遠い記憶~母からの呪縛~



  遠い記憶~母からの呪縛~


東京へ出て来ると母は早速大手芸能プロの芸能学院に目を付けた。当時子供を受け入れていなかったようだが、母は電話をかけ、粘って私をその芸能学院へねじ込んだ。

個人レッスンに行く時、母の体調の良い時は一緒だったが、大体は私一人で土曜の午後は当時住んでいた杉並から新橋まで一人で通った。当時のカセットデッキは百科事典程の大きさだったが、それをスポーツバックに入れて通い、レッスンを録音し、普段、学校から帰ると毎日その録音テープを回して私は母の言う通り歌の練習をしたが、父は猛反対だった。

「お前はあんな汚い世界に娘を入れたいのか。俺が芸能界でどれだけ苦労しているかお前はちっともわかってない。」と母に言って大喧嘩になる。父は私に「お前は歌手になりたいのか?」とも聞いてくる。なりたくないと言えば、母との関係性が壊れる。事実私は歌手になりたいと思いこまされていた。当然の如く、歌手になりたいと私は言う訳で、小学校三年の私は母と一緒に暴力を受けることになる。

我が家には一尺の物差しがあって、それが私を叩く道具だった。その物差しは叩く勢いでバランバランに割けていて片方をとめてあった。

レッスンを続けさせると母が言い切ったその後、歌の特訓と称しての父の暴力が一つ加わったのだ。母との喧嘩も益々激しくなって行った。私はいつか母か私がもっと酷い事件の中心人物になるのではないかといった恐怖ばかり感じていた。


その日は母が勝手に応募し、私が出演して優勝したのど自慢番組の放送日だった。その番組を観た父は酷い歌だったと言いだし、私に何度も同じ歌を歌わせ、出来損ない呼ばわりをしながら暴れた。母が言った。「いつも通り過ごさないとパパがもっと暴れるといけないから、学校に行く振りをしてマンションの給水塔のところに隠れていなさい。後でパパが出かけたら、迎えにいくから。」と。。

私は屋上のさらに上にある給水塔まで梯子で上り空を見た。すがすがしい快晴で、いつか自分が歌手になった姿を想像する。母の言葉を思い出す。「ママは病気だからパパとは別れられない。」。。。

私は一生懸命歌の練習をしていつか歌手になって母を救いたいと思いを巡らせ空に誓った。

この時以来、母と私の秘密が一つ増え、歌のレッスンはやめた事にした。

父の稼ぎでやりくり出来なかった母は、自分の病院代がかかるからと嘘をついて歌舞伎町でホステスを始めた。しかし、母は父が京都の仕事の時は朝まで帰ってこない事が多かった。おそらく浮気をしていたのだと思う。

あの頃、私が歌手になりたいといった気持ちより母の私を歌手にさせたいという気持ちの方が遥かに強かったように今は思う。

母は父に見つかってしまう危険を承知で私をのど自慢番組に出演させるため、勝手に応募するようになっていった。そしてホステスで稼いだお金でレッスンや番組出演時の私を目立たせようとして、洋服を買ってくれたりもした。

母にコントロールされていた私はそれはそれで嬉しかったが、しかし、私の本当の気持ちは私一人か?もしくは父と一緒に母を待つ夜が嫌いだった。洋服なんかより、母に側に居てほしかった。

それに母の病気。。。

子供だった私に母の病名が分かっていてもその病気が一体どんなものなのか?分かりもしなかった。

ただ、時々入院する母の事が心配だった。

そう、「ママ、死なないで。。」幾度かそんな事を言った記憶が蘇る。

そんな時、「死ぬわけないやろ。」は母アッケラカンとしていた。

どんな時も明るい母だったけれど、今思うととんでもなく自堕落な人だった。節制と言う意識の欠如した人でもあった。


ある日我が家に新聞記者がやってきた。突然の事だったが、母は家の中に招き入れた。そして何やら怒りに満ち溢れながら喋っていた。なんでも話してくれる母だったので事の顛末を聞く事になるのです。

そもそも母は毎日インシュリンを打っていた事から私が三歳の頃から糖尿病だというのは知っていた。しかし、最初の頃は投薬だけだったらしい。

病院でお薬を間違えられて腎臓まで悪くなってから、インシュリンも必要になったと聞いた。

その時、訴えを起こして負けたそうで、その訴えている期間、一家全員地域の診療を拒否されたとこの時聞いた。そう聞くと私にも覚えがある。

私が高熱を出した時、いつも行く内科の先生が病院の外まで出てきて、

「あんたらを診たら医者で居られなくなるんだ。」と言っていた。

私は母におんぶされたまま電車に乗り、神戸の方の病院まで行った記憶が蘇る。母に処方ミスを起こした総合病院はその後、不祥事が続き、記者が調べているうちに母の件にたどり着いてやってきた訳で、朧げだった私の記憶がこの記者が来ることに寄って色濃くなった一日だった。


今思うと水商売なんてきっと体に負担がかかっていた筈。しかし、やはり子供の私は、この時は母の話を相槌を打ちながら聞くだけ精いっぱい。


そんなある日、母は糖尿病性網膜症を発症させてしまった。直後に待望の新築の公団住宅が当たったのですが、一家が杉並から世田谷に移り住んだあたりから、運命が加速度的に変化。

それは私が小学四年の冬休みだった。

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