再現を直視する為だった介護



父を殺したい程憎んで再び縁を切り、私は父からの電話にも出なかった。その後秋になってケアマネさんから電話で父の状態を何度か聞いた。火に鍋をかけたままスーパーへ買い物に行き、たまたまヘルパーさん見つけ幸いしたが、ボヤ騒ぎになる処だった事で緊急会議をしたのだそう。他、父はいろんなものを契約してしまい、その支払いが振込票だと上手く支払えず、手伝いきれていない事や、父がイライラをヘルパーさんに当たり散らして問題になっている事、他に年末年始ハワイへ一人で行かれる様で心配。等々聞きましたが、私自身がそれどころではなく、心療内科等に通っている環境でどうにもならないと言ってお任せしました。

十二月中旬に、父から再び私の携帯に電話があり、私は迷ったのですが電話に出ると、父は「これからデパートに行ってきます。年末からはね。ハワイに行きます。」と嬉しそうに言い出した。忘れているのか?恍けているのか?私はあれから心療内科に通っている事。ずっと考え、父と自分が家族として機能しなくなった根本的原因を探し、父自身の深層心理や私の深層心理を勉強している事を言い、母の手術に関しての事、執刀医への手紙をどうするか悩んでいる事等を伝えた。「あの手術の悔しさは私とパパにしか分からないものね。あの時パパの心はズタズタだったでしょ?ママが生きていればパパと私はこうなっていなかった筈。負のスパイラルの歯車のすべてが、あの手術によって動き出してしまったのよね。」とはなすうち、思い付きで「パパは心の表面では私に悪い事をしたと思っていてもママが重なった私に対して悲しい恋心を持ってしまうのでしょ?」と不意打ちで聞いてみると。

「そうなんだよね~」と父は言った。「私はね。娘としてでしか向き合えないの。」と言って電話を切りました。

正彦さんの会社の整理は、正式に弁護士さんが入り、着々と事は進んでいるようでした。彼がついていたのは、この家に引っ越して来る前の会社のピンチの彼の借金がほんの少々残っていて、今回彼の苦戦の借金迄が継続と見なされた事で過払い金も継続となり、相当な額が戻ってくる事になり、彼は破産では無く個人再生の一番軽いランクで調整出来そうだとの事でした。そして家の築年数が経っていて、且つ住宅ローンが残って居た事から家は取られない事になり、むしろ個人再生は最低限の生活保障をされますから、戻った過払い金の一部で古い我が家のリフォームまで出来る事になりました。手続き等がありますが、春頃リフォーム出来そうなので考えておいてくれ。と弁護士さんに言われたそうです。父なんかに買って貰わなくて本当に良かったと思った。勿論、犬たちはずっと一緒です。犬たちの病気がよくなって、そのうえ、手放さずに済んだ。。本当に奇跡でした。。


平成二十五年が明け、父がハワイから帰って来る前に実家に手紙を置いてきました。父が私にした事を長々とまとめた手紙です。父が改心する為には振り返りたくない筈の父の心理も含めて書きました。

一月末、待望の院長の初診の時には、もう一度父の介護に向き合おうと私の心は決まっていた。院長に相談すると「いいでしょう。あなたの場合は一つの回復法に成るかもしれない。」とあっさり決まりました。本来、改心して居ない親に接触する事は良くない筈。しかし、院長はあんたは強い。と言って居た。暫らく診察は中断ですが、何かあったらいつでも相談しにきなさい。と院長は言って居た。

私の本音は再び介護するにあたって、何か割り切れないものを感じていた。あの五年間の出来事で失った物を数え始めていたのです。そして、あの五年間をずっと引きずったままの五十歳までの中からも失ったものを数えていた。しかし、だからと言って、それらが悔しいとか悲しいとかそういった感情の伴うものでは無く、私の頭の中には、まだ白い靄が残っていたのかもしれない。私は見切り発車で父の事を許そうとしていたのだと思う。それでも良いと感じていました。「ゆっくり考えましょう。」と院長からセミナーで言われていましたが、いつ結論が出るか分からない問題を考えているうちに父の認知症は進んでしまうような気がしていたのだから。

