介護
週末になり、私はリハビリパンツを父に勧めました。意外だったのは、すんなりと嫌がらず、履いてくれた事です。最初は一~二回吸収のものが気にいったようで、それをこまめに取り換えて履いてもらいました。私と再会するまでの父はあちこちでお漏らしをして迷惑をかけていたようで、自宅ではトイレが間に合わず裸族になっていつも側に尿瓶を置いていたそうです。おむつを知った父は、安心して出かけられると喜びました。
実家へ行くと、父は「デパートに行こう!」と言い出します。デパートに行くと此処は佳代さんと行った。ここに座った等と佳代さんとの思い出を語りはじめる。平日も毎日行っているようで、父は私の母が亡くなった後は母の面影を追い、今度は佳代さんを亡くすと、佳代さんの面影を追って毎日デパートへ通っているのだと知った。デパートでは父と佳代さんは顔聞きだった様で、行くと特別室のような場所で休憩したり、買い物をしたり食事をしていたようで、私は行く所々で名刺をもらいました。そして、お嬢さんがいらしたとは知らなかった等と言われた父は私の事を先妻の子だから縁が薄かったと説明していました。どこのお店の方にも良かったですね。素敵なお父様とご縁が復活してと言われる事に少々違和感を感じた。何だか仮面親子が復活したような気がしました。
それにしても父のデパート通いは何とかしないといけないと思いました。毎日タクシーで行くのです。そしてそのほとんどは同じ処で食事をします。注文するものはフカヒレ麺とビール。時には開店前に行き開店を待ってレストランでも待ってフカヒレ麺を食べて、映画館で映画を観て一旦タクシーで帰り、再び夕食を食べに又タクシーで行き、同じフカヒレ麺を食べタクシーで帰る。タクシーを利用するから往復出来るのであって、これは一種の徘徊ではないかと思った。
時には夜中、時間を勘違いしてデパートへ行ってしまい、しばらく開店を待ってしまったりするとも話していました。来る日も来る日も同じ物を食べ続けるのも認知症の症状でした。
さて、父の部屋は相変わらず、汚いままです。私が掃除をしようとすると嫌がる。それに掃除と言ってもどこから手を付けて良いか分からない程酷い状態でした。元々几帳面な性格の父です。母が掃除を嫌がる人でしたのでその事でも夫婦喧嘩をしていた。父は時々怒りながら掃除をして自分の服は自分でアイロンがけする人。洗濯物の干し方が悪いという事だけでも激しい夫婦喧嘩をしていたのに、良くこんな汚い状態で居られるものだと驚きました。
色々話すうち、どうも私と再会する前ににっぽん丸の旅行を申し込んでいるようでした。その時が片づけの勝負だなと思った。
一度父がデパートに行っているであろう時間に実家に寄って、シーツなどを洗い。積み上げている服を見て驚いた。お漏らしをしては服を買ってきて服を積み上げているのですが、そのほとんどがブランド物だった。ベルサーチ、アルマーニ、プラダ、BOSS、エトロ、数え上げたらキリが無い。そしてそのほとんどが自宅での洗濯不可、めぼしい物を車に積みクリーニング屋へ。。。
それでもそれは氷山の一角。何とかしなきゃと思うもののため息が出ました。
数日後、父のかかりつけの病院へ同行。いつもの診察に加えてMRIの検査でした。父には脳梗塞の定期検診と先生も嘘をついていたようですが、実際は認知症の検査でした。処方箋で薬を貰う時、脳梗塞の薬は継続して飲んでいるようですが、その他にハルシオンという睡眠薬も飲んでおり普段酒も飲んでいる訳で大丈夫なのか?心配になり睡眠薬の相談もしました。
