不条理を乗り越えて



  不条理を乗り越えて


私が少し落ち着いたのを見計らって正彦さんが「今日は有加とお父さんの事。僕の事を色々話そうか。」と言った。しかし、私が封印した五年間の中の二つの恋の話や、各々その恋の相手に言えなかった「嫌な感触」についてまでは、まして私の当時の淫らな生活は、この時彼には言えなかった。しかし私は過去の自分に起きた近親姦の事、愛人になれと言われていた事、耐えた年月等、具体的に話しました。

彼は「有加は長きにわたって耐えていたんだ。君には申し訳無いが、君のお父さんは親になってはいけない人だったんだよ。」と呟き、私は「心が苦しいから、暫く心療内科に通いたい。」と漏らした。彼は「それはいい事だ。自ら心を立て直そうとする事は必ず良い結果がでる。僕は君とお父さんの近親姦はせいぜい数回、間違いで起こした事だと思おうとしていた。そのように思い込まないと若い頃の君と僕とは上手く行かなかったような気がしていた。しかし、そんなに酷い状態だったとは思わなかった。良く頑張って生きたね。君は偉い。」


彼の会社が一番大変な締め括りの時、彼が言ったのは各々が自分の立て直しに専念する事。勿論辛い時に思いを共有するのはいいのだけれど、お互いがギリギリの心理状態だろうから各々で乗り切る事。そしてこの夜だけは私の話をたくさん聞いてくれました。最後に「明日から戦いだね。二人で力強く生きよう。」と励ましてくれる彼の表情も又、懊悩が幾重にも重なって悲鳴が聞こえてくるようでした。


数日後、あの時と同じように蘇ってしまった「嫌な感触」。深い闇に落ちて這いあがれない感覚。体中が蝕まれる感覚がどうにもならず私はは生まれて初めて心療内科の門をくぐりました。


最初のクリニックは家から通いやすいという条件で選びました。担当医から聞いた事は、私の世代位迄は精神病棟に入っている人が多く、近親姦という過去を持つ者が居るには居るという事。その後増える傾向にあると言う事。しかし、私の世代は病気が故に幻聴、幻覚もある訳で、本当か?妄想か?は定かで無いと聞きました。私は自分に起きた事は世の中に殆どない。あっても稀な事と思い込んでいたのと違う事と、私の世代はその殆どが人生を脱落している事に驚きました。この時の駅前クリニックのような病院では、私の症状「嫌な感触」をどう治すか?について、私の子供ほどの年齢の男性カウンセラーに話をして医師からフラッシュバックしてPTSDと診断され薬を処方して貰うというものでしたが、私はこれでは治療とは言えない。何かが違うと感じました。幸い処方箋薬局で薬を手にした瞬間「嫌な感触」は消えました。しかし、過去に一時的に消えた事があり、その後再び苦しんだ経験。。。。

これにより更に考えた。。。

もし、私と同じ経験者が私が思うより居ると言うなら、この問題にもっと詳しい病院があるのではないか?私は過去の経験「嫌な感触」が消えても心から湧き出る膨大な憎しみは消えず、何かにに突き動かされるようにパソコンにキーワードを入れて、家に近いと言う条件を捨てて病院を探しました。


その病院は都心ににあって、院長は日本で唯一近親姦というテーマだけに限らず機能不全家族というものを研究し、書籍も多数出されている精神鑑定医の病院でした。最初は院長ではなく勤務医でしたがそれでも予約をして初診までに一カ月待ちの状態。その間、NPO法人で性虐待被害者達の自助ミーティングもある事を知り通ってみました。性虐待ですからレイプ被害の女性等も一緒ですがどちらかというと近親姦被害者たちの方が多かったように思いました。この時から私は近親姦について書物やウェブページで勉強する事になっていった。

書物等に寄ると日本ではこの問題は置き去りにされている。しかし他の先進国では統計が日本よりとれていて、体罰による幼児虐待が増えると、近親者による性的虐待も比例して増えるのだと知りました。そしてその後の人生で性産業などに従事する割合も増えるそうです。私が未成年だった時代は今よりもっと情報の乏しい時代。私は今まで医者にもかからず薬も飲まず酷い生き方から逃れてよく生きてこれたと自分自身の五十年を振り返ってみて思いました。私はまず、自分の心の立て直しをしてから考え方に変化をもたらさねばならないと感じましたが、この時抱えている父への憎しみをどのように対処するのか?冷静にになろうとする自分と、感情的に泣きじゃくる自分と、混乱の毎日を過ごす事になって行くのでした。

