十二月
恋とラーメン
ご飯が美味しい、ということは幸せなことだ、というのが、我が父定番の繰り言だ。
母の作るさまざまな料理に、心底惚れこんでいることを公言してはばからない(そして時にはあるものを全て平らげてしまう)ので、たまにため息とともに、
『胃袋を掴み過ぎるのも、困りものねえ……』
などと、母が零すほどなのだが、そのせいで、わたしはあまり外食をしたことがなくて。
だから、社会人になってからは、千穂やチーフと一緒に色々なお店に行ってみたりしたのだけれど、こういうお店は、実は初めてで。
「中屋さん、これ、手元にメニューもありますよ」
「あ、はい、有難うございます」
右隣の席に座った店長さんに声を掛けて貰って、わたしは慌ててそちらに顔を向けた。
というのも、席についてからというもの、物珍しさにカウンターの上方に並ぶ手書きのお品書きを、じっと見てしまっていたのだ。
しかも、赤の地に墨色も鮮やかに書かれているそれはとても達筆で、カウンターに立ててあるカード状のものも同じ筆跡なので、感心して眺めてしまう。
と、左隣に座った津田くんが、ぬっと手を伸ばして、メニューの一点を指してくると、
「えらく悩んでますねー。あ、ちなみに俺的には塩とんこつがオススメなんですけどー、小倉さんのイチオシは醤油とんこつなんですよねー!」
「あのな……ここにいない人の好みを言ったところでしょうがないだろうが。それに、ベースはとんこつ一択で味は三択だろ」
「……味噌と味噌バターは、やっぱり大きく違うものなんでしょうか」
その言葉に、思わず気になっていた点を尋ねてみると、店長さんはちょっと眉を上げて、それから小さく笑うと、
「結構違いますよ。俺は味噌派なんですけど、バターのせはコクが出て美味いです」
「なるほど……じゃあ、わたしはそれにします」
元々具だくさんのお味噌汁が大好きなので、初めからそれに惹かれていた、というのもあるのだけれど、こうして実際食べた方の意見を聞くと、余計に期待してしまう。
ともあれ、注文をそれぞれに済ませて、わたしがほっと息をついていると、おしぼりで手を拭いながら、津田くんがどこか感心したように言ってきた。
「しっかし、マジでラーメン屋初めてなんすねー……やっぱ、女子ってこういうとこ、入るのためらっちゃうもんなんですか?」
「どうかな。わたしは一人だと気後れする方だけど、千穂とか、池内さんはそんなことないみたい」
「あ、中屋さん、今それはまず」
いです、と店長さんが言い終わる前に、一瞬ぴくり、と身を震わせた津田くんが、突然何かをこらえるように俯いて、拳を握り締めると、
「池内さん、マジひでえっすよねー……自分がふられたからって小倉さん巻き込むことないじゃないですかー!!中屋さんもそう思うでしょ!?」
「……ごめんなさい、うっかりしてました」
「いえ、津田の反応がアレなのはとっくに承知してますから」
「もー、二人ともナチュラルに疎外しないで!俺めっちゃ心が寒い!」
「し、してないから!ごめん、ちゃんと話聞くから!」
既に半泣きになっている津田くんを、慌ててわたしはなだめにかかった。彼が、少しばかり過敏になっているのは、若干(?)わたしのせいでもあるからなのだけれど。
こうして、しろくろの店長さんも交えて、このお店に来ることになったのは、数日前の四階フロアが事の発端だった。
十二月に入ると、世間は一気にクリスマス一色になるけれど、我が社ももちろん多分に漏れず、間髪入れない勢いでクリスマスフェアが始まる。一階に大きく特設ブースが設置されるのはもちろん、フロアの中心には大きなツリー、天井にはカラフルなガーランドをたくさん飾ってと、なかなかに準備は大変で。
そんな中、内線用の携帯にヘルプコールが掛かってきたので、わたしはフロアチーフに了承を貰って、四階まで上がって行ったのだが、
「
「あ、有難うねー!いやー、結構みんなノリノリでオススメ本セレクトしちゃってさー、予定よりちょっと広くなっちゃったんだよねー」
と、皆が一生懸命に作ったポップが賑やかに並ぶ、特設ブースに両手を広げながら振り向いてきたのは、池内さんだ。わたしよりも四年先輩、千穂よりは二年先輩で、そろそろフロアチーフに昇格かな、という有能なひとだ。
手先が器用で、今日も長い黒髪を綺麗に編みこんで、頭に巻き付けるように結い上げている。そこにツリー型のオーナメントを飾って、気合い十分だ。
こちらが差し出した箱を受け取って、ふんふん、と呟きながら個数と長さを確認すると、うん、とひとつ頷いて、
「オッケー、これで十分!津田ー、これ使ってここの仕上げやったら終了だよー!」
「ういーす!ちょっと待って下さいねー今取り付けしてるんでわー!!」
と、短い叫びの後に、何かが落ちる賑やかな音が、天井高の書架の向こうから響いて、思わず身を竦める。と、池内さんがひらひらと手を振って、
