懐古



  懐古


いつも通りの日常、やっと平穏な生活を手に入れる事が出来た。明らかに前とは違う。偏頭痛も無くなったし、悪夢も見なくなった。夜中に大声で叫ぶ事も無くなりました。しかし何か虚しい。何だろうこの感覚。

何か優しいものに包まれたい。良きパートナーが居てかわいい犬達が居て心に抱えた闇を少しづつ取り払う事が出来たのに、その後に何を埋めたら良いのか?迷子になってしまった様に感じる。それでも前より明らかに前進している。これで良かったのだ。そう自分に言い聞かせている。

突然、ラジオから明るいサルサの曲が流れだす。このままここにじっとしていても始まらない。一つため息をついてからエンジンを切り、私はエコバッグを持って駐車場からスーパーマーケットの店内へ入って行った。


ラーメンが陳列されている棚で足が止まる。

「サッポロ一番。」懐かしい。

ふと記憶の奥から聞こえて来る。「塩、味噌、醤油、どれにする?」懐かしい母の声。

私の幼少期、特に関西に居た頃、母は殆ど料理はしなかった。しかし、私が小学校二年の冬休みに親子三人で東京に出て来ると、母は多少なりとも変った。

朝になると聞こえてくる言葉。「塩、味噌、醤油、どれにする?」トッピングはマーガリン。野菜も葱すらも入れないズボラ料理。

私はそれを食べて小学校へ行く。あの頃幸せだったのだろうか?


そう、あれは私が五年生の夏休みだった。

サッポロ一番の味噌味を私は一パック買い物かごへ紛れ込ませた。会計を済ませて帰宅し、一目散に台所へ行く。お湯を沸かし麺を入れ、スープを入れ、最後にマーガリンを落とす。バターの方が美味しいのは分かっているけれどそれでは母の味にはならない。

もう四十年以上は経つというのに変わらない味、母の味だ。


私と母は友達親子のように仲が良かった。我が家には「パパには内緒」という事がたくさんあって私が歌を習う事や、母が勝手にテレビののど自慢番組に応募する事も内緒だった。

五年生の夏休み、私はある生番組ののど自慢に出演する事になり、その日はたまたま父の仕事が休みの日で、私は学校の行事だと嘘をつき、一足先に会場へ行った。母も用事があると父に嘘をついて後からやって来た。「チャンネル。変えて出てきたけれど、見るかな~心配だ。」と母が言った。結果は私が優勝してしまい、賞品は母の親戚に送って貰うように母が手配した。しかし、私の腰の高さもあるトロフィーだけは持って帰らねばならなかった。帰り道、いつも母と歌のレッスンの時に行く甘味喫茶で打ち合わせた。

打ち合わせで決まったのは、母と私はバスで偶然会った事にする。トロフィーは家の玄関の外へ置く。バレていたら後から持って入る。バレていなかったら後でゴミ置き場に捨てに行く。

そうして不安が募る中、家に帰ると父が玄関の所に出てきて「お前達!」と仁王立ちになった。

あぁ喧嘩が始まる。怒られる。と私は身構えた。

しかし父はすぐに笑顔になり「有加。歌上手くなったな。」と言った。

元々私を歌手にさせたかった母は、早速父を説得しようとかかりました。私が歌を習う芸能学院で月謝が半額免除になっている事、そして「有加は女の子だからダメだったら嫁に出せばいいじゃないですか。」と母が言った。父は「譜面の読めない歌手はダメだ。芸能的な勉強も良いけれど、有加をクラシックの付属に入れて音楽の基礎も学ばせた方が良いのではないか?金なら何とかする。」と言いだした。

いつもだったら、喧嘩になる筈の話。しかしこの日初めてきちんと夫婦の話し合いと言うものが成立していたような気がする。

我が家にはその他にも父と母の喧嘩の火種になるような事はたくさんありましたが、この日を境に父も母も雪が溶けるように仲良くなっていった。歌手にならなければならないと言う事。私の意思はどうだったのか?そんな事より二人が仲良くなれて親子三人家族が機能し始めた事が今思うと私は嬉しかった。賞品の天体望遠鏡だけは親戚では無く我が家に送ってもらうようにテレビ局に変更の電話を母が入れてくれた。