ようやく初診の日を迎え、勤務医である担当医師に過去を話し始めました。ピシャリと言われたのは、「あなたはまだそんな事を言っているのか?」。。。

否、最初は説明しないと分からないでしょうと反発したくなるのを堪えました。

医師曰くもっと父親の事を深く理解しなさい。今度迄に、両親のルーツについて過去三代遡って知りえる事全てを書き出すようにと宿題を出された。この瞬間、私は否応なく、限りなく途方もない心の闇の扉を開け、重い過去との対峙が始まったのです。

私は心療内科受診と、自助ミーティングでシェアをしても、それだけでは何か足りないと感じていました。怒りと憎しみの湧き出てくる分量が膨大で心の整理が追いつかないような気がしていた。仕事に行って午後の自由時間に一人になると、まるでゲリラ豪雨のように涙が止まらず、ある日私は親戚に電話をかけたのです。

佳代さんはもう居ない。遠慮等しなくても良いのだからと思った。


父の姉の娘である従姉の冴子は最初は理解してくれました。話を聞いて驚いたのは、父の裏工作。「有加は専門学校に俺が学費を全額納入していたのを引き出し、持ち逃げして学校をやめてしまった。」と冴子も伯母も聞いており、佳代さんにも父はその様に言っていたそうです。私は苦しみぬいて自殺未遂をしたり様々あった中、経済制裁を受けて二年目以降の学費をどうするか?悩んだ事はあっても、納入もされていない学費を引き出した覚えはありません。そして、実家を出て更に深い闇へ落ちて行くような暗雲低迷な中、生き抜いたと言う事が本当の事で、父の言っていた話は有りもしないねつ造でした。それだけではなく、二十代中盤の頃、レビュー小屋の恩師からの仕事で京都へ行った帰りに伯母と冴子の家を訪ねた時の事。父はあらかじめ、電話を入れていた様で「有加は母親があんな死に方をして不良になって今は精神病になってしまった。何か変な事を言うかもしれないが相手にせんとって。」と話していたそうです。

冴子曰く「どう見ても有加ちゃんが精神病には見えなかった。何かおっちゃんの言うてる事はおかしい。私から見たらず~っと昔からおっちゃんの方が異常者やと思ってたし、暴れたら止まらんしなぁ。有加ちゃんが行方知れずやて聞いた時も、絶対にどこかで力強く生きているのと違うやろか?もし有加ちゃんを探してあの暴力親に会わせるより有加ちゃんを信じた方がええんと違うやろか~って、お母ちゃんとも話してたんよ。それにしてもそこまで厭らしい親やとはなぁ。」。。

私はこれらの話を聞き、まるで主人公を悉く追いつめる流行っていた韓国ドラマの話の様で、親がそこまで子供を貶めるのかと驚きました。電話を切る時、冴子から言われた。「これから親戚づきあいしましょ。」と。。今思うと束の間の親戚だったけれど私は嬉しかった。そしてこの時涙を流した。。。

伯母もあちこち悪く、グループホームに入っているようで、そちらにも電話したのですが、伯母だけは話した感触が少し違いました。伯母が言ったのは、父親を捨てろと言う事。行政に丸投げして相手にするなと言う事。そこまでは良かったのですが、私が傷つく事も言われました。「十七歳もなって近親姦から逃げなかったんは、あんたにも責任があるんと違うか?」。。。

ドメスティックバイオレンスの話をしても、理解はして貰えなかった。「あんな親に育てられたんはかわいそうやけれど、有加も異常な子供になったんと違うか?」と言われ、その言い方はまるで私が望んで近親姦に至ったかのような言い方でした。「そんな事は忘れて、前だけ向いて生きろ。」特にこの言葉には反論したいのは山々でしたが、相手は父より高齢者ですし何を言っても無駄だと思った。適当に話を終わらせて私は電話を切りました。その後、やはり父の裏工作の影響を感じざる得ないと感じた私は、やはり従姉の冴子とも縁が無かったのだと思い、今でも連絡をとっていません。遠くの親戚より近くの他人とは良く言ったもので、私にとっては同じ苦労をしてきた近親姦被害の仲間の方が、親戚以上の分かり合える関係性だと感じていました。