平成二十五年二月、父の誕生日に久しぶりに会いました。父からあまり女性として見られたくなかった私は前日に長い髪をバッサリと坊主頭にしました。昔ダンサーをしていた頃の初期の髪型です。三十代にも同じ髪型だった事がある。父を鬼のように憎んだ時期、私はどんどん太りだしていた。太ってどんどん醜くなる事が心地よくなっていた。女らしく色っぽく。そんな風に見られる位なら醜い方がマシだと思っていた。心も体もどんどん醜くなればいい。性に翻弄されながら生きた私は、女を捨てたい気持ちで溢れかえっていたのです。そしてそのうちに、とうとう百二十キロ超えという巨漢にまで太っていました。髪を男みたいに切るという事はある種の私にとっての安心感を得る手段でもあったのです。

父の介護を復活させても、私の出来る介護は父が自力で生活できる迄と決めていました。もし認知症が進んだり歩けなくなったりした時には、施設に入所してもらおうと心に決めての再スタート。

まぁ、介護と言っても新宿のデパートにばかり連れて行かれる添乗員介護のようなものですが、ある日、正彦さんが「君が再びお父さんを許して介護に行くのなら僕も協力するから、たまには家へ呼んであげなさい。」と言ってくれて、二月中に我が家でも父の誕生会をしました。

全てを知った彼が許してくれた事を知った父は泣いて私に詫びていました。

前回の介護は週末一日のつもりが、結局土日両日とも呼び出されたり、父が転んで通院の為に私の仕事早退後も通ったりでヘトヘトだった。今回は土曜か日曜どちらか一日だけと決めていましたが、いざ介護を初めて見ると、私が父を放置した間に父の認知症が進んでいて、いろんな問題が山積しており、私はほぼ一日置きくらいに呼び出されてしまう。まずお正月に父一人で行ったハワイで、父が転んで救急車で大きな病院へ連れて行かれ、その支払いの手続きを済ませないまま帰国し、ハワイから英文の手紙が何度も送られていました。携帯の支払いを振込票のままにしていたようで上手く支払えず、その督促や、スピードラーニングやIPADの契約、パソコンの使い方教室の申し込み、さまざまな通販の定期購入等、どんどん契約していて父は自分でどう対処して良いか分からず混乱しており、結局私はその後処理に追われた。一旦私が一日置きに実家に行き出すと、父はそれが当たり前になってしまい、色々な問題が解決した後でも「何故今日は来れないのか?」と言い出す始末で、「このままでは私の体が持たない。無理だ。」と言うと、今度はとんでもない時間に電話してきたり、それでも私は常識の無い時間の電話には一切出ない事にして対処しましたが全く話にならず、

春も過ぎて父と話し合い、私は仕事を辞めて、父から仕事分の給料を貰うと言う形で週に五日、実家へ通う事になりました。

父は私が行かないと新宿にタクシーで行ってしまいます。一日に二回往復する事もあり、タクシー代だけで月に三十万円以上使い、一人で行けば、あれやこれや又購入し、妙な契約をしたりしますから、父が私に給料分を支払ったとしても、その方が父にとっては経済的ですし、私も疲労しないと言う事で話がつきましたが、それがそもそもの間違いだったのかもしれません。

父の認知症が進んだと言う事は、厭らしい話も程々で、激昂する事もありませんでした。一番心配していたファンドへの投資も、父の様子を見て説得して投資会社へ行き、カラクリが分かりました。そもそも佳代さんが投資に長けた人でやっていたのを引き継いだ様で、八十万円毎月振り込まれていたのは儲けではなく、払い戻し金で、投資に長けた方はその払戻金を更に積んだり他の投資に変えたりするものでした。それを父は勝手に儲かっていると勘違いし、どんどん散財していた訳で、実際には相場は下落しており、元金はどんどん減っている状態でした。他に預貯金も崩していた訳で父は落胆しましたが、「有加のおかげでこの程度の損で済んだ。」と言っておりました。