病院が終わるとやはり父はデパートへ行きたがりました。レストランで突然父が言いだした。「有加は何故デパートで何か買おうとしないのか?」と。。私は「普通はそんなにホイホイとデパートで買い物なんてしないでしょ?パパは稼いでいたから何でも買えたかもしれないけれど今は不況だし、正彦さんの会社も大変な時だから、うちはそんなにお金は使えないわ。」と言うと、父が「パパはね。今、毎月八十万円の収入がある。貯金も億はある。有加には悪い事をしたから、これからは贅沢をさせてやる。欲しい物があったら買ってあげるから買いなさい。」と言いました。「八十万円の収入って?」と聞くと、どうも、佳代さんがやっていた投資をそのまま引き継いだらしく、その儲けが毎月八十万円振り込まれると言うのです。私は瞬時に何か騙されてると閃きました。実家に戻ると父は預金通帳を見せてくれた。投資額も見ると、父の言っていた事は確かでした。その上で毎月八十万円振り込まれていました。投資会社からの通知もあったのですが葉書のものしか無く、私はFX投資には詳しくありませんので良く分かりませんでしたが、このような投資は一種のマネーゲームのようなものであり、父のような認知症患者がお金を操作出来る筈は無いと思った。その他に父は、株を二社程持っており、株主総会の案内等も届いている様でした。私は、一度は投資会社に確かめた方が良いと思い、「このFX投資はきっと何か訳があると思うよ。」と言うと、父は突然怒り出し「佳代さんのやっていた事にケチを付ける気か。」と言い出しましたので、私は「そうねごめんね。」と言ってそのままにする事にしました。この時はまだ父も昔のように酷い怒り方はしていませんでしたが、その片鱗は感じました。暫らく様子を見るしかないと思った。
それよりデパートで何でも買ってあげると言われた事が何だか母と一緒にいる様で私は嬉しかったです。それは買って貰えるからという事ではなくて、生まれてから一度もそんな風に父から言われた事が無かったからです。部屋の散らかり具合と言い、何だか亡くなった母に会いに来ている様な感覚でした。病院の診察日だった事からこの日は仕事を休ませて貰っていたので週末はすぐにやって来ました。相変わらずデパートに付き合うと、「あなたは何も買わないのか?」と又父が言いだし「買いたいものが無いから。」と私が言うと「あなただって働いていて、デパートで何も買えないのか?何しに来てるんだ。」と言われる始末。ああ父は認知症なんだと実感しました。帰る途中に今度は「車を買ってやる。」と言い出した。「こんな軽自動車じゃなくてもっと大きな車を買いなさい。」と言うのです。で、私は前はもう少し大きい車に乗って居た事。正彦さんの会社が大変な事。犬の病気の事もあって、車は手放さず、経費の少ない軽自動車にした事等を話しました。
父は「有加は金に苦労しているのか?」と聞いてきました。私も見栄を張っても仕方ないと思い、正彦さんの会社がそろそろ危ない事も話しました。父は私にも借金があるのではないかと聞いてきた。
私は「ある。」と答えました。数年前から犬たちを手放さなければならない予感があった事。しかし病気持ちの子の里親等どうやって見つけたら良いかを想像すると、少しでも健康にさせなければならないと考えていた事、そのうちにお千代に処方ミスがあった事、岐阜の教授に言われた事などを話し、半ばヤケッパチで治療を受けさせた事で、今は医療費が余りかからなくなったけれど、私に二百万円程借金が残った事等も話しました。父は「俺が払ってやる。」と言い出した。
実家に着くと、いつも三百万円位家にキープしているらしく、二百万円を私に手渡してくれました。「有加を傷つけたから、これは慰謝料だ。お金は又、おろしておくから車も大きいのに乗りなさい。維持費も俺が払うから。」と言った。私を苦労させたのは俺のせいだからと言うのです。私は泣きました。「お金、本当にいいの?」と聞くと「慰謝料と言う事は有加の物だから。」と父は再び言い、俺は数字を数えられないから数えなさいと言うのです。私は帯封がしっかりしてるからあるはずだから大丈夫と言って受け取り、私の借金は無くなりました。しかし、車は辞退しました。正彦さんの気持ちを思うと車は今のままでいいと父に言った。父は「有加の借金を俺が払った事は正彦さんには言うな。男はプライドがあるから黙っておきなさい。」と言ってくれた。
