家は関西に住んでいて、私は近所のおうちの前の石段なんかに立って良く歌を歌っていた。この姿を見た母は私を本当は宝塚に入れたかったらしいが、子供なのに体の硬い私に踊りは無理だと断念したかわり、私を歌手にさせようと考えていたようで、私が歌を歌うと褒めてくれた。
「大きくなったら何になるん?」と聞く母に私は歌手になると答えていたが、所詮子供の言う事。そのうちに私はテレビアニメの影響で「バレーボール選手。」と答えた事もある。しかし、「違うでしょ。有加ちゃん。歌手になるんでしょ?」と返えされる。それは私が歌手になると言いなおすまで。。。
父は怖い人。痛い事をする人。母は父に殴られてかわいそうな人。私が歌うと褒めてくれる人。優しい人。私は母のお気に入りになりたくて母の前ではいつも歌を歌っていた。
昭和三十七年新緑の頃、私は兵庫県西宮市で父芳彦と母昌江の長女として生まれた。名前は有加。母から聞いた話では出産の時、かなりの難産だったらしい。まぁ、私は私でこの時から始まる自分の人生をボイコットしようと必死だったのかもしれない。
私が物心つく頃、父と母は派手な喧嘩ばかりしていた。一度母をかばった事がある。その時、父は鬼の形相で今度は私を殴り、私を抱え上げ、タンスに投げつけた。母が「アンタ。殺す気か。」と怒鳴り、今度は母がボコボコに殴られていた。それ以来私は二人の喧嘩が始まると声を殺して部屋の隅で泣いていた。
それでも私も一緒に暴力を受ける事もある。例えば母の洗濯物の干し方が悪いと言った事で二人の喧嘩が始まって、こんな母親に育てられたらお前もこうなると言って、母に見せしめのように私も殴られるのだ。
近所には「ミスジ」というパン屋兼喫茶店があり、母は良く私をそこへ連れて行った。自分にはコールコーヒーを注文し、私にはプリンを食べさせてくれた。店主が幼馴染みだそうで散々喋った母が帰り際に「ツケといて。」と言っていたのを私は良く覚えている。月に一度はその支払いの事でも喧嘩をしていたが、その頃の私に大人の事情は分かる筈も無かった。
私は、いつの間にか父に接する時と、母と二人きりの時と自分の性格を使い分けるようになっていった。母の前では自由に活発に自分の思いつく事を喋る。但し、大きくなったら歌手になるという思い込みだけは母の言うとおりにした。
父の前では物言わぬ子。静かにしている子。声の小さい子だった。でも、よく声が小さいという事だけでも暴力を受けていた。殴られると痛い。泣きながら謝ると理由を言えと言われる。答えられないでいると「お前がダメな人間だからだ。」と言われる。そして「言ってみろ。」とも言われる。私は「ダメな人間」という言葉を言われ、言わさせられ殴られる。。。
当時、私は良く熱を出す子だった。ヒキツケなんかも起こした事があるらしい。
今思えば、あの環境で育てば当たり前のことだったのかもしれない。
家は母の実家の離れ。母屋とは庭で繋がっていたが、父と祖父とは仲が悪く、まぁ、あれだけ派手な喧嘩をしていれば祖父も面白くなかったのだろうけれど、ある時母屋と離れの間に塀を建てられてしまって、それ以来私は銭湯に行かねばならなかったし、祖父に会うのにわざわざ外に出なければならなかった事が不便だった。
近所には私のお気に入りの「桶屋のおばちゃん家」があり、おじちゃんは清酒会社に勤めているが、夕方になると帰って来て、家の入り口の作業場で桶を作っていた。昼間おばちゃん家に行くとおばちゃんは内職や畑仕事をしていたが、私はそれを手伝うのが好きで、針に糸を通してあげたり、畑でおばちゃんと一緒に収穫するのも好きだった。その頃おばちゃんの息子さんは大学生。小さい女の子の私をおばちゃんは本当に可愛がってくれた。
母は家に居る時は寝転がって生きている人だったから、私はつまらなくなるとおばちゃんに会いに行くのが楽しみだった。
「有加ちゃんは優しい子やから大きくなったらお嫁さんになって幸せになるんやろな~」と言われた事がある。私は「お嫁さんになんかなったら幸せにはなれへんで。」と答えた。
私にはお嫁さんになった母が幸せそうには見えていなかったのだから。
私が小学校一年の時、父が一年程単身で東京へ出て行ったことがある。東京での仕事の地盤固めの為だった。その間、私は天国にいるようだった。
良く、「北の新地」とは言うが、母はその北だか南だか忘れたが、夜のクラブで早速ホステスをやり始めた。私は夜になると近所に転々と預けられたが、そこではまともな食事にありつけた。母は家事一切できない人で、出来合いのものを私に食べさせていた。当時はグルメな時代では無かったので、私は美味しいとは思わなかったし、食事が大嫌いだったので困らなかったけれど、預けられた家での食事は大して豪華では無く、むしろ質素なものだったけれど美味しいと思った。それに加え、小学校の給食も美味しいと思っていた。
母は私を可愛がらなかった訳では無い。毎日繁華街に出ている母は、私に可愛らしい服や、髪を長くしている私の為に友達が持っていないような髪飾りを良く買ってくれた。朝になって家に戻り、寝ている母を起こして髪を結って貰う時、私は幸せだった。そして母の事が大好きだった。
日曜になると知らないおじちゃんも一緒にお出かけした。知らないおじちゃんは三人程いて、かわるがわるのお出かけだった。丁度万博が開かれていて、おかげで私は万博には三度も行く事になる。私が楽しかったのは、エキスポランドの方で、一番の思い出はダイダラザウルスというジェットコースター。あれは1番から5番があって5番が一番スリルがあった。母と二人で乗り、私と母はゲラゲラ笑い、絶叫した。
下でおじちゃんが手を振っている。他人から見たら親子三人の光景。
父と母と三人でそんな思い出は皆無だ。たまにデパートへ出かけても父と母の喧嘩が始まる。帰って来て父が大暴れになることだってあった。そして私はいつも無口で憂鬱だった。存在を消す努力をした。
おじちゃんと一緒のお出かけの決まりごとは夕食も外で食べる事。カニをコースで食べた事もある。入り口にカニがうごめいているお店だった。そして必ず連れ込み宿に寄った。
連れ込み宿を出て帰る時、母に必ず言われた。「パパには内緒やで。」と。。
母が言う言葉の違いがある。「誰にも言うたらあかんで。」と言われると、私はしゃべりたくてウズウズしてしまう。で、結局桶屋のおばちゃん辺りに喋ってしまい、母に叱られる。しかし、「パパには内緒やで。」と言われた時は必ず約束を守った。それは父だけでは無く、他の誰にも私は喋らなかった。
今考えるととんでもない母だったが、あの時の私は母の事がやっぱり大好きだった。そして父の事が大嫌いだった。
東京から父が帰ってくると私に緊張が走った。そのうえ、一家三人で東京へ行くというのだ。
ルルという飼い犬が居たが、ルルを知り合いのお金持ちのおうちへ里子に出す事も知らされた。競馬場の蹄鉄師だった祖父一人では留守中ルルの面倒を見られない事が理由だった。その父と険悪だった祖父ともお別れらしい。私は父だけが永遠に東京に居ればいいと思ったが、従うしか無かった。私が小学校二年の冬休み、一家は東京へやってきたのだ。
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