ある時考えた。岐阜の教授は一体何を流せと言ったのだろう?そこで、犬の闘病を思い出してみた。西洋医学だけが全てではない。だとしたら?クリニック以外に何か方法は無いのだろうか?犬に奇跡を起こさせたのだから私の心の問題にも奇跡を起こそう。

振り返ってみれば飼い主の私の心の中まで見抜いたチャンネリング。東洋医学をされる獣医師で、しかも教授となれば人間のお医者様とも多岐に渡って交流がある筈。そこで教授に連絡をとってみました。

最初は父とのいきさつは話しませんでした。ところが、教授は見抜いておられた。「診察には学生達が研修としてやってきます。学生には聞かせられない話もありますから今、私が感じている事で東京での適した対処をしてくれる神道の先生が居るのですが、その先生を紹介しますから、それではどうですか?わざわざ、岐阜へ来るのも大変でしょう。」とおっしゃった。私は教授の紹介なら安心ですが私としては教授そのものがパワースポットの様に感じている事。学生さんの前では余計な話はしない事。その為に掻い摘んで私の状況を予めメールさせてほしい事を伝え、あくまでも犬達を診て貰う。そのついでに前回のように飼い主を何とかしないといけないというスタンスでアドバイスを頂けないかと言って、電話を切りました。メール送信後の教授からの回答は、実際にお会いした方が良さそうです。岐阜にいらしてくださいとの事でした。


十一月上旬、私は犬達二匹を連れて再び岐阜へ行きました。学生さんたちは居なく、昨年いらした助手の男性医師と教授だけで、女医さんは近隣の別の大学に今はおられるそうで、どうしても時間が作れず今日は来れないと教授はおっしゃった。

私は、「昨年先生は私に何を流せとおっしゃったのでしょうか?」と質問すると、「その時思いついた事を言っただけです。昨年のあの時のあなたにとって必要な言葉だったとしか言いようがありません。今日はそれにとらわれず、今あなたに必要なのは「憎しみを舐めつくせ」という事。昨年より今の方が負のエネルギーがビンビンこちらに来ます。これでは前は向けないでしょう。心の表面でどんなに前向きに行こうとしても後ろに抱えている問題が大きいと前へは進めないんです。負のエネルギーを放出しないと荷物は軽くはならない。そして負のエネルギーを放出する時は苦しむし、痛みを伴います。今日はお会いできて良かった。神道の先生でも無理でしょう。

ところでシーターヒーリングというのをご存知ですか?アメリカでは統合医療の中に入っています。これを日本で出来る強いヒーラーは数少ないです。あなたの場合、パワーの少ないヒーラーではあなたに負けてしまいます。信じるか信じないかは別としてシーターヒーリングは気付くまでの苦しい期間を短縮してくれる。私が紹介するのは脳神経外科医で病院もかまえています。アメリカの統合医学での勉強もしている。彼にはパワーがある。場所は横浜です。行くか行かないか?はあなた次第です。

後、インドのヨギ(高僧)の所へ私は修行に行った事がある。彼が言うには理不尽な事、不条理な事、ここから来る憎しみは憎しみ切らないといけないんです。親だから憎んではいけないと言う事は無いんですよ。

「宇宙の法則」でもそうです。マイナスにマイナスを重ねれば一瞬にしてプラスに転じるんです。あなたが前を向くためにはこれが一番近道です。」とのアドバイスをうけました。

教授にお礼を言う時、私は少々涙ぐんだ。「ありがとうございました。私はこれから残された一生をかけて勉強します。」と言うと、教授は「あなたに会えて良かった。僕も一生勉強し続けます。今日はありがとう。」とおっしゃっていました。


