赤坂コルドンブルー



  赤坂コルドンブルー


私が二十歳の成人式の日に実家を出る少し前から私は歌舞伎町でホステスをしていました。キャバクラなんて呼び方もしていなかった頃、その走りのようなお店だった。

そしてホステスから足をあらった私は昭和五十九年三月の公演から赤坂のレビュー小屋コルドンブルーに出演する事になる。名前は前年暮れに否応なく勝手に決められた「麻衣」でした。

通常、公演の十日前頃から稽古がはじまります。一緒に出演するオカマキャラの先輩ダンサージョンさんは「まぁ~素人呼んでくるなんて此処も地に落ちたものね。」等と言っていましたが、それでいて結構愛情溢れる人でした。

舞台メイクの下手くそな私に顔半分だけお化粧してくれるのです。もう半分は同じように自分でやりなさいって。。。

結局、右と左が同じメイクにならない訳です。だから必死になってメイクを覚えましたが、初日開いて暫くの間、私は左右微妙に違うメイクで出演していました。

踊りは全くの素人。大体、シェネやピュリエット。。いわゆるターンですが、それすら出来ない。それなのに、出し物のオープニングのド頭でそれがあって、初日のゲネプロ(本番通りに練習する最後)まで出来なかった。人前で練習するのが恥ずかしかった私は、振付後ではなく、家で練習して居た訳で、家具の角に何度も頭をぶつけていてコブが出来てしまい、衣装のシルクハットが入らなくなり、初日当日、帽子の後ろを割って貰い当て布をした、なんちゃってシルクハットを被り、回れるか?回れないかを心配して初日が開きました。


火事場のクソ力とでもいうのか?本番から回れるようになったのですが、本当にこれでダンサーの仕事を続けられるのか?不安な幕開けでした。


最初の頃は早く踊りを上達させたくて、レッスンに行きましたが、どうしても右足が痺れるのです。ステージの振付はさほど難しい事は私の場合要求されていませんでしたが、先輩ダンサーが教えているクラスには、松竹のダンサーさんなんかも練習に来ていて、どうもそのレッスンのストレッチで私は足を痛めているような気がしていた。そのうちに徐々にレッスンをさぼる様になって行きましたが、それとは逆に仕事のステージングだけは上達していくといったアンバランスなダンサーになっていったのです。

ある時、どうして私の足が痺れるのか原因が分かりました。

骨格異常だったのです。

骨盤の上に背骨が乗っかっているのですが、

その一番下の腰椎があり得ない程深い処に位置しているようで、腰が前に倒れないような構造。すなわち、どんなに筋肉を柔らかくしようとしても柔らかくなるどころかその前に神経が圧迫されて足に痺れが出る。。。

どおりで幼い頃から体が硬かった訳なのです。

レッスンでストレッチの時、手加減されていても、私の腰に乗っかられてぐぃ~っと体重をかけられると。ビ~~ンと電気が走る。。

それでも、職業がダンサーなのだからとレッスンを繰り返すと、右足の太ももが1.5倍くらいに腫れあがったような錯覚で痺れが続いてしまう。。。

医者から言われたのはすぐにダンサーを辞めなさいと言う事。。

しかし、私はその頃には踊りのシーンでソロも貰うようになっていました。

踊りと言うのは、私にとって不思議で、これは偏にコリオグラファーである恩師の腕なのですが、私の個性を引き出してくれるような振りをつけてくれるのです。しかもナイトクラブのダンスですから、お客は振りのテクニックだけを鑑賞している訳ではありません。そのシーンに合ったパフォーマンスを観に来ている訳です。そしてこの小屋は個性が無いと通用しませんでした。