「ところで、パパはこんなにお金があるのに、どうして家を買わなかったの?」と私は聞きました。佳代さんと年に二回は一カ月づつ位ハワイにビジネスかファーストクラスで旅行にも行っていた様でした。車もベンツの、しかも一千万円以上するものに定期的に乗り換えている様でした。二人ともブランド好きで、持っている物、買っている物から考えると、私からしたら団地住まいというのが何とも不思議でならなかったからです。
「よく数千万円で何軒か同じような家が建ってるのあるだろ?ああいうのには住みたくなかった。!買って、住むんなら何億もする豪邸で無いと嫌だった。」と父は話出した。「そういう考え方もあるんだ~」と私が言うと、「あの世界はどんどん高みを目指さないと駄目になるんだ。こじんまりとしちゃダメなんだ。俺は一流になりたかった。佳代さんもそうだよ。でも、佳代さんが死んで俺も終わった。あの世界はマネージャーが居ないと駄目だから。佳代さんが居たら違ってた筈だ。俺は生涯現役のつもりだった。何が起こってたか分からんよ。」と言った。随分シャキっと会話できるんだな~と思っていたら、突然、父は山積みになった汚れた服の間を上手くかわしながら踊り出しました。大昔、関西歌舞伎で日本舞踊を習ったそうです。歌いだして踊り出した。父がこんなに面白い父だと言う事を初めて知りました。認知症だとはいえ、初めて親らしい事を言ってくれて親らしい事をして貰えて認知症でお金の勘定も出来なくなり部屋を散らかし放題の父は、本当に母そっくりで、かわいらしいとさえ感じました。
次の週末、父を私の家へ呼びました。正彦さんと初対面でした。私の家の近くに、魚センターのような問屋さんがあり、そこで安く新鮮な魚が手に入りますので、ヒラメの活き作りや煮物などをを用意して食事会をしました。
認知症の人の食事の特徴。一点食いを目の当たりにした。ヒラメを食べだすとヒラメが無くなるまで、ヒラメ以外を食べられないのです。父は「こんなに食べきれない。」と言いながらヒラメばかりを食べていました。又、この日のヒラメは超特大だった。正彦さんは父と私の事を大体は知っていましたが父には正彦さんは近親姦の事を知らないと言う事にしていました。父は上機嫌でビールをガンガン飲んでしまい、一~二回吸収のおむつパンツで吸収出来なくなってしまい、椅子からまるでナイアガラの滝?と言う程にお漏らしをしてしまい、食事途中で「帰る!」と言い出し、食事会は中止。着替えさせてから父を実家まで送って行った。
この翌日、正彦さんは体中に原因不明の湿疹が出て皮膚科を受診しました。おそらくストレスだろうと医者は言っていた様です。会社も大変な時に、父の事でも彼の心に負荷をかけてしまっているのだろうと思うと、これからどうなるのか、不安になりました。その後、週末には父の処へ通い、相変わらずデパートに行かされるのですがそれでも、少々家を片づけたり、食事のサポート等は出来ました。私は平日は仕事、犬たちの世話、家事で追われました。犬たちにも異変が起きだした。二匹共に定期的な検査の結果が正常値から少々オーバーし始めました。それをキッカケに治療費が高くて躊躇していたホメオパシー専門の病院にもかからせました。犬たちには、鍼も含めたレメディ治療をして貰って、コントロール。この先生曰く、有加さんは家族にずっと飢えていて、その波動がお母さんに似たお千代ちゃんと、お父さんに似た小鉄君を引き寄せ、家族のやり直しをしていて、そこへ本物のお父さんが現れた事で小鉄君は相当ストレスが溜まっている。お千代ちゃんは、小鉄君の事を本当は嫌いだと言っているとおっしゃっていました。これを聞いた時、母は父の事を嫌いだったのだろうか?とうすらぼんやり思った。後にそれが当たって居たと分かった時には驚きましたが。。。