この年の父は程良くぼんやりしてくれて、ファンドを私のおかげで解約できたという功績もあり、割と何でも私の言う事をきいてくれて、父をコントロールしやすかったです。

ヘルパーさんは週に三回来ますが、その他の日にとことん嫌がっていたデイサービスにも最初は一日だけでしたが、父は行ける様になりました。デイサービスの日、私は休まず、実家のお掃除の日に出来ましたので非常に助かっていました。

年末年始は正彦さんの九州の子供のいない叔母がガンでもう長くは無いだろうと彼は行く事になっていましたので、たとえ数日でもまだ叔母が少々元気なうちに私も会っておきたいと思い、父にはお正月一人で過ごして貰って彼と合流する事にしました。そうなってくると、父は一人でハワイに行くと言い出すのです。前年一人で上手く旅行出来なかった父が心配だったのと、年末年始の旅行代金を見積もって貰ってビックリしました。たった一週間父が一人で行くのに代金は百五十万円程。そこで父の状態が安定しているので「お正月明けて一週間程したら、私も一緒にハワイへ同行出来るよ。年末年始は新宿のセンチュリーにでも泊まれば食事には困らないだろうから。」と私が言うと、父が了解したのでその様に手配をしました。センチュリーの代金が二泊で十万円程、その後シーズンオフならハワイ旅行は飛行機がビジネスクラス利用、ホテルは小さいホテルのキチネット付きスィートで二人分合わせて七十万円程に抑えられましたので、早々に予約しました。

しかし、秋深くなって、十一月頃から父に変化が始まりました。時々ですが、理不尽なキレ方が際立ってきたのです。朝十時に私は実家へ行き、父を車に乗せて新宿へ向かう。ランチをして映画を観て、帰って父の夕食の支度をして簡単に片づけて午後四時に実家を出る。それでも環八の混み具合いによりますが、実家を出て我が家へ到着するのは五時頃になります。四時より遅くに出発すると道の混み具合はもっと酷くなる。私は自宅へ帰って来てからが、本来の一日のスタートになるのです。実家を出るのは四時が限界でした。ある時、映画の上映時間が合わず、それでも翌週ぐらいには必ずタイムスケジュールは変わる筈だからと言っても父は「待てない。」と言い出し、時間に限りがあるのだから映画を待ってると夕食の支度等出来なくなる事を父に納得させ、映画を観てから父を実家へを送って行った時の事。「私はあなたに金を支払っているんだから、私が良いと言うまで帰れないんですよ。」と怒鳴り出しました。「映画を観る前約束したでしょ。」と最初は私もやんわり言っていたのですが、父が「約束違反だ。誰が金を支払っていると思うか。あなたは金で買われているんですよ。」。。

これには私もキレて「確かにお給料は貰ってる。でもそれは四時までの事、そんなに金金言うのならそのお金、佳代さんとパパが働いてきたものに変わりは無いけれど、言ってみれば佳代さんがマネージャーだったからでしょ。その佳代さんに本当の事を言っていたらどうなっていたのかしら?」と言い返しました。まったく似た者親子です。その時父は一旦黙り、言い返せない様でした。私は「ちょっと言い過ぎた。ごめんね。」と言いました。デパートで買っておいたお総菜はテーブルに並べてありましたし、既に五時前になっていましたので、とにかく帰らないと行けないからと言ってから私は帰った。