男性はかっこよく、女性は色気が無ければなりません。単にトップレスと言うだけの色気では無く、内面性のようなもの。。

そういった意味で、私には歪な過去がありました。その引き出しからそのシーンにあった物語を空想し、私は踊っていた。

私の得意だったのは花魁、ヨタカ、男を仕留める女狐、死者、狂った娼婦等だった。又そういった世界観がぴったりな小屋でもありました。

私は医者から言われた事は忘れた事にして誰にも言わず、ダンサーを続ける事にした。それだけ、ステージが好きになってしまったのです。要するにストレッチもいい加減にしかしない「いい加減ダンサー」だった。その手本は、私の母。悪気無くいい加減な人だったのですから。

そしてこの小屋で、私は時々歌も歌わせてもらえるようになって、一度は暗い闇の過去の五年間で母の遺言を手放しましたが、もう一度母の遺言を叶えられるかもしれないと、踊りのレッスンではなく、歌のレッスンばかりするダンサーになっていったのです。


ダンサーになってすぐの頃、休憩時間になると「お疲れ様。」と言って私にだけ楽屋へ飲み物をウエイターが持って来てくれるのですが、先輩ダンサーたちは怒っていました。聞くと、私に一目惚れしたウェイターが居て「彼からです。」等と持ってきたウェイターが言うのです。そのうちにその一目惚れしたというウェイターが誰なのか分かりました。

当時私は世田谷にマンションを借りて住んでいたのですが、仕事が終わって午前二時半頃帰宅すると何故だか十一階のエレベーターと斜め正面にある階段の所に見知らぬ男性が座っているのです。私はそれが怖くてその彼に相談するうちに本格的にお付き合いするようになって行きました。家に帰るのが怖い私は彼のマンションに泊まったり、私のマンションに来てもらったり。。

それを繰り返すうちに、彼から一緒に住まないか?と言われた。

それもいいかもしれないと思った。

私の借りた世田谷のマンションには悲しい思い出がある。闇の五年間を振り返ろうとした時、一番手前にある出来事はこの当時まだ深く顧みる事が出来ませんでした。九歳の頃、一家で世田谷に引っ越してから考えても転落の一途だった。私は世田谷を離れようと思った。


彼、真一さんと最初に暮らしたのは、港区赤坂。職場に近いというのが理由でした。暮らし始めて困ったのは喧嘩の時の彼のキレ方でした。

今思うと、私にも原因はあったと思う。しかし、暴力が始まってすぐに包丁を持ち出すとは思いもよりませんでした。

最初の喧嘩以来、私は喧嘩になると怖くて、マンションの境の人が通れない処の上にキッチンの窓があったので、そこからいつも包丁を下に落としていました。普段包丁が無いと困りますから、買って来ては、喧嘩の度に下に落としていたのです。

ある時、私服の刑事さん二人がやってきて、赤坂署まで連れて行かれました。「ここしか場所が無くて。。」と言われながら、私と真一さんは取調室に入れられ、お説教された後、始末書を書かされ、拇印を押して解放されました。その後、暫くは喧嘩も鎮静化。

彼は私にダイヤの指輪を買ってくれて、私は結婚を申し込まれましたが、乗り気にはなれず、まだ仕事が楽しいからと言って断った。それでも共に暮らしていて、そのうち家賃が高すぎる事が理由で私たちは新宿御苑前に引っ越しをしました。


ある日、楽屋入りするために赤坂見附からレビュー小屋に向かって歩いているとTBSの前で、ある女性、佳代さんとバッタリ出くわした。

佳代さんはこの時には父の俳優の仕事のマネージャーでもあったのですが、最初は父の彼女のうちの一人でした。

私はどうしても母に似た人に憧れを持っていましたが、母は他人の子供なんか愛せる女性ではありません。結局母と正反対の性格の佳代さんが私に良くしてくれるのです。

この時、何も知らない佳代さんは「パパは口には出さなくてもあなたの事を心配しているのよ。必ず連絡しなさいよ。」と言った。

不可解だったのは、「昔の事は問わないわ。」と言われた事でした。

きっと父の事だから都合勝手に私の事を言っているんだなと思いましたが、父に連絡するか暫くの間私は迷いました。

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