届いた天体望遠鏡で、秋になりベランダから月を見た。機嫌が良かった父は、望遠鏡を組み立てながら「パパは望遠鏡で月を見るのは初めてだ。有加のおかげだね~」と言った。父に心の底から褒められたのは初めてだったような気がする。母も笑顔だった。あのまま母が生きていたら、きっと良い家族になれていたんだろうなぁ。。。

でも、そんな束の間の幸せはそう長くは続かなかった。運命はやってはならない手術へと母を導いていった。


お正月が明けて、母は目の手術の為、都内の大学病院へ入院。失明を免れる為の脳外科手術でしたが術後がよろしくなく、昭和四十九年四月二十二日迄の約四か月の間に計四回手術をしましたが、この世を去った。

当時の患者の人権は今ほど優遇されているものではなく、家族にとっても過酷な闘病でした。だからこそ父と母と私の絆はより強固なものとなっていった筈。

母の命を賭けざる得なくなった手術により大人と子供の差はあっても、あの時、父と私は同志になった。

普通の付き添い婦さんが嫌がってやめてしまうような看病。祈るような看病。それをあの時私と父は協力し合って頑張った。「ママを絶対に生きたまま家へ帰す。」これが父の口癖だった。父は「最後まで諦めたらいけない。」と言う事を私に教えようとしたのだと思う。ところが母が死亡してしまった事で、その上あんな手術だったという事を知ったのです。巨大病院と言う壁に屈服した父は心を捩じらせてしまったのかもしれない。それは極端な変化ではなく、ジリジリと父の心を蝕んでいったのだろう。父は一体、いつから父親でなくなってしまったのか?


私は元々父の事は好きでは無かった。当時子供だった私にとって父は厳しい人、怖い人、そう神のような存在だった。それでも、母が亡くなってしまって、頼れるのは父だけだと私は子供ながらに悟ったのです。母が亡くなって最初の頃は、父に褒められようと努力したように思う。家事が下手くそな母の娘である私。まして小学生。家事などできる筈もありません。しかし、日々食事はしなくてはならない。十二歳手前だった私はお味噌汁ってどうやって作るんだろうと思い、作ってみた。お味噌汁が上手に出来れば褒められると思い込んだのです。ところがお湯を沸し、刻んだ若芽を入れ、お味噌も入れたのに味がしない。私はどんどん醤油を継ぎ足し、とうとう赤だしかというような色になり、困っていた処へ父が帰ってきた。私はモジモジしながら父に「お味噌汁を作った。」と言うと、どう考えても美味しくないその味噌汁を父は飲みほし「有加の作ったお味噌汁は美味しいね~でもママの作ったのと同じにしたいのなら、スーパーに出汁の素が売ってるからそれを入れるといいよ。」と声を裏返しながら言って涙をボロボロこぼした。この時の父は、まだ父親だったのだと思う。


それからすぐに私は初潮を迎えた。元々成長の早かった私の為に、小学校四年に上がる頃には母がどうやって対処するかを教えてくれていて、生理用品は箪笥の隅にある事を私は知っていて慌てなかった。それより母が言っていた事「これは病気では無くお祝いする事なのよ。ママの時にもおばぁちゃんがお赤飯を炊いてくれた。」と言うのを思い出した。しかし私にはお赤飯なんか作れません。仕方なくスーパーでパックのお赤飯を買って、お祝いなんだと思い込む。父が帰宅。「何故お赤飯?」と聞かれる。私が話しだすと、父の目から熱いものがこぼれてきた。「ママは有加にそんな事まで教えていたのか。パパはこの事をどうやって有加に教えたら良いのかママが死んでからずっと悩んでいた。ママはすごいなぁ~」と言いながら泣いていた。


この時も、ちゃんと父親だったのだと思う。

いつから父は?という事ではなく、きっと母があの様な亡くなり方をしてから、父は母の幻想を追いかけ、そんな時の私のこんな小さな行動が、余計に無念さと言う感情を父へと運び、益々父は母の亡霊にとらわれていったのかもしれない。きっと父は感情が揺れる中、行きつ戻りつしながら徐々に父親では無くなってしまったのだろう。もしかしてどこかの歯車の一つでも欠けていたとしたら、こんな人生にはならなかったような気がして、一筋涙がこぼれた。


母の味がするサッポロ一番。箸をすすめる毎にいろんな思いが頭の中を駆け巡り、温かいラーメンのスープは、私を遠い記憶の彼方へと運んで行ったのです。

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