父は昔のままの心根をもっているのだなと思いました。勿論私の心の中にも消せない何かが残っていた。昔だったら私は言い返せず暴言だけではなく殴られて血だらけになっていたんだと思い、帰りの運転中に涙が止まらなかった。いわゆるフラッシュバックというやつでした。しかし私も父と同じだと思った。消せない何か。。のうち、言ってはいけない事を言って相手を傷つける。自分が正論を言っていると感じる時程、それは顕著になる。正彦さんに対しても父と同じ様な手口で喧嘩を吹っ掛けていた事を思い出したのです。

この時、フラッシュバックはチャンスだと私は思った。わざわざ見たくない過去に降りて行くのも苦しい事。ド~ン過去に心を持っていかれるフラッシュバックは手間が省けて良いのかもしれない。子供の頃に悪い癖を学んでしまったのですから、それを大人の私が書き換えればいいのです。表面の意識で自分を変えようとしても変わらない、深層心理での書き換えの為のフラッシュバックははありがたい事だと思った。

平成二十六年私が九州から帰ってきてハワイに行く前に、遅ればせながらのお正月をと言う事で、自宅へ父を呼んだ時の事、ドキッとしたのは。。。

食事中に父が「私はまだあっちの方が現役でして、正彦さんは女を買った事がありますか?」と言いだした。

私は一瞬で凍りついた。。。

「僕はそういう経験はありません。」と正彦さんが答えると父が言った。「私も副業でモテていましたから女には不自由しなかった。でも今は不自由していますから一度女を買ってみたいんです。出来たら付き添って貰う訳にはいきませんか?」。。。

私は、この親!何を言い出すか?娘に近親姦を強要した父親が娘の旦那に!しかもそれを知った上で許してくれたと言うのに、良くもそんな事が言えたもんだと、のど迄言葉が出かかった時、正彦さんが

「老人でも性欲というものはあるもんですよね。お父さんは最近、ある女優さんが書かれた本をご存知ですか?そういった事に触れているらしいですよ。一度読まれると良いと思います。」と言うと父は黙りました。

その後日、父は私にも言った。「俺はどうしても女を買いたい。一緒に連れてってくれないか?」。。。「無理だね。」と私はあっさり断った。

この時私は体にムシズが走るのを感じました。

ハワイ旅行は大丈夫だろうかと心配になった。ハワイに行くなど決めなければよかったと後悔しました。


愈々旅行の日がやって来て、何事も無い事を祈った。。

ハワイでは、そういった問題は起こりませんでしたが、私は父の大便処理に追われました。湯船でするのです。

ハワイのホテルの下水管は細いみたいで一回でお湯が上手く流れなくなりました。完全に詰まったら損害賠償請求されるかもよと父を脅し、何とか便器でして貰いましたが、そうなるとペーパーではなくタオルを汚してしまいます。当然私の使うタオルは無くなってしまい、時差ボケ当日の夕方から私はウォルマートへ走り、お掃除道具を買い、そのまま洗濯に出せないホテルのタオルを何度も洗濯し、バスルームを毎回汚す父の為お掃除をし、いざ、自分の入浴をと考えた時、とても入る気にはなれず、翌日フロントに空き部屋は無いかを聞き、スタンダードの部屋を残りの日数分予約し、父に内緒で風呂に入る為だけの部屋を確保。朝、ウォーキングだと嘘をついて五階から十階へ上がり、風呂に入り、風呂上がりでは一寸まずいと思い、せっかくさっぱりしたのに、ウォーキングをして戻り、父が汚した風呂掃除のついでに顔だけ洗って入浴した風を装い、まったくの珍道中でした。


