二月
内と外
生来の性格なのか、それが家具でも雑貨でも、俺は一度ものを手元に置いてしまうと、余程のことがない限りは、それを長く使い続けることが多い。修理もできないとなれば、まあ諦めはするが。
そして、興味の範疇は正直な話、かなり狭い方だ。姉にも雲井にも、口を揃えたように『一生同じレイアウトの部屋で暮らしていそうだ』と感想を述べられたことがある。
だから、特に流行り物などに対して常に四方八方にアンテナを張り巡らせている人間を見ると、素直に凄いな、と感心するのだが、それも時と場合によるわけで。
「あーもう、ぜんっぜん決まらねえー!!日置さん、こっちとこっちだったらどっちがいいと思いますか!?」
「……あのな、指示語だけの発言すんな。何のことかさっぱり分からないだろ」
背後から飛んできた、いつもの如く騒がしい津田の声に、俺は一拍置いてそう返した。
「だってー!!もう俺キャパオーバーなんすよー!!まさか小倉さんから誘われるとか思ってもみなかったんですからー!!」
さらに続く泣き言めいた情けない声にいい加減イラっとした俺は、オイルサーディンの缶を開けかけていた手を止めると、手元にあった木べらを取り上げた。
そのまま、グレーの長いソファに腰を下ろして、そこら中、置ける限りに広げた複数の雑誌に囲まれている津田に、無言でずかずかと近付く。と、
「うるさい。とにかく、飯が出来るまで大人しくしてろ」
「……了解っす」
鼻先に触れそうなほどに突き付けてやると、ようやく口を噤んだのを認めて、俺は再び流し台の前へと戻った。天板の端に置いてある、引っ越した時に姉に貰った、派手な赤の炊飯器の残り時間に目をやってから、作業を再開する。
……それにしても、深刻そうだからって、うかつに同情するんじゃなかった。
お客様にもそこそこご来店いただき、猫どもの体調も機嫌も良好な、ごく平和な一日を終え、さっさと帰るべくテナントの駐車場に向かうと、何故かこいつが待ち構えていて。
深刻な顔でうなだれつつ、折り入って相談が、と言うので、俺の家の方が落ち着くか、と思ったのだが、リビングに入った途端にこの有り様で。
「……なんか、すっげー美味そうな匂いっすね」
「ベースが醤油と酒だからな。そうそうまずくはならないよ」
間が持たないのか、近くに寄ってきた津田にそう返しながら、切れていた葱の代わりに残っていた大葉を洗い、ざっとキッチンペーパーで水気を取り、適当に細切りにする。
それを感心したように眺めていた津田が、何やら低く唸ると、
「やっぱ、男も飯くらい作れなきゃダメっすよねえ……」
「作ればいいだろ。凝らない程度ならそんなに難しくもないし」
「いやー、俺大雑把な作業は得意なんですけど、繊細な作業ってマジで下手くそで……けどまあ、それも言い訳ですよね」
何か思うところがあるのか、そう返してきた津田は、よし、と気合を入れるように拳を握ると、すっと腕を上げて、
「とにかく、今度小倉さんの看病する時までに、卵雑炊は完璧マスターします!」
「……まあ、頑張れ」
無駄に高らかな宣言に、どうにも疲れてきたので、適当に聞き流すつもりでそう言うと、
「頑張りますよ!中屋さんもそういうことなら、ってレシピとかコツとか教えてくれる、って言ってましたし!」
やけに機嫌良さ気な調子で付け加えられた台詞に、俺はむっとして眉を寄せた。
こいつが彼女にそういう意味で関心がないのは分かっていても、なんとなく穏やかではないのは、もうどうしようもない。
ことに、可愛い、だけに留まらず、触れてみたい、とまで思うようになれば。
「あ、すいません日置さん、俺ぼーっとしてて!食器とかどれ出せばいいですか?」
「その棚の二段目にある丼二つ。あと、下の引き出しに割り箸あるから、それも」
黙り込んだ俺の様子をどう見たのか、慌ててそう申し出てきた津田にそう指示を飛ばす。
素直にその通りに動くのを視界の端に入れながら、さっきの鰯を放り込んだ小鍋の蓋を少しだけ開けて、煮詰まり加減を見ていると、
「あー!もしかして日置さん、中屋さんと俺が二人っきりで教えてもらうとか想像してないですか!?大丈夫ですよ、俺はどこまでも果てしなく小倉さん一筋ですから!」
突然、時間差でとんでもない台詞を投げられて、俺は思わず蓋を落としてしまった。
「ちょっと待て!二人っきりは否定しないのかよ!」
「それは言葉の綾です!第一、俺がこんな大事な時期に、小倉さんに誤解されるようなことするわけないじゃないっすか!」
