エプロンとご飯・3

 エプロンをつける、ということは、俺にとっては日常茶飯事だ。

 そもそもしろくろが『猫カフェ』なので、雰囲気的に装備しておくべきだろう、というのもあるが、実用的な面で言えば、猫どもの毛や爪による被害をある程度は防げる、良く使う文房具類をポケットに突っ込んでおける、などのメリットがあるので、開店当初からずっと同じものを使い続けている。白玉を始め、五匹×四本の手足にさんざんにやられて、さすがに随分とくたびれてきたが。

 反面、家では全く使うことがない。というのは、ほぼ晩飯一食しか作ることがないし、それも、あまり手間のかからない丼物やワンプレートなどで、さほど汚れるようなこともしないから、別にいいか、と思っていたのだが、こうして買い物に出てみると、意外にも便利で。

 「あ、袋いらないです。そのまま入れて帰るんで」

 レジに立つおそらく大学生くらいだろう青年に、エプロンの左右に付けられた大きめのポケットを示してみせると、かしこまりました、エコ運動にご協力有難うございます、と、幾分テンション低めの声が返ってくる間に、スーパーのポイントカードと合わせて、俺は家計用のクレジットカードを手渡した。

 毎年の申告のこともあるので、収支が見えやすいように、しろくろ用と家計用、さらに日置荘用のカードは個別に分けてある。それぞれ所得の種類が違うから、別個に管理しておかないと、後々面倒なことになるからだ。

 簡単に清算を終え、白文字で、スーパーのロゴが入った濃い緑のテープを貼った、白コショウの小さな瓶を受け取ってレジを抜け、左のポケットに放り込んでから、腕の時計に目を落とす。

 針が午後六時三十六分を指しているのを認めて、そろそろかな、と出口に向かいかけた時、右のポケットに落とし込んでいたスマホが、短く猫の鳴き声を響かせた。

 途端に、周囲の何人かが、驚いたように首を巡らせるのにしまったと思いながら、俺は慌てて手を突っ込んで取り出すと、液晶にひらめくメールアイコンに触れた。



 From:一花さん

 Sub:今気付いたのですが

 本文:

 航さんに、鍵をお預かりするのを忘れていました!

 お家に、もう一本鍵を置いておられるとか、そんなことは

 ないでしょうか?

 うっかりしてて、本当にごめんなさい!



 「あ、そういやそうだった」

 文面を見るなり、思わず小さく呟くと、俺はサッカー台の向こう、壁の代わりに全面が透明な硝子になっているそれを透かして、外を見やった。

 買い物の途中あたりから、ぽつぽつと降り始めた雨は、今はもうとても小雨とは言えず、傘がなければ随分と悲惨なことになりそうな状況だった。実際、駅の方から走ってきた、スーツ姿の男性などは、もうちょっと雨宿りしておいた方が、と忠告したくなるほどで。

 ともかく、心配を掛けっぱなしというわけにもいかないので、他の客の邪魔にならないように、俺は出入口近くの階段脇に移動すると、手短に返事を打った。



 To:一花さん

 Re:大丈夫だから

 本文:

 安心してください、ここ、スーパーだし。

 この様子だと止みそうにないし、適当な傘買って帰るよ。

 残念ながら、鍵は一本しかないんで、

 鍋だけ、引き続き焦げないように見といてください。

 それと、忘れてたものは無事に買えました。

 これでいいんだよね?



 文面を確認すると、さっき買った白コショウの画像を撮って、添付して送信してから、自身の間抜けさ加減に、しみじみとため息を吐く。


 あー、お迎え、来て欲しかったなあ……


 彼女が、俺の家からわざわざ駅前まで来てくれる、というのは、非常に魅力的な申し出だったので、突然の天気急変にも感謝したいほどだったのに、キーリングはいつもの通り、パンツのポケットに入れたままだったのだ。

 今日は、俺が休日、一花さんが早番だったから、彼女の希望に沿って、我が家で夕食を一緒に作る約束だった。前もってこちらがあらかたの材料を買い込んでおいて、猫どもの世話がてら、仕事終わりに車で迎えに行って、そのまま帰ってきて。

 そんな状況だったから、少し、二人で並んで歩きたかったな、などと思ったわけだが、まあ、日が変わる頃までは傍にいてくれるのだから、それもいささか贅沢な話だ。

 合鍵作っとかないとな、と頭に刻み込みながら、すぐ傍にある階段を二階へと上がる。

 踊り場を抜けて、衣料品が立ち並ぶ間を抜けていくと、上りと下りのエスカレーターの