この年、ハワイ旅行をきっかけに父の認知症は随分改善されました。しかし、正気だった頃の激昂する父が悪い意味で戻って来る事にもなったのです。前年迄は、近親姦問題を考えながら父の介護をするのは心が乱れると私は感じていましたから、自助ミーティングや心療内科をお休みしていました。それよりも、ちょっと変わった親子でもいい。最後ぐらいは、やはり普通では無くても面白い親子で居たいと思っていた。私は三十代の頃から芸能事への未練を断ち切る為封印していた映画鑑賞も父に付き合いましたし、演技談義では話が合いました。シェイクスピアがどうのという談義では無く、役者の色気や華みたいな話、あの表情は奥深いとか?映画鑑賞の感想みたいな話は非常に楽しかった。それにエンドロールがアップテンポな曲だと、映画館の通路で父は踊り出す事もあり、そういったハイパーな父は子供の頃私が知らなかった部分でもあり、私の血の中にもそういった面がある事を思い出し、やっぱり親子なんだなと感じていました。DVだけだったら、近親姦さえなければ良い親子になれたかもしれないと今でも私は思う事があります。しかし、激昂する父だけでなく厭らしい話をする父が蘇ってしまうと、やはり自分の心を整える為、心療内科での相談は必要だなと私は思い、受診を再開すべく予約を入れ、自助ミーティングにも再び通う事にしました。

ある時、父は仕事に復帰したいと言い出しました。望みを持つ事は悪い事ではないと私は思いましたから、無理だとは思っていても、「何があるか分からないのがあの世界。諦めない事は良い事かもね。」と励ましました。私はそのうちにそんな事も父は忘れるだろうと思っていたからです。ところが父は私に父の仕事のマネージャーをしろと言い出した。私は「それは絶対に無理。」と言った。病気体質の犬の世話や正彦さんの事もある。マネージャーの仕事はそんなに甘いものじゃない。もしかしたら俳優業よりも汚い世界だと佳代さんに聞いた事がある。。。。

父は「有加は頭が良いから出来る筈だ。」と言った。私は子供の頃の事を思い出し、嫌な気分に見舞われました。母が私を歌手にさせたいと言った時、あんなに汚い世界に娘を入れたいのかと父は激昂し母も私も殴られた記憶。。。

父に言った。「歌手の世界が汚いからと言って、最初、ママに反対した事はどうなるのかしら。佳代さんの仕事も芸能界よね。ママの遺言は私をパパのマネージャーにさせてくれ等とは言っていない筈よ。」

父は黙りました。そしてしょんぼりとしていた。

この時、私は昔の自分では無いと自覚した。昔は何も自分の意見を言えなかった。勿論今は大人なのだから当たり前の事ですが、二十代~三十代前半迄、弁の立つ父には反論できず、言われっぱなしで心傷ついていた。

私は前の私とは違う。。。

前年の秋頃から父は鬘屋に行くと言い出し、鬘を作っていました。その頃から父は仕事復帰したかったのかもしれない。元々鬘屋さんにはお世話になっていたのですが、認知症の父に鬘の取り外しは無理で諦めていたようですが、テレビの宣伝を見て張り付けタイプの鬘の存在を知り、作ると言い出したのです。言いだしたら聞かない父ですから仕事もしていないのにもったいないと私は思いましたが、それから二週に一度鬘屋さんに付き合う事になっていました。鬘をリタイアしていた父は、どこをどう見ても昔の姿は感じられませんでしたが、鬘のせいか綺麗にセットされた状態の父はまだ現役に見えていました。実際に見知らぬ方から声をかけられたりもしていた。振り向かれる事も多くなっていた。

そんな事から、益々父は仕事復帰したくなったのかもしれません。

私が父の申し出を断って以降、父の激昂に拍車がかかった。

ある日、私が時間になって帰ろうとすると「どうしてそうやって時間を守ろうとするんだ。」。。と父が言う。

「一区切りついたし、私も忙しいんだから仕方ないじゃない。」と言うと父は「そういう事だから正彦さんの仕事が駄目になったんだ。女はこれだから困る。あなたはあの女が~~。」。。。

あまりにも子供の頃に言われた名台詞が面白く「そう?気に障ったらごめんね。じゃぁ、ちょっとだけお話ししてもいいわよ。」と言うとぶつぶつ文句を言うので、そうね。ごめんね~と聞き流して、三十分位延長して帰る事等が何度かありました。寂しいからもう少し居てほしいと言う事を怒りでしか父は表現出来ない人なんだと私は思った。そういう事があったある日の翌日父が言いだした。「何だかイライラする。」。。