七月六日、佳代さんの一周期。父はデパートでの食事が一周期だと言い張ります。じゃぁ、それでいいよと私は合わせました。佳代さんとは、父が鬱になった時、お互いの財産をどうするか?公正証書を取り交わしたと聞きました。それを聞いた時、私は一抹の寂しさを感じた。
佳代さんは何故鬱になった父に私が北朝鮮で死んだと言ったのでしょうか?父に言っていただけでなく、近所にもそのように言っていたようで、私が父の介護に行くと何人かの懐かしい人に言われました。「あなた、生きていたの?」とか、「北朝鮮に居たのではないの?」と。。。
親の権限で区役所に捜索を願い出れば、私の消息など簡単に調べられたと思うのですが、社会人として仕事をしている佳代さんが、そんな簡単な事に気づかない筈はないだろうと思った。きっと佳代さんは私の事を薄情な娘だと思っていたんだろうな~と思うとそれが悲しくてなりませんでした。そんな証書など作らなくても、私はどんなに貧乏していても父の物は佳代さんの物だと思っていたのに。しかし姿を消した私の心等、佳代さんが知る由も無く、それも仕方のない事だなと思いました。一周期の前日、突然父が私にも公正証書を作ると言い出した。私はそんなものはいらないと言いましたが、父は何が必要か調べてくれと言いましたので、インターネットで調べると財産目録が必要だったり、戸籍謄本とか?証人が必要だったりとか、面倒くさいな~と思いました。一周期当日朝、父から電話があり、私は「何だか面倒な書類が必要みたいよ。」と言うと、「あなたは俺の財産を狙っているんだな。」と、突然怒鳴りました。前日に自分が言っていた事を忘れているんだと思いましたが、あまりの暴言に今日は行かないからと言って電話を切りました。切ったものの一周期なのだし父の居ぬ間に花でも買って佳代さんに供えようと思った。仏壇は無かったのですが正彦さんと食事をした時に、彼がお仏壇は有った方が良いのではないですか?と言った事がキッカケで早速父はデパートで購入していました。ただし位牌は無く、位牌代わりに郵便局で貰ったポストの形の貯金箱が、さしずめ位牌ですから、何とも言い難い仏壇なのですが、父のいない実家へ行き、お花とお供えを飾って、ポストの貯金箱を拝んでいると父が帰ってきた。
「来てたのか。」と言って、上機嫌でした。「今から横浜にでも行く?」と聞くと「行きたい。」と父は言いました。「海に行けば、ハワイとは繋がってるから一緒に佳代さんに拝みましょう。」と言って山下公園へ向かった。父は中華街で食事をしようと言いました。「どうせデパートでフカヒレ麺を食べてきたんでしょ?」と私が言うと「中華街も佳代さんと行ったから行きたい。」と言うのです。まず、山下公園へ行き、海に向かって手を合わせました。遠くの桟橋を見ると大きな船が停泊しており、今度パパの乗る船はどんな船だろうね~と言いながらベンチに座った。その後中華街へ行こうとしたのですが信号の所で父が立ち止る。「有加!あそこは香港と同じだ。あの門をくぐったら生きては帰れないぞ!あそこから先は魑魅魍魎とした世界だ。あんな所へ行ったら殺されてしまう!怖いから帰りたい!」と言うのです。私は大笑いしました。「そうね、怖いから帰ろう!」と言って一周期は終わった。
父は、私に車を買いなさいと言う事を私の車に乗る度に言いました。降りる時に「ああ、窮屈だった!」等も言います。私は中学の頃からの友人に相談しました。彼女も私の近親姦の事を高校の頃から心配してくれていた友人でもあります。「有加のパパが改心して、その上で車を買ってあげると言うなら、それは甘える事の方が親孝行だと思うよ。」と彼女は言いました。実際に彼女の実家は裕福で、家計費も孫の養育費も父親の力を借りていたと言うのです。「どう頑張ってもうちのパパの経済力には勝てないし、それなのに子供の私が無理をして何かプレゼントしても何にも喜ばない。むしろ父に何かして貰って、パパのおかげで私も孫たちも幸せよ。って甘える方が喜ぶのよ。親孝行っていろんな形があると思うのよね~」とも言っていました。もし、車を買って貰うとすると、それは正彦さんの知る事になる訳だし、私は彼に聞いてみる事にした。