不思議なものです、親を憎んだりしてはいけないという世間一般の固定概念。それは父からも俺を憎むなと刷り込まれていた。。。

私のような場合、憎んでも良いのだと思えた瞬間に抱え込んでいた荷物が少々軽くなった様な気がした。。。

不条理、理不尽、一般的な日本人にとって縁遠い事かも知れません。しかし、現実にはそういった問題を抱える人もいるのだと言う事にも思いを馳せた。

世界を見渡せば何時ミサイルや爆弾が飛んできて殺されるか分からない人や、大事な家族が眼の前で拷問されたり殺されたり、そんな様を見て育つ子供も居る。途方もない貧困から苦しむ子達も居る。少年兵や、性奴隷にされる少女もいる。その子たちに根本問題を解決せずポジティブに生きろと言ったところで何の足しになるのだろう。運命を呪ったとしても当然の様な気がする。そんな時に人は優等生に等なりきれる筈は無い。

私はたまたま平和な時期の日本に生まれただけで家庭の中は平和とは程遠い檻の中で育ったのだ。吐き出す事でバランスを取りながら生き永らえるるしかないではないかと思った。

この時、過去の闇の五年間の最後に私が経験したなマイナスにマイナスを重ねてプラスに転じたバンジージャンプのような出来事につながる様にはまだ気づいていませんでした。


東京に戻り、暫くしてやっと念願の精神鑑定医である院長のワークショップの日がやってきた。多数の患者を抱えてらっしゃる先生は質感と言って居た。久しぶりに会う方でも二~三言しゃべるうちにあぁあの時のあの出来事のあの人ねと言う風に覚えておられる。先生は西洋医学に身を置きながら東洋医学の「気」のような感覚をお持ちなのだと思った。先生の私へのアドバイスは「母の理不尽な死から父の母に対する深い愛情が捻じれた。。。そこにはファンタジーがある。他によくある近親姦とは分けましょう。お父様を只の性的異常者にするのはもったいない。何だかんだ言い訳をして、こじつけて近親姦に持って行ったとしても、そこに妻(あなたの母)即ち、あなたに対する愛情が隠れている。そのファンタジーを捨てるのは止めましょう。あなたの回復に役立ちます。あなたはダンサーだったり演劇をやっていた過去があり、自分の言いたい事を纏めてしゃべる能力がある。そしてほかの人の話もポイントをよく聴いている。しかし結論を早急に出そうとしすぎる。もっとゆっくり考えましょう。あなたには薬は必要ない。話す事、聞く事、そしてあなたには考える能力がある。トラウマ?気にしないでいいですよ。あなたは立ち向かう事ができる人。大丈夫。一緒にゆっくりやっていきましょう。そしてクリニックの方のミーティングでもあなたの話をいろんな人に聞かせてやって下さい。」といった事を言われた。

私はこの先生に担当になって貰いたいと思いました。


岐阜の教授は父を憎んでも良いとし、院長は父には愛があり、それが捻じれファンタジーがあると言った。この二人の先生のおっしゃる事の着地点はどこにあるのか?愛があり捻じれファンタジーを抱えている人を憎めるのか?こういった理屈の合わない事を同時に考える事。。私は飼い犬の闘病以来嫌いでは無くなっていた。。。


心療内科では主治医交代の為には二か月近く診察の間隔があいてしまう事になり、私が一番悶え苦しむ時期は、岐阜の教授の紹介の脳外科医であるヒーラー先生を頼る事にしました。

ヒーラー先生は、当時横浜の方で病院を開業されていた。脳神経外科、内科と至ってノーマルな病院ですが先生は統合医療という立場で治療されていて、希望者にはシーターヒーリングの治療も時間外でされていました。シーターヒーリングを受けてみて確信したのは、憎しみの量が減ったという感覚でした。それは憎しみを舐めつくさないというのではなくヒーリング後、それまで以上の非常に怖い悪夢をよく見ました。ヒーリングを受けると悪夢を見て泣きじゃくりながら怒り等負の感情を感じながら目が覚める。要は夢の中でカタルシス出来ている感じでした。そして、様々な気付きが生まれてきました。父が年老いたという理由だけで父を許した事の間違いや、許すにも苦しみが伴うと言う事、父から傷つけられた人生の中からでも感謝しなければならない事があれば拾うと言う事、許す行為は決して上から目線だけではいけないと言う事。等、頭にポッ!と浮かぶのです。それは「考え」ではなく「思い」と言う形で。。。