「何かあったの?」と聞くと「何も無いからイライラして夜も眠れなかった。」。。

この時私は、父の弱点を見ぬいたのです。これからは喧嘩を吹っ掛けられても喧嘩をしないと心に決めました。これは大きな気づきだった。

本当に私が我慢ならなくなる様な追い込みで父は喧嘩を吹っ掛けてきます。それに乗らない様に、冷静で居られる様にする訓練。私自身にも喧嘩を吹っ掛け、事を大袈裟にしてしまう思考がある事に気づいていましたから本当に良い訓練になりました。その後、私は喧嘩には一切乗らなかった。しかし父は一人で暴言を吐きまくり、一人で勝手に激昂し、その責任を私のせいにしていました。

笑ってしまうのは「その冷静な態度は何だ。その冷静さが俺を怒らせている事に気付かないか。あなたはあの女が~~。」と言う父に心の中で思った。あの女が産んだ子ならこんなに冷静で居られるは筈がないでしょ!と。

ある時、やはりデパートでランチをして映画の上映時間のタイミングが悪く、時間が押せ押せになってしまった時の事。買い置きしてある食材で私が父の夕食用の食事を作っている時でした。ただでさえ時間が延長でした。その上で父はすぐに食べると言い出し、私が作ったら帰らねばならないと言うと父は急に怒り出した。「スーパーにも一緒に行きたかったのに俺は給料を払ってもスーパーにも付き合って貰えず作ったら帰るだと。そんなにせかすように作ったものは波動が悪い。そんなものを食べたら早死にする。俺を殺したいのか。捨ててしまえ。俺の金もお前が近親姦の事を佳代さんに黙っていたから稼げただと~」と。。。。

「それ、去年私が言った事で言い過ぎたと謝った事でしょ?」と私が言うと、「一度言った事は撤回できない。それを分かっていない。」と怒鳴った。「そうね。言った事は撤回できないわね。ごめんね。」と私は淡々と言い、その言葉、熨斗付けて返したいと思いながらこの親が撤回できない等と言う事が滑稽で怒る気も起きず、笑うしか無かった。父は買い物に行って食べるものを買ってくると言いましたので、そろそろ作り終わるから、鍵持っていってねと言い、「食べられる物を私は捨てられないから、否だったら捨てていいからね。」とも言ってその日は私は帰る事にした。


私が急いで作ったものが波動が悪いのでは無い。時間が無い中作ってくれたとは思わず、急いで作ったものは波動が悪い等と暴言を吐く父の波動が悪い。そんな気持ちで当てつけに買ってきた惣菜を食べる行為の方が波動が悪いと言う事に気づいていないのだ。この親は二十年以上前にどんなスピリチュアルを勉強したのだろう。

こうやってDVに関しては私が幼少期から抱え込んだ負の感情をどんどん書き換えられていました。子供の頃は父の暴力が酷く、きっと自分が何か分からないけれど悪いのだろう。私はきっとダメな人間なんだろう。私は馬鹿なんだろうと思い込んでいた。父はいつも正しくて、私が間違っていて、父は強く絶対神だった。私が十九歳で無感情になった時、ピアノにキリで「私はダメな人間」と文字を彫り続け、引きこもりになった時、きっとダメな大人の人間の一丁あがりだったのだ。でも今は私がダメなのではない。父の方がダメな人間で、いつも自分中心で、我儘で、自分がどんな時も正しいと思い込んでいて、弱い者にしか当たり散らせない弱虫で、絶対神なんかでは無く、愚かな裸の王様だったのだと心は書き換えられた様な気分でした。