正彦さんは笑いながら「お父さんが軽自動車でデパートへ行くのが嫌なんだよ!元々ベンツの、それも高級なクラスの車でデパートへ乗り付けて居たんだから。そもそも、お父さんが現れてから僕はまったくと言っていい程乗らないんだから買って貰いなさいよ。」と言ってくれました。悩んだ挙句、父に車を買って貰う事になりました。友人の言った通り、父は大喜びで、「維持費も購入費も含めて慰謝料だ!」等と言っていました。
車が納車されるまでの間、予定していた母の墓参りに行った。軽自動車での最後の遠出です。私は父に偶然であっても会う事を避ける為、二十年程お参りしていませんでした。父は?と言うと、十年以上お参りしていなかったと聞きましたから、おそらく鬱になる直前頃私と縁が途切れたと自覚し、母の事も封印して佳代さんとの人生をやり直そうとしたのかもしれません。誰も参らない墓に母はずっと眠って居たのか?と思うと、かわいそうな事をしてしまったと胸が詰まりました。御殿場の富士霊園に到着すると、それまでのお天気とはうって変わって霧が立ち込めてきた。長年参らなかった事で母が怒っているのかもしれないね。等と冗談を言っていたのですがどんどん霧は深くなり、視界一メートル位にまでなっていました。母の墓石を見て、涙がこぼれた。私が来ない間に私は母の年齢である三十七歳を通り越して五十歳でした。母の面影は歳をとらないのに墓石だけはしっかり歳をとっていて、いろんな思いがこみ上げ、この墓の前でこの時から遡って母が亡くなった三十九年前と同じように、数奇な運命を抱えた親子が又取り残されてしまったような気持ちでした。
そんな空気を打ち破るように、父が「お化けが出そうで怖い。」と言い出したので墓参りを早々に引き揚げ東京へ戻りました。東京が近付くと父は「デパートへ行きましょう!」と言い出す。「これから行くとなると時間的に帰りは一人だよ!」と私が言うと「それでも行きたい。」まるで子供のような父。仕方なくデパートまで送りました。私はそこで解放されましたが、車を降りて前傾姿勢で振り向きもせずデパートの入り口を一目散に目指す父の後ろ姿を見て、周りの人たちとは違う、何処か変な人という異常性のオーラを感じました。人様に見られる俳優をしていたのが嘘のような気がして、生き恥をさらす父の後ろ姿に涙がこぼれた。
数日後、父のMRIの結果が出ている頃でしたので、私だけが結果を先に聞きました。父の認知症は確定で、前頭葉の海馬の委縮が著しくアルツハイマー型だと分かりました。私は先生に父への告知はしないでくださいとお願いした。病院を出て、私は車の中で泣きました。父の人生の中で一番颯爽としている頃を、私は殆ど知りません。父の暴力暴言の中で育ち、母が悔しい亡くなり方をして、今度は近親姦をうけながら成長し、実家を出て数年ぶりには父に愛人になれと言われ、二十年近く縁を切って、やっと普通の親子に戻れたと思った時にはすでに父はアルツハイマーだった訳です。非常にやりきれない気持ちでした。。
六月下旬、私が仕事先に居る時、父から電話がありました。丁度お昼前の忙しい時間でしたがどうもデパートでテーブルセットを買ったようで、いいやつを買った!と嬉しそうでした。しかし、とても団地に入るサイズではなく丁度会計前だった事から、売り子さんに電話口を代わって貰って小さいのに変えて貰いました。デンマーク製の特注品だそうで、七月中旬配送になるとの事でした。ただでさえどうやって服を片づけるかが心配でしたが、父は、服を片づける事を拒否していましたので、テーブル購入をキッカケに、父の旅行中に全面的に私に任せて貰って片づけを承知して貰う事に合意させました。