出てきた思いを突き詰めて考えた時、母の闘病の時に最後まで諦めなかったという境地に辿り着いた。。。

父はまだ死んだ訳ではない。生きている。憎しみの感情は裏返せば愛だと言う事。それは近親姦なんかによるものではなく、私が得るに至らなかった親子としての愛。娘として親を慕いたかったという幻想が壊された無念さからの憎しみであり、裏返した愛の感情にも苦しんでいる。その様に気づくと、父の介護、殆どはデパートばかりに行くヘンテコな介護でしたが、そんな中、ふと父が漏らした言葉が浮き彫りになった。「有加、米倉と言う名前を覚えているか?」私が「覚えているよ。」と答えると、「俺はどんなに頭が悪くなってもあの名前だけは最後まで忘れんよ。」と言っていた。「米倉。。」母の最期の手術をした医師であり、母の担当医である助教授の名前だった。

近親姦の事を振り返りたくなかった五年間が私の心の闇だとすれば、母の悔しい亡くなり方。これこそが父の心の闇なのだ。

母の死については私もインナーチャイルドを抱えている筈。言ってみれば、当時私と父は大人と子供の違いはあっても戦う同志だった。そんな事を考えていると、母が亡くなった時、父と私は一体何をしたのか?裁判をどうするかを父から聞かれた時、当時私は十一歳であり、何もなす術は無かったものの、私は訴えたら酷い目に合うと思い込み裁判の拒否をした。しかし幼き私の心の扉を大人の私が開いてみると本当は波風を立てたくないという気持ちを無意識に感じていたと気づいてしまった。訴えたら酷い目に合うという事に張り付いた理由。幼少期、母が受けた処方ミスの裁判中、父と母は喧嘩ばかりでした。私が訴えたくないと言ったのは、波風が立てば父のイライラが酷くなるという事を知っていて、悔しい心から私は逃げていたのだと気づいたのです。母からしたら亡くなったのは自分なのに遺族が何もアクションを起こさなかったのは非常に寂しい事ではないか?もしかしたら、母と同じように身内を亡くした遺族が何処かに何か書いているかもしれない。他に裁判をした遺族は居なかったのだろうか?もし居たら思いを共有したい。そんな気持ちで私はパソコンにキーワードを入れて検索してみた。そこで実は母の受けた手術が入院前に学会発表されていた事を知ったのです。そして、そこに書かれている内容を読みすすむうち、私は怒りと悲しみに溢れました。母は騙されて手術を受ける決心をしていた事。。うすうす分かって居た事から私はずっと目を背けていた事に気づき、このままでは自分が今後を生きるのに良くないと思った。

発表もされていない手術だったのだから、と言う事で納得をせざる得なかった父と私は一体何だったのだろう?と悔しさが込み上げてきました。


母の死について知っている人がもう一人いる事を思い出した。杉並にいた頃の総合病院の母の担当女医の山木先生です。今更ながらであっても、執刀医に手紙くらい書いても良いのではないか?それを相談する事を迷った挙句、当時、茨城の病院に勤務する九十歳の山木先生を訪ねることにしました。九十歳と言う年齢でまだお医者様を続けておられる。まるで私の訪問を待っていてくれているように私は思いこんだ。