妙に胸を張りつつ、即座にきっぱりと言い返してきた津田が、その一瞬後に大きく目を見開いて。
「えっ!?俺、今の冗談で言ったのに!うわ、日置さん、マジでそれって」
「……とりあえず、黙れ」
不意を突かれたとはいえ、痛恨の失言を激しく後悔しながら、俺はコンロに向き直ると、焦げ臭い匂いを発しかけていた小鍋の火をすかさず止めた。
そして、飯の量だけは無闇に多い適当オイルサーディン丼と、インスタントの味噌汁にフリーズドライの野菜を適宜放り込んだだけの、簡単な食事を終えて。
「で、なんか進展あったんですか?」
「お前、当初の目的忘れてないか?何のためにこれだけ掻き集めてきたんだよ」
洗った食器や鍋を、水切りに並べてしまうなり、目を輝かせて振り向いてきた津田に、俺は開いてあった雑誌から目を上げつつそう応じた。
飯を食うのに邪魔なので、床に転がしてあったそれらは、メンズ向けファッション誌が数冊、他は近郊のタウン情報誌ばかりで、その最新号が、全ての出版社を網羅する勢いで並んでいる。それらの表紙に、目立つ色彩でひときわ派手に踊っている文字は、やはりというか、時期的にどれも同じで。
……しかし、バレンタインデートとは、またストレートな。
シフトの都合があるから、当日というわけではないそうだが、それにしても意味深で。
「もう二月入ったんだから、そう日もないだろ。それに、行き先決めないと服装だってどういう方向性か分からないし」
「いや、それはそうなんすけどー!やっぱほら、興味本位ってやつで!」
「せめて興味津々で留めとけ。それに、期待されてもお前ほど劇的な展開はないからな」
テーブルを挟んで向かいに投げてあるクッションに、滑り込むようにして座った津田に言いながら、開いていた情報誌を片端から閉じていく。肝心の中身は、組んでいる特集が多少異なるくらいで、さほど変わらないもののようだからだ。
しろくろには、猫関連以外にもこの手の雑誌が欠かせないから、毎月それなりに購入はしているものの、自分ではあまり読まない。ましてやファッション誌などは、会社に所属していた時以来見ることもなくて。
「えー、そうなんすかー……でも、池内さんが中屋さんのこと言ってたのになー」
「……なんか聞き覚えがあるな、その名前」
えらく残念そうに零した津田の台詞に、記憶を探ると、さほど苦労せずに思い出した。
確か、こいつに頼まれてリーヴル長月に寄った時に、中屋さんの口から聞いて。
よくよく思い返してみると、何度か話にも出てたような、と考えていると、
「あ、そういや日置さん会ったことないんすね。俺の先輩、っていうか女子二人の先輩でもあるんですけどー、割と美人なのにかなりはっちゃけててー、マジ無駄に酒強くてー」
「そういう情報はいいから。だから、彼女がどうしたんだよ」
「えーと、最近雰囲気が変わったっていうか、可愛くなったって。あれは絶対恋だねー!って、めちゃくちゃきっぱりはっきり断言しててー」
「……根拠あるのか、その意見には」
「ないみたいです!だから、近々飲みで聞き出そうかなー、って企んでましたけどー」
それを聞いて、俺はやたらと複雑な気分になった。傍目にまでそう見えるということは、俺だけの欲目でもなんでもないのだろうし、突っ込まれると弱そうだから、またおろおろさせられるんじゃないか、とか、変な心配まで浮かんできて。
それに、もしかしたら、本当に。
「……日置さん、あの」
「……なんだよ」
おそるおそる、といった風情で掛けられた声に、我ながら嫌になるほど無愛想に応じる。と、津田は軽く頭を掻くと、少し俯いて、
「その、俺、それほど中屋さんのこと、そのへんは詳しくないんですけど……ほんと、たぶんなんですけど」
何やら言いにくそうに、しばらく唸っていたが、やがて顔を上げると、
「彼女の周りの男の影って、どう考えても日置さんしか思い当たらないんっすよ!」
「……よりによって、なんて表現だよ」
きっぱりと放たれた、本人には甚だ聞かせにくい単語に、俺がため息を吐くと、津田はさらに続けて、
「いやでもほら、販売部は男の数少ないですし、営業さんも二階は年配の方が多いし、どっちかっていうとあの人おっさん連中に可愛がられるタイプですし!」
「顧客とかの可能性もあるだろ」
「あ、そっか……でも、うーん、そんな噂聞いたことないしなあ……メアド渡してくるお客様、たまーにおられたりもするんですけど」
「お前も貰ったのか?」