その週末、旅行代理店に行くという父に付き合うと、旅行はにっぽん丸で行く八丈島五日間クルーズとは聞いていましたが、値段を聞いて驚いた。百五十万円だそうで、どうもスィートルームを予約しているみたいでした。私は徐々に分かってきたのですが、父の金銭感覚はおかしい。ざっと計算すると一年で1500万円以上私への慰謝料等?を含めると2000万円近く使っています。このままでは何時か破綻するだろうと心配になりました。やはりデパート通いを何とか修正させないといけないなと思った。
七月に入り、私が会社に出ていると午後一番で父から電話がありました。デパートを出て、映画館で映画を見ようとして歩いている時、裏のレンガ敷きの道で転んでしまい、デパートの車誘導の人に助けられデパートの医務室で応急処置をして貰ってタクシーで家に帰る途中だと言うのです。顔を打ったと言うので、一旦電話を切り、世田谷方面でその日診てくれる外科病院をパソコンで調べて病院に確認電話をし、再び父の携帯に電話をして運転手さんに代わって貰い、父を病院へ連れて行ってくださいと頼みました。私は早退させて貰って父が行くはずの病院へ向かった。待合室に居た父は血を流し、酷い顔で私を待っていました。順番を待つ間、父が「トイレ!」とうので一緒に行きました。これが又酷い下痢で車に替えのオムツを積んでいなかった事を後悔しました。昔、アイスを二個私が食べたと言って散々殴られましたが、父は毎日アイスを十個食べている状態。あまりに一気に食べるものだから、頭がキーンと痛くなると、「この刺激が脳にいいんだよ!イテテテ!」等と父が言うのを思い出し、脳にも良くないと思うけれど、腸にはもっと良くないんじゃないかと思い、「アイスの食べすぎなんじゃない?」と言ってやりました。父を待たせ、私は急いで薬局へ走りオムツを買って戻り、父に着替えさせ、父はトイレを相当汚していましたので、私が掃除をしてそれでも順番を待って、やっと診察が始まり、父は眉間を六針縫う事になった。翌日からは消毒に通わなければなりません。私は会社を早退させて貰ったりしながら、しばらく実家へ毎日通った。面白いな!と思ったのは、旅行を控えた父は、早く抜糸して貰いたいらしく病院へ行く前に顔にドーランを塗って待っているのです。ボケている癖にドーランの塗り方が上手すぎて笑えました。消毒に行く度に「先生!傷はこんなに良くなりました。今日は抜糸ですか?」と聞くのには、さすがに先生も笑っておられた。父に聞いてみました。「小さい頃パパはお母さんに何て呼ばれてたの?」と。父が言った。「よっちゃん!」と呼ばれていたそうです。「よっちゃん!ドーランなんか塗っちゃいけませんよ!」と私が言うと、父は少年のように「ハーイ!」と答えました。認知症の父はかわいいなと思いました。旅行の日程を見ると、最後の夕食の後、盆踊り大会があるようで浴衣を着ても良い様でした。父に浴衣、自分で着れる?と聞くと父は箪笥から浴衣を出し、とてもボケているとは思えないような素早さでササ!っと着て見せてくれた。しかも着なれている。流石だ!と思いました。でも、父が「髪の毛がね~」と言いました。父はずっと、鬘でしたから。
「手ぬぐい撒いてみたら?」と言うと、自分の名前の書かれた新しい手拭いを、出してきました。私の知らない間にこういうものを配るような役者になっていたんだと思った。箪笥からは芸名の入った暖簾も出てきた。手ぬぐいの撒き方もさまになっていた。父は調子に乗って踊り出しました。歩く姿はトボトボと老人で、転んで顔を縫う程なのに、踊る時はしっかりしていて父の頭の中はどうなっているんだろうか?と思った。
