父との再会



  父との再会


平成二十四年六月、福祉課の方、ケア事務所の所長、ケアマネさんと私が集まり、世田谷の福祉課の一室で話合いました。

ケアマネさん曰く、今回の認定は家族意見が無かった為、要介護一でしたが実際はそれ以上の進んでいるとの事でした。

父の様子は毎日新宿のデパートへ行き、買い物をしたりしている様で、失禁や徘徊も始まっている。夜間、団地の廊下や外で寝ていたりもする。電化製品、ガスのつけっぱなしなども頻繁。一度水を溢れさせてしまって団地の管理の方にも迷惑をかけたと聞きました。

とにかく服を買って来ては積み上げていて、それは片づけさせて貰えないそうで、食事などの世話をしてくださっているそうです。

私が支払いをどうしているかを聞くと、引き落としにしているので心配無い事と、「見えてしまって。。。」と言いながらその手続きの時にちょっと数えられないような桁数の預金を父はもっている事を教えてくださいました。

どう言う訳か父は毎日スッポンポンで家にいるらしく、いつも何か服を着て貰うところからが介護のスタートになるとも聞きました。


どうやって父と再会するか?私としては父の意思がどうなのか?を知ってからにしたかったのですが、娘は居ないと父が言って居る以上、先にケア側の人間が父に打診したとして、余計な事をしたと思われてケアを解除される事があった場合、父にとって良くない等、色々話し合ううちに偶然を装い私が気まぐれに電話をするというのが一番良いだろうと決まりました。

話合いが終わり駐車場で立ち話になった。

ケアマネさんは職業柄、年老いて弱った老人を見放してしまうお子さん達の案件に良く遭遇するらしく、私の苦労を労いながら、父と会う決心をした私にありがとうと言ってくださいました。私はくれぐれも父と私の事を知った事を秘密にして貰う事と、これからの父のサポートを頼みますとお願いして帰りました。


翌日お昼過ぎ、私は父に電話をしてみましたが居なかった。夜になってから電話をすると父が電話に出ました。

私が「パパ。有加です。」と言うと父は「ああ有加か?元気か?」とまぁ足掛け二十年近くも経った様なそぶりも感じさせず、普通の御無沙汰位の感じで電話に出てきました。私もそれに合わせて「どうしてるかなと思って電話した。」と言うと「佳代さんが死んだ!」と言って、いきなり泣き出しました。私は初めて知ったように装いましたがそれでも涙はこぼれまた。

「とにかく今から行くから待ってて。」と言うと父は「今から来られても裸だし。」と言った。「え?裸?何か着といてくれないと~」と私が言うと「そんな難しい事を言われても~」と父が言いました。「とにかく行くからパンツ位は履いといて。」と言って電話を切りました。

家ではスッポンポンで居るのは本当だったのかと驚いた。丁度正彦さんが家に帰ってきていた時でした。彼は電話での私と父との会話を聞いていて、私が父の事をパパと呼んでいる事と長年縁を切っていたような会話ではないのに驚いていました。

父にこれから会いに行く事、場合によっては父を許す事になるかもしれない事を私が言うと彼は「許そうとしている君の心は素晴らしい。早く行ってあげなさい。」と言って私を送り出してくれた。


実家がどのような状態なのか?どの程度酷いのか私には想像出来ませんでしたので、とりあえず、スーパーでお寿司と果物と飲み物を買って実家近くのコインパーキングに車を止めて向かった。ケアマネさんから支払いは問題無いと聞いていましたが、それにしても、ずっと団地暮らしをしていたのかと思うと、どう言う訳か今日の日の為に父はこの団地にとどまっていたような気がしてならなかった。

部屋に入ってびっくりしたのは、まず匂い。まるで、どこかの汚い公衆トイレのような匂いでした。そして、次に驚いたのは、足の踏み場もない程の服。まるでゴミ屋敷のように服が山積みになっていて、そこを掻き分け入って行くと、父はパジャマを着て待っていた。真っ白くなった無精ひげを生やし、昔の父の面影はありませんでした。父は「有加には悪い事をした。」と言って、泣きじゃくりながら何度も私に謝った。その瞬間、私も泣きながら、それまでに、ため込んだ怒りも、憎しみも、恨みも、すべて流せたような気持ちになった。一年前、岐阜の教授から言われた、「流せ」という事はこの事だったのか。。。私は瞬時に父を許す事にしました。

佳代さんは大腸ガンだったそうです。最初に行った病院で、痔だと言われ、痔ぐらいで仕事は休めないと言って、仕事をしていたそうです。それでも、父は医者は三軒周らないといけない。せめてもう一軒と言って、行かせたそうですが、そこでも痔だと言われ、内視鏡検査等しないでいたら実はガンになっていたようで手遅れになったと言っていました。「有加のママも病院に縁が無かった。俺は二人も妻に先立たれた。」と、父は泣きだしました。私は「パパの調子はどうなの?」と聞いた。六十五歳の頃、脳梗塞をして入院したそうです。救急車を呼ぶのが早かったので、ほとんど後遺症は無かったと言っていました。七十歳の頃、うつ病になったそうです。佳代さんが亡くなった後、父は車で首都高の出口から入ろうとしたみたいで、何かおかしいと思って停車していたら、前からトラックが来て正面から追突されて、車を大破させたそうです。「大丈夫だったの?」と聞くと、エアバックに強打して、病院に入院して、しばらく胸が痛かったけれど、今は大丈夫だと答えていました。「うつ病はその後、どうしたの?」と聞くと、少しおちついても、感情がコントロールできなくて、佳代さんに助けて貰いながら鬱の事は秘密にして仕事は続けたそうです。

父曰く、私は北朝鮮に行って死んでいると思っていたのだそうです。私はびっくりしましたが、聞けば、父がうつ病になった時、佳代さんが警察まで行って拉致被害届を出そうとしたら、私の情報がそれには当たらないと言われて、佳代さんに諦めましょう。」と言われたというのです。

きっと、何も知らないにしても佳代さんの心の中は辛い時期だったのだろうなぁと想像しましたが、あえて私は明るく振る舞いました。「じゃぁ、私は北朝鮮に居ると思ってたんだ。練馬に居たのにね。」と言って笑った。「ところで、佳代さんの仏壇も位牌も無いけれどどうしたの?」と聞くと父は「そんな物は無い。」と言った。「お葬式は?」と聞くと、「したけれど誰も来なかった。」と言うので「呼んだの?」と聞くと、呼ばないと言っていました。一体、どんなお葬式をしたんだか。「そうそう遺骨はどうしたの?」と聞くと、父は「ハワイに散骨した。」と言いました。どうも平成二十三年の年末に一人でハワイに行き、全部撒いちゃったのだそうです。この日はそんな会話をして帰って来ました。その後、私は仕事がありますので、週末、土曜か?日曜のどちらかに実家に行って片づけとかをしようと考えました。どこか?ボケているとは思うのですが、会話は何となく成立している様な状態の父でした。

帰宅後、彼にこの時の報告をしました。

暫く、週末実家に通う事、不便をかける事を伝え、「ごめんね。」と私が言うと、彼は快諾してくれました。

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