洗脳からの解放



  洗脳からの解放


ミュージカルのオファーを断ってから、様々考えがめぐった。

母の遺言。佳代さんが劇場に来て言ったくれた事。そして、過去の対峙しきれない闇から抜け出し、積み重ねた事。

本当にやめてしまっていいのか?しかし、そう考える合間に父から、否、あの男から電話が入る。恫喝と聞いてはいられない厭らしい話。

それらが、頭の中でショートしあちこちが壊れていく。こわれたところから煙がでる。考えようとしても考えが纏まらない。

白い靄が邪魔して私自身が私をどうしたいのか分からない。

そして一番分からなかったのは、何故逃げなかったんだろう。。逃げれば良かったのに。。。


私は再び父には地方の仕事が入り、東京には居ないと嘘を言って、平成五年夏、古巣のレビュー小屋でシンガーとしてステージに立った。もうトップレスではありません。思いっきり歌えて充実していた。ミュージカルに出演した事は忘れよう。原点に返ろう。今後はどんなマイナーな場所でも良い。否、むしろマイナーな場所の方が良い。アルバイトしながらでも何処かで歌えたら。。


そんなある日、ステージで歌っていると、私が出演したミュージカルのプロデューサーがやってきました。私の恩師とは知り合いの様で、恩師と二人、「やぁ、久しぶり。」等言い合いながら私に手を振っていた。ステージが終わると、恩師が楽屋にやってきて、「麻衣子良かったね。来年ミュージカルに出るんだよ。俺が引き受けといたから。」。。。

楽屋のみんなにも「良かったね。」「いいなぁ~。」等言われ、引くに引けなくなってしまいました。


客席に行って話を聞くと、翌年春、シアターコクーンで出演者全員が最初から最後まで舞台上にいる。といった面白いミュージカルをやる。。。

ついては是非出演してください。等と言われてしまい、これも又咄嗟の判断。今度は引き受けてしまいました。


私の心。。。。

父からの電話の直後は心がネガティブ。恩師の励ましの直後はポジティブ。そんな時の咄嗟の判断の違いで、一方は断り、一方は引き受けたのかもしれないと今しみじみ思う。


東京公演が二週間。その後、大阪、名古屋、横浜とまわり、ほぼ一か月の公演だと聞きました。秋になって、いつまでも地方に居るとは言いにくくなった私は父に翌年のミュージカル出演の話をしてしまった。再び電話がかかる日々、しかし私は留守番電話で対応した。


平成六年、二月、渋谷の宮益坂の方で稽古があり、その冬は非常に寒かった。ある雪の日の稽古帰りに外に出ると、坂道でブレーキの効かない車があれよあれよという間に三台くらい衝突していた程でした。


このミュージカルは一つの舞台を作りあげていく厳しさを私に教えてくれた作品だった。

メインキャストは6~7人だったか?私はキャバレーの女と言う設定で、大勢口でした。

メインキャスト以外は自分のキャラクターは自分で決めろ。舞台上の立ち位置までも。。。

それは毎回同じで無くても良いの言うのです。芝居に対して基礎が出来ている人は、あのパターンこのパターンと自分をアピールし、セリフを貰ったりしている。私には芝居の基礎は無い。

どんどん心な萎えて引っ込んでしまっていたある日、キャバレーの女たちの中でコーラスが出来るか何人か選別するという事になり、その部分の譜面を貰い、オーディションと言う事になりました。落ちればコーラスすらも出来ないという事になります。歌ってみると、どうもノリが悪い。練習しているうち、私の中では違う音符が浮かんでくるのです。勿論コーラスですから一つのパート部分でオーディションする訳で、そのまま歌わせる訳では無い筈です。勝手に変えて歌ったら顰蹙かうだろうな~と思いながら自分の浮かんだメロディでどうしても歌いたかった。オーディション当日、到頭私の順番になって、音楽監督に聞いてみました。「ちょっとアレンジして歌ってもいいですか?」。。