十二月最後の火曜日、朝から土砂降りの雨の中、私は外環から常磐自動車道を走って茨城方面へ向かった。とても九十歳とは思えないくらい若々しい山木先生はニコニコと私を迎えてくださった。最初のうちは古い話でしたのでお忘れのようでした。お話するうちに少し記憶が戻られたようで「言ってみれば、あれは実験のような手術だったもの」とおしゃった。その後の父と私の話を打ちあけ、「どうしても米倉先生に手紙を書き、お話したい。恨み言を書くのではなく、米倉先生の著書を読めば母を手術した大学病院の事だけがすっぽり抜けている。母が亡くなった翌年研究室は閉じられ、教授は残って助教授の米倉先生だけが故郷に帰られている。米倉先生も又、この時期に心に闇を抱えているのではないかと思う。正直な自分の気持ちを書き、米倉先生が私に会ってお話して下されば、あの先生自身も心に抱える闇を払拭できるのではないか?私も十一歳の子供のまま心の時間を止めてしまっているのを、動かす事が出来る様な気がするんです。」と言いました。山木先生は私の話をじっくりと聞き「お書きなさい。お返事は期待できないけれど、そういったお手紙なら書いても良いと思います。それにどう対処するかは米倉先生次第でしょうけれど、今連絡がつくなら後悔しない様にしなさい。」とおっしゃって貰って病院を後にした。元来た道を走りだすと、土砂降りだった雨が上がり、陽が差していました。あの時と同じだ。前日未明まで降り続いた雨、それが嘘のように晴れ渡った朝、あれが母の最期の日だった。もしかしたら、漸く母の涙を晴らす時が来たのかもしれない。きっと空が私に教えてくれたのだと心が震えた。後日私は米倉先生に手紙を書きました。


当時の母の看病の様子、そして内部告発してきた看護婦さんが居た事。それでも発表されていない手術だと信じ込んでいた事から訴訟を起こさなかった事等を説明として書き、実は発表されていたという事、その内容を知り、心が締め付けられるような思いになった事。そして先生と言う人物を知るために著書を読み、医療の道に進まれた先生の経緯などから先生が悪人とも思えない事も書き、先生自身も心に闇をお抱えなのではないか?遠い昔の事、当時十一歳だった私には何も出来なかったのですから、一度だけ会って真実を話していただけないかといった内容で書きました。おそらくはお返事は無いだろうと思っていました。

私は忘れさせない。という矢を放ったつもりでした。著書を読んでみてこの医師は絶対に心に闇を抱えていると確信したからです。山木先生にはそこまでの話はしませんでしたが、穏やかな文章であればある程、抱え込んだ闇には響くのではないか?そんな気がしたからです。老年期に入った年齢であれば「死」と言う事を当然考えるだろう。私は過去の自殺未遂により「死」と言うものの恐怖を知っている訳です。絶対に忘れたままにはさせない。といったアクションの一つも遺族として起こしておかないと私はきっと後悔すると思ったのです。一つのケジメにするつもりでした。ところがお返事がきた。漠然とではありますが、十一歳の少女だった私の心を傷つけて申し訳ないという一文が入っていた。その他の文章は非常に慎重に書かれたのだなと思いました。しかしその行間に含みがある様な気がして私はその行間を読み取ろうとした。お返事を更に書くか迷っていると一冊の本が入った手紙なしのレターパックが届いた。それは先生の功績が書かれた本でした。素人の私には難しい先生の医学的功績が書かれている事にこそメッセージがあるのかと思った。考えると、やはり自分の立場を考えてほしい。完全なる真人間にはなれない。心の闇は抱えたままで生きる。といったような意志が込められているのだろうと思った。ふと、横を見ると母の象徴のような子である下の子が、米倉先生の本の箱表紙を愛おしそうに舐めていました。とても大切そうにペロペロと舐める様を見ていると、母が「もういいよ。ここまでにしなさい。」と言っているような気がした。不条理、理不尽。言葉を覚える前に経験した母の死。私はインナーチャイルドを抱え、父は心が壊れ、捻じれ、その影がいつの日か闇に変わり抱え込んでいるのだと思います。あのような、その後功績を積んだ医師が返事を書いてきた。その事に意味がある。米倉先生からしたら、振り返りたくなかった闇からの手紙だった事でしょう。私は手紙を書いた事に加え、返事が来た事で止まっていた心の一部の時間をやっと動かせたような気がしました。米倉先生一人が悪かった訳では無いだろう。その後に救った命も多々あるのだろう。あれは、時代がそうさせたのだ思う事にしました。そして、私の頭の中に残った言葉。それは、「諦めない心。」父への憎しみを吐き出しながら、拾わなくてはならないものの中の一つ。それは、母の命を最後まで諦めなかった事。父の心の捻じれはもう元には戻らないのだろうか。諦めても良いのだろうか。あの時、同志だった父から教わった事を知ってしまったのに私は見捨てる事が出来るのだろうかと真剣に考え始めました。


怨憎会苦を乗り越える時が来たのです。

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