「あーあーほっといていいよー。一緒に
「……備品、壊れてないといいですね」
「壊れたら自腹って最初に言ってあるから。ま、軽いもんだし大丈夫でしょ」
「わー!津田さんなんかこれまっぷたつですけどー!」
「とにかくはめろ!最初は丸かったんだから完全な球体に戻るはずだ!たぶん!」
……営業時間外で、ほんと良かった。こんな状態、お客様に見せられないし。
相変わらずの様子に、小さくため息をついていると、池内さんがふいに眉を上げて、
「そうだ、一花ちゃんさあ、次の金曜って予定ある?」
「金曜ですか?わたし、お休みですね」
そして、その日はまたしろくろに行く予定にしている。今までは、仕事が終わってからしか行ったことがなかったから、買い物ついでに、昼間に行ってみようと思ったのだが。
そんな予定も含めて話すと、池内さんは軽く天を仰いで、
「あーそっかー……んー、どっちにせよ、休日にわざわざ出て来てもらうわけにもいかないもんねー」
「何か、お困りなんですか?」
「いやー、あたしこないだふられたんだよねー、彼氏にー」
あっさりとそう言うと、とっさに言葉の出ないわたしに構わず、池内さんは腕を組むと、何やらしみじみとした調子で続けた。
「まあ、今回は最短記録?大人しくしてたつもりだったんだけどー、酔ってくだ巻いて絡んだらしくてさー、一週間しか持たなかったんだー。それで年末寂しいのイヤだしー」
それで、友達に頼んで、男性を紹介してもらうことになったらしい。けれど、いきなり一対一は気詰まりだ、と相手の方が言われたらしく、お互いにもう一人連れて来るという話でまとまったのだそうで。
「じゃあさ、女子でフリーの子他に知らない?バイトの子たちでもいいんだけど」
「え、ええと……確か、
しばらく考えて、この間更衣室で『いい人いたら紹介してくださいよー』と言っていた二人の名前を挙げてみる。二人とも、とても明るくて可愛いバイトさんだ。
「あの子たち女子大生だよね、よし、当たってみる。あ、千穂ちゃんもそうだよね?」
その言葉に頷きかけた時、何をどうしたものか、床を蹴る勢いの足音がしたかと思うと、わたしと池内さんの間に、ぬっと人影が出現して。
「小倉さんはダメっすよー!俺が彼氏になるんですからきっとそのうち!」
「津田、無駄に加速装置使わない。しかも最後のひとことが地味に状況把握してるし」
慣れているせいで、すかさず冷静な反応を返した池内さんに、津田くんはきっと真剣な表情を向けると、
「今日がつれなくても明日は変わるかもしれないじゃないすか!日々の積み重ねが俺と小倉さんの絆を深めるんです!だから中屋さんも俺に同意してくれますよね!」
「ご、ごめん、それはわたしの意志じゃなくて千穂が決めることだから……」
その勢いに押されつつも、わたしは諸々を含めてそう返した。
千穂は嫌なら嫌、ときっぱり断れる性格だし、池内さんも、そういう時に無理強いするようなことはしない人だ。それに、全く恋愛に興味がないわけでは、たぶんないし。
途端に落胆した様子の津田くんの肩を、池内さんはぽんと叩いて、
「ほら暴走列車、正論にへこんでないでさっさと終わらせるよ。ごめんねー、無駄話に付き合わせてー」
「いえ、うちの方ももうすぐ終わりそうなので。津田くんもお疲れ様です」
そう声を掛けてみると、彼はきっ、と何かを決意したように顔を上げて、
「……俺、先に小倉さんと金曜日の約束取り付けてきます!池内さんになんか負けないですからー!!」
もうドップラー効果が出そうな勢いで、やけに規則的な足音とともに駆け去っていってしまった。……もの凄く、速い。
「あ、こら!全部仕上げてからにしなさいってのに!」
「……とりあえず、それ俺貰っとくんで。そろそろチーフ戻ってくるんじゃないすか」
横からわたしの持って来た備品を取り上げて、中里くんがちょっと疲れた様子で言うと、池内さんは諦めたように、ゆっくりとかぶりを振った。
「で、結局、小倉さんが行くことになったわけですか」
「はい。紆余曲折の末、そういう風に」
あのあと、突撃された千穂が津田くんをあっさり振って、さらには池内さんのお誘いも断って、一旦収束かと思われたのだけれど、意外な展開になったのだ。
「その、中里くんもバイトさんなんですけど、彼が実は森さんをいいな、って思ってて」
仕事が終わってから、こっそり呼びだして誘われても受けないでほしい、と告白したのだそうだ。それを羨ましがっていた桜木さんは、思い切って片思いしていた大学の先輩に、と、何やら次々と連鎖していって、
「最終的に、また千穂のところに話が戻ってきちゃって……それで仕方ないな、って」
そして、それを直前に知った津田くんが、ショックを受けて泣きながらしろくろに突撃してきたのだけれど、あまりの様子に、いつも鷹揚なストライプが威嚇するほどで。