愈々父の旅行の日、横浜の大桟橋まで父を送って行きました。この時、私の車はまだ軽自動車でした。父はもうすぐ「大きいのが来るね。」と嬉しそうに話していた。車の値段を考えると、昔私が学費を苦慮していた金額を上回っていることを思い出し、ふと聞いてみたくなりました。「あの時、学費は自分で払えって、他にも何故経済制裁したの?」父は「金はあったんだけれど、出したくなかったんだよね!」と言った。私は「そうだったんだぁ~」と明るく答えましたが、私が運転する横で新しい車が来ると喜ぶ父を見ながら少しだけ悲しい気持ちになりました。
大桟橋に到着し、いよいよ船に乗り込んだ父は部屋の上層階のベランダから手を振っていました。通常より大きなシャンパンが用意されていたようで、それをグラスに注ぐ父の両腕がワナワナ震えているのがハッキリ分かりました。ドラが鳴り響き、生演奏が始まり、父は、私の方に何度も手を振り一人で乾杯をしながらシャンパンを楽しんでいるようでした。あんなに呑んじゃってオシッコ大丈夫かしらと思いながら見送った。
船の出向って何だかドラマティックで物悲しげだな~と思いました。いつか先になって父が本当に亡くなってしまう時、きっとこの日の事を私は思い出すのだろうなと思った。いろんな因縁を抱えた人生だけれど、最後になって良い親子になれた思い出の象徴のような気がしました。
さて、父を見送った後からが私の戦いの始まりでした。怒涛の片づけが待っていて、私が仕事を休めるのは、父の送り迎えの二日間と、追加で一日の三日だけでした。さぁ、片づけの開始です。
私は自宅近くの方のクリーニング屋さんに父の服を出しました。知り合いのパートさんが居ますのでその方が気兼ねが無いと思っらからです。「こんなに汚したものは捨てれば?」と知り合いのせいかハッキリ言われましたが私が「ラベルを見て!」と言うと「まぁ!」と驚き「洗いましょ!」という事になりました。すべてお高いブランド品ばかりでした。クリーニング代は十五万円程かかりました。その他に自宅で洗える服は、とりあえず私の家に持って帰りました。そしてホームセンターで棚を作る為の木材を買い、父の家で棚作りをした。冬物と夏物が混在しているのを掻き分け父に内緒で捨てる物を捨て、最初は散らかしているのか?片づけているのか?分からない状態でした。ゴキブリの死骸や卵も出てきました。やっと床が見えてきたのは良いのですが、尿でシミになっており、それを最初はクレゾールで消毒し換気をして何度も水拭きをして乾かし、又ホームセンターへ行きクッションフロアで出来ているカーペットを購入して敷き、今度漏らしてもシミにならないようにしました。五日間まるで拷問のようにお掃除しまくり、最後の日だけは泊まり込みで追いこみ作業をして、眠い中帰ってくる父を迎えに大桟橋へ向かいました。帰ってきた父が部屋を見て驚いていた。テーブルを置ける場所も確保していましたので父は大喜びしていました。その後、順次私が自宅で洗濯する服をアイロンがけして、実家へ運んだりしました。
七月上旬に、再び我が家へ父を一泊二日で呼んだりもしました。父は昔の話はしっかりと出来て記憶も割と確かで、でも数字は十以上数えられず、貨幣価値に関してもいい加減で、どこで買い物をしても一万円札しか出せず、佳代さんが使っていたブラダのハンドバッグが父のお財布代わりで、そこにはお釣り銭で返された小銭が随分とたまり、鉄アレーのような重さでした。排せつも上手く出来ず、それでもボケ方がかわいいな~とこの頃は思いました。酷い事を散々された親でしたが、最後に良い親になってくれた!私は、恩讐を超えて、父に親孝行したいと思い始めていました。私はどうも、お金持ちにはなれそうにないけれど、父は今の処お金は大丈夫!ならば私は労力と心で親孝行したいと考えました。縁の無かった親子なのだから、最後に父を施設に入れるなどせずに、私の手で介護したいと思いました。しかし、この翌月初旬、父の鬼畜の言葉を聞くと言う事はまだ想像していませんでした。
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