「いえ、即座にごめんなさいしてます!当然じゃないすか!」
反射的に、この調子で、いやに爽やかに断られた相手を想像して、結構こいつも罪作りなんじゃないだろうか、などという思いがふとよぎる。
そんな余計な考えを振り払いつつ、俺は意味もなく頬に手をやると、
「……やりにくいんだよ。お客様相手なんて、そんなこと考えたこともなかったし」
開店して以来、しばらくはとにかく営業が軌道に乗るよう、人様の手も有難く借りて、街に溶け込むためにも、慣れないことでもなんでもやってきた。
ようやく固定客も増え、ぼちぼちと安定してきたところで、周りを見る余裕も出来て。
そんな時に、妙に気になる人がやってくるとか、どういうタイミングなのか。しかも、白玉といい、津田といい、関わりが深くなっていくようなことばかりで。
だから、ことさらに『店長さん』としての距離を保とうとしつつも、彼女が傍らにいることの心地よさに、どうしたものかと考えあぐねていたのだが、
「えこひいきどころか、許可貰ったけど、職権濫用めいたことしてるし……それで自爆してれば、世話ないな」
結局のところ、自分から望んで関わりに行ってるくせに。
それに、彼女からそろそろと近付いてきてくれるのも、どうしようもなく嬉しくて。
なのに、こっちから崩しにかかろうにも、下手を打てば、店にすら来てくれなくなるんじゃないか、という怖さもあって。
今更ながら、色々と自覚させられていると、何故かは知らないが、いやにぴしりとした正座で聞いていたらしい津田が、そのままの姿勢でずい、と身を乗り出してきて、
「その、マジで何があったんすか?」
「だから、お前ほどじゃないって言ったろ」
「ええー!?そこまで匂わせといて寸止めとか鬼過ぎっすよ!天に誓って誰にも言いませんからー!!なんだったら社内で斥候でもなんでもやりますし!」
「一切いらないから!それにそんなことしたら彼女に迷惑が掛かるだろうが!」
そうして、半泣きでどこまでも食らいついてくる津田のしつこさに、結局半時間ほどで根負けして。
極力、微妙な内容は伏せつつ話しているうちに、そのまま津田は終電を逃してしまった。
……タクシーで帰れたのはいいけど、あいつの相談はいいのか、本気で。
そして、翌日。
いつもの通り店を開け、猫どもに一通り餌をやってから、店の表を箒で掃いていると、聞き覚えのある特徴的なエンジン音が右手から近付いてきたのに、俺は顔を上げた。
あまりバイクには詳しくないが、高速に乗れることは確実だろうかなり大きな車体の、メタリックな青のスクーターが、滑らかな動きですぐ目の前に滑り込んでくる。
「友永さん。えらく早いですね」
「おー。こないだの会合の報告ついでに、ちょっとな」
車体に合わせたという、青とシルバーのないまざった面白い模様のヘルメットを外すと、やはりどこかしら熊めいた顔が、大きく笑みを浮かべる。
その表情が、奇妙なまでに上機嫌なのに、なんとなく不吉な予感を覚えているうちに、友永さんは慣れた調子でスクーターから降りて、軽々とスタンドを立ててしまう。と、
「いやー、なんかお前さんにめでたい話があったって、曽根のおっさんから聞いてなー。ついでにどんなお嬢さんか嫁が探ってこいって」
「友永さん、コーヒー入れますからどうぞ、さっさと入ってください」
シート下のトランクにヘルメットを入れながら、さりげなく爆弾を投げてよこしてきた黒のダウンの背中を、俺は開いた戸口に向かって、力いっぱい押してやった。
「いっやー、悪いなあ、開店前だってのに」
「その笑い方で、どの口が言ってるんですか」
……あの人は口が堅いぞ、って聞いてたから、油断してた。
先日の雪の重みで、日置荘の二階、傾いでいた雨どいが完全に外れて落ちて。
猫好きであることと、ここの近所のよしみで、悪天候にもかかわらず、すぐさま修理の依頼を受けてくれたのはいいが、よもやあんな状況になるとは思うはずもない。
加えて、中屋さんを隠すように連れ出すのも不自然だし、あえて堂々としていたのだが。
……しかし、この様子だと、まだどこの誰かは分かってないみたいだな。
とはいえ、彼女の行動範囲と商店街は思い切りかぶっているから、油断は出来ない。
嬉々としてしろくろに入っていく友永さんに続きながら、俺は今後の対応についてどうすべきか、目まぐるしく考えを巡らせていた。
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