それで、猫たちをどうにか落ち着かせて、やや慌て気味にお店をたたみ(微力ながら、わたしも掃除などお手伝いさせていただいた)二人の行きつけだという、こちらにお伺いした、というわけなのだ。
「なんかねー、皆カップル成立してんですよー!なのに俺だけええええええ」
「つ、津田くんだけじゃないよ!わたしもひとりだよ!」
「あー、俺もだからマジ泣きするなよ……鼻水出てるぞ」
二人がかりでちょっと寂しい事情を暴露しつつも(何か店長さんを巻き込んでしまった気もする)落ち着かせようと肩を叩いていると、突然むくっ、という感じで身を起こして。
「なんか……二人に言われても何か微妙になぐさめされてる気にならないー!!」
「……やっぱ、しばらくほっときましょう。飯来たし」
「そ、そうですね、伸びちゃうし」
鼻水対策にティッシュボックスをそっと津田くんの方に寄せてから、わたしは目の前に置かれた丼に目をやった。葱、もやし、ホールコーン、メンマ、チャーシューにバターと、たくさんのトッピングが綺麗に並んでいて、とても良い香りがしている。
取り急ぎ割り箸を割ったところで、まだ半泣きながら津田くんが塩とんこつラーメンに胡椒を振っているのに気付いて、ここはやはり振るべきなのかな、と顔を戻すと、
「中屋さん、七味いりますか?」
と、黒い木製の七味入れを差し出されて、有難く受け取りつつも、わたしはまた尋ねてしまった。
「店長さんは、七味派ですか?胡椒派もいらっしゃるんでしょうか」
「七味派です。胡椒派も何人か知ってますけど、好みですね」
なるほど、と思いつつも、埒もないことを聞いてしまったな、と少し恥ずかしくなる。しろくろでも話していて思うけれど、店長さんは当たりが柔らかなので、ついつい色々と猫のことなどを尋ねてしまうのだ。また、さすがに五匹飼っておられるだけあって、話も尽きることがないのが凄い、と素直に思う。
接客業としては見習わなければ、などと思いつつ、七味を振り入れ、レンゲでひと混ぜしてから、おそるおそるスープを飲んでみる。
「……美味しい」
確かに、教えて貰った通りコクがあって、ふわっと香ばしい香りもして。
それから、麺に手を付けてしまうと、なんだかあっという間だった。時々、熱さに驚くものの、最初から最後まで美味しい、が途切れなくて。
さすがに、スープを一滴残さず、は無理だったものの、我ながら綺麗に食べ尽くした、と納得したところで箸を置き、小さく息を吐く。
ティッシュで口元を拭ったところで、何やら頬に刺さるものを感じてふと右を向くと、まともに店長さんと目が合って。
「ど、どうされましたか?」
やや身を引きつつも、そう聞いてみると、店長さんはふっと顔をそらして、手で自身の片頬を撫でるようにすると、
「いや、いい食べっぷりだなーっていうのと……んー、なんでもないです」
「え、ひょっとして、何か無作法なことをしましたか!?」
言いにくそうに言葉を濁した様子に、慌ててそう尋ねてみるものの、いやいや、と手を振るばかりで、余計にうろたえていると、今度は左からぽん、と肩を叩かれて。
振り向いてみると、何故か涙も乾いた様子の津田くんが、満面の笑みを浮かべていて、
「中屋さん!これ、見てください!」
ずい、とばかりに差し出されたのは、彼のスマホだった。勧められるままに画面を覗くと、そこには千穂からのメールが届いていて、
件名:終了ー。
差出人:小倉千穂
本文:
あんまり乗らなかったから、帰ってきた。
池内さんは、まだ片方の人と飲んでるみたい。
そっちはどんな感じ?
また様子だけ知らせてよ。じゃあね。
「……ええと、良かったね、かな?」
「そうっすよー!!いやー、やっぱ神様は見てるんですよね、俺の小倉さんへの真摯な思いを!あ、ちょっとメール返す間だけ待っててくださいね!」
すっかり気を取り直して、嬉々としてスマホに向かっている津田くんを半ば呆然と見ていると、
「……結局、どういう関係なんですかね、あの二人」
「どうなんでしょう……千穂、宗旨替えしたとは聞いてないんですが」
「宗旨替え?」
「かねてから年上がいい、って言ってたので」
「……津田への牽制っぽい、とも思えますけど」
などと、憶測も含めたわたしと店長さんのやりとりを横に、津田くんはよっしゃ送信!との掛け声とともに、液晶画面を力強くタップしていた。
後日、千穂にそれとなく彼の話を振ってみると、
「んー?まあいいじゃん。それより、そっちの方が色々とあるんじゃないの?」
と、軽く笑いながら、あっさりとあしらわれてしまった。
……結局、まだ進展は特にない、ってことなのかな。
気にはなるものの、口の堅い千穂をそれ以上追及するのは止めて、見守っておこう、とわたしは内心で頷いた。それでなくても、何かあれば津田くんが報告してくるだろうし。
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