第六章手放す

精神性との対峙



  精神性との対峙


岐阜へ行った時の事を思いだしてみた。「あなたは大丈夫。こういうのは嫌いじゃない。嫌いな人にはやりません。」と言われてチャンネリングをされた。

あの時から私の心の旅は始まっていたように感じる。。あの教授と出会って居なければ、私はすんなりとは父の介護に言って居なかった筈だから。。。


昔、父に精神性の本を薦められ、その本を基に愛人になれと言われ続けた経験に再度目を向けると、父から洗脳のように言われ嫌悪を感じていた私はこの手の本や教えが大嫌いだった。しかし、本当はどちらだったのだろうか。


ある日、あるヒーラーのページに釘付けになった。人の心を癒す筈のヒーラーが、人の人生には興味が無いと書いていたからです。高圧的な文章に何処か懐かしさを感じて、ざっくりと読んでみて思ったのは、これは精神性教えというよりマニュアルだと言う事。しかもそのマニュアルにはすべての人に当てはまると書かれているのです。しかし人の人生、もしマニュアルだけでみんな幸せになれるとしたら人生なんて味気なくてつまらないものになってしまう。それにすべての人って?どこまでのすべての人だろう?マニュアルでどうにかなる程人の人生は単純ではない筈だという考えが沸き起こり、そんな時、まるで父が書いたのか?というような文章に出会ってしまったのです。


書かれている事を要約すると「やりたい事をやりなさい。それは自分本位であって良い。家族を幸せにする為には自分のやりたい事をやる事が、結果、家族の幸せになる。あなたが犠牲になることは無い。」

父が私に様々言い続けた父自身の根幹の部分でした。父がやりたい事は近親姦。そして自分本位である事。それが娘の私の幸せにつながると言う事。

私はこれを読んだ時、心の中のどこかの火山が噴火し、ムカムカと憎悪の噴煙を心の深い闇に充満させ、矢も楯もたまらず思いの丈を文章化し、泣きながら、鼻水を垂らしながら、心の奥底の闇の中へと落ちていった。

何日か苦しんだ後、更なる疑問に気づいたのは、誰がどの精神性教えをチョイスするのか?

「教え」すなわち法則はおそらく無数にあるのだと思う。「ポジティブに生きなさい」というのだって、私が教授に教えて貰ったのとはまるで逆で「ネガティブを重ねろ。」と言われた。要は、裏法則というものも存在するのかもしれない。誰がどの法則を選ぶのかは?突き詰めれば自分の心の筈。では?心の状態はどうやって決まるのか?考える事と思うことの違い。。。しかも、本当の心(心根)というものは顕在意識にはない。

考えるのは脳、思うことが心。。思いは何時でもやってくる。放心状態、無意識、睡眠中にだってやってくる。考えは変えられる。しかし思いは中々変わらない。思いはわきおこってくるのだから。。

心の状態によってその教えを知るチャンスを得られるのか否かが決まるのだろうか?そしてどのように気づき、解釈するのかが決まってくるというのか??

その心はだれが変えるのだろう?どうやって変えるかまで。。。否、言い方が違う。。どうやって普段意識しない潜在意識まで響き、心根を変えられる法則に出会え、つかみ取る心になるか?は考えを繰り返し、考えを深め、やっと潜在意識をほんの少し変えられる。法則が変えてくれるのではない。己自身なのだ。

例えば、毎朝パチンコ屋に並ばずには居られない人の心と世の為人の為に尽力するような人徳者の心と、どちらが正しいと言う事では無くて、その人それぞれにやりたい事や心が浮き立つ事は違って当然です。前向きな行動だって違う筈。選ぶ生き方や、心に残る言葉のチョイス迄もその人の心の状態次第と言う事になってくるのではないか?

この気づきから更に気づいたのは、父は私を洗脳しようとしたのではない。父自身が洗脳されていたのだと言う事。父の心の中にも善と悪は存在するのだと思う。その善の部分に押しつぶされそうになった時、このような法則に逃げたのだと思った。もしかしたら、私より深い闇を父は心の奥底に抱えていたのでしょう。とても対峙できるような闇ではなかった筈。何としても自分を肯定したい。そんな時の救いの法則だったのです。狂った心の状態だから、父は益々狂った解釈をしてしまった。父の心根、潜在意識は「逃げる」という選択を精神性法則から選んだのだ。

誤解の無いように書いておくが、精神的な法則が悪いとは思っていない。それをどう解釈するか?解釈の仕方が様々だとういう事を書きたいのです。


父の顕在意識には逃げない。諦めない。戦うといった意識がある。しかし、潜在意識では、おのれの分身である娘との過ちから逃げたのである。

「近親姦」が私の為だと思う気持ちも父の中で本当だとすれば、佳代さんや親戚に真実を知られたくないという気持ちも本当で、父は心をどんどん分離させていって嘘の裏工作をしたり、私に愛人に成れ等と言ったのです。私にまで父の解釈を押し付けないでくれれば良かったのに。。。

では何故。私にまで押し付けようとしたのか?

それは洗脳された父が私を洗脳しようとしたのではなく、自分の行動の矛盾に関してはどうとでも取れる抽象的な教えを都合勝手に解釈しており、娘を救いたいという心に妻に対する憎悪を混ぜ合わせ、私に自堕落な生き方をさせない為に近親姦強要すると言う狂った心だったのです。すべての人に当てはめるための抽象的な表現の怖さを思い知りました。私は父を許そうとしていましたが、この事に気付くと許す許さないは関係無い。いつの間にか父を憎めなくなってしまった。

例えば家族が何かに洗脳されていたら奪還しようとするだろう。早く目を覚まさせたくなるだろう。その感覚に似ているのかもしれない。とうとう日常生活までままならなくなった脳を持つ父が潜在意識をむき出しにしている。あまりにも父が哀れではないかと思った。母の亡くなり方、母との関係性、すべての事も含めてかわいそうな人生だったね。と心の底から思った。

「もう来るな。」と父が言ったあの日、最後は赤鬼のような顔をしていたけれど、その寸前の父の横顔を思い出した。父と関わっていた時が一番不幸だったと私が言ったあの瞬間の父の横顔は「もう勘弁してくれ。」といったような苦悩の表情をしていた様な気がする。。

そしてその表情には、嘗て私が経験した「もうこれ以上は私を傷つけないで。」と思った悲痛な叫びが投影されて、自分をみている様に思い出されてくる。。。父が望む母の亡霊にはならなかった私が、父の前に最後に向かった時には、私は父のコピーのような歪んだの人間になってしまっていて、父の悲しすぎる歴史の負の象徴になっていたのだから、父を介護する人間は私ではダメだったのだと静かに悟った。

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