このように、癇癪持ちの激昂する父でしたが、私はのべて明るく父に接しました。煽てておけば、機嫌良くする父でしたから朝っぱらから機嫌が悪くなるより帰るタイミングだけの不機嫌ならばそれで良いと思ってたのです。しかし、父は近親姦に関しても私にフラッシュバックさせるようになっていった。


私が心療内科に通う事に父は反対しました。「そんな所に通う事は良くない。たとえ医者に対してであっても近親姦の事を他人に話すのはお前の心にとって良くない。自分の恥を人に話すと言う事は心が弱い証拠だ。」と言う日もあれば、私が十九歳になったばかりの頃、無感情になる直前、芸能学院の先生に相談して、ご縁が決裂した時の話を持ち出し「一言有加に言っておくが、ああいう相談は人生の中で一番してはいけない事だと言う事を反省しないでいると道を踏み外す事になる。世の中、誰にでも人に相談できない程悩む事の一つや二つはあるもんだ。それをイチイチ相談すると言う事は人間として一番やってはいけない事だ。」と言いだした。近親姦は父の恥ではあっても私の恥ではない。それに人に相談して解決出来なかったのは社会の認知度があの時代、低レベルだっただけで私に責任は無い。こういう事を言われる瞬間、私の体中に忘れていた「嫌な感触」が沸き起こり、冷静を保とうとして他の話に切り替えたりしながらやり過ごし、それでも実家から自宅へ帰る環八を運転中に涙がボロボロ零れ、自分の稀有な人生が悲しくてどうしようもなくなるのです。夜、眠っても一~二時間で目が覚め、息も苦しくなり出す。主治医に相談し、安定剤を処方してもらい、私は夜だけは眠れるように努力していた。父の事は娘としては許せている気がした。しかし、これは条件付きの気持ちだったのです。私はこの時それに気づいていませんでした。暴言までなら許せる。しかし近親姦に関して許しきれていなかったのです。私自身が思いだそうとしていなかったのだから、父にも封印させたかったのだと思う。それなのに私は、自助ミーティングでの自分のシェア、人のシェア、これを繰り返すうちに、この近親姦というものの根深さを感じ、この問題が社会で少しも浮き彫りになっていない事への憤りも感じていた。近親姦に関する本も何冊か読み、被害者の心の傷は一生続くと書かれているものもあり、中には心にガン細胞を抱えているのと同じだと表現されているものもある。私は比較的明るく生きて来れていても、相手が親であるが故に恨んだり憎んだり、苦しかったり、悲しかったり、振り返ると自分で気づかなくても負の感情まみれ。いつもそれらが自分の心の奥底に纏わりついていた様に思ったのです。私は本当に明るい性格だったのだろうか?夜には安定剤を飲み、父の激昂をやり過ごし、厭らしい話も聞き、帰りには涙でボロボロなのに、デパートに行く時はふざけたように明るい娘を演じ、店員さん達がうらやむような仮面親子をしている訳です。私の心の明暗の境界線はどこにあるのか?自分でも分からなくなっていました。治療の一環として、過去の歴史を文章化する作業は中断していましたが、一度は文章化する事も必要だろうと、この頃私は再認識しました。

父が激昂するのは私が帰る時のだけだったのが、それにも変化が始まった。「正彦さんとの生活と俺との生活とどちらを選ぶんだ。あなたは俺と関係があったという自覚が足りなさすぎる。近親姦を否定するから正彦さんの会社がダメになったんだ。」と怒鳴ってみたり、相変わらず口に出すのも恥ずかしいような厭らしい話をしてくるので「そういう話は聞いていられないから。」と私が言うと突然怒り出し、「それがうちの家風なんですよ。あなたは近親姦で育ったんですよ。なんでそれが分からないか。」。。。

父は滅茶苦茶でお話にならない状態になってしまうのです。その度にこんな環境で子供時代を送ったのか?と様々思いだすと、私も、もう限界で、何度か時間前に帰ってきたりもしました。

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