許可を貰った私は、ハイテンションで思い通りに歌ううち、興奮してしまって、間奏に入る部分で「ア~~~~ッハッハッハァ~。」とラテンのノリで笑い声を入れてしまいました。私の余りの金切り声に皆さん目が点になったと思ったら、演出家も音楽監督も、「いいね~」と言ってコーラスを止めてソロ歌にしようという事になり、麻衣ちゃんはそのキャラクターで行こう。と決まりました。「気の触れたキャバレーシンガー。」と言うキャラクター。。。

その後、メイクさんが入り、私はこの「気の触れた」というイメージ通り、気の触れたメイクを考えてくださり、とんでもない顔で舞台に立ちました。

そのとんでもない顔というのは眼を出来るだけ小さく見える様に描かれて、口は顔の30%を占める大きさで。。笑っちゃいました。

あんなにミュージカルは辞めたいと思っていた私が稽古中はくらいついて行こうと思っていた。

ずっと舞台上に居るという事は気を抜くと素に戻ってしまう。気の触れたキャバレーシンガーに徹した動きを二時間近くしなければならない。。

必死でした。

全公演終わって、幕が下りると、自分の芝居に対する基礎の無さに悔しさが募りました。このまま辞めたくない。

そんな思いに捉われ、私のその後のアルバイトはいつ舞台が入ってもいいような仕事を選んでいました。その後、一年近く仕事のオファーは無かった。

ある日、情報番組を視るとは無しに視ていると、色んな専門家たちが話していた。その内容はドメスティックバイオレンスについて。。

時は色んな芸能人が新興宗教に入ったり奪還したり、そんな時、「洗脳」「マインドコントロール」と言う言葉が流れ出した。その後、阪神淡路大震災があって、「フラッシュバック」「PTSD」と言う言葉が流れた。そんな時代の狭間に事件が起きた。逃げられる様な状況なのに、逃げない。。。逃げないでいるうちに殺されてしまう。。そんな事件についてTVで専門家が話していたのです。事件は恋人間だったようですが、親子でもあり得ると話していました。それまで聞いた事の無い言葉。

「DV」。。私はコレだ。と思った。

私が逃げられなかったのはDVだったのだと気付いたのです。

専門家たちは逃げなかった自分を責めてはいけない。「許せ」と言う。しかし、父に恫喝され、自分を責め続けていた私にとって、今更責めなくて良いと言われても手遅れだ。自分を許す前に父を憎んだ。

何が愛人になれ?俺とセックスした事の責任を取れ?

ふざけるんじゃない。

もう、父と関わりをもつのは止めよう。これ以上は私の気が狂う。


ある日、待ちに待っていた筈のミュージカルのオファーがありました。二回目と同じシアターコクーンで公演されるロックミュージカルだった。最初のミュージカルで音楽指導だった方が今度は音楽監督で、私を推薦したとか?レビュー小屋のプロデューサーが音楽事務所の社長でその社長がプロデュースするミュージカル。社長本人からの電話でした。

私は仕事など入って居ないのに、仕事があるからと断った。今度は咄嗟の判断ではない。

この世界に居る限り、父は張り付いてくる。父とは無縁の世界で生きたい。それに母の遺言。。。。私が歌手になりたい。音楽の道で生きたいと思ったのは一体何時からなのか?あんな子供が、近所の石段で歌を歌っていた少女が、どうして自分の人生を決められるのだ。

私は一体何に本当はなりたかったのだろう。

あんな遺言さえなければ。。あんな自堕落な母で無ければ。。そして父が狂って居なければ。。。


それまで向けようの無かった怒り、悲しみ、いろんな負の感情がやっと出口を見つけたのです。


その後、そのロックミュージカルは再演をしたと聞いた。。

その頃には、もう私には関係の無い世界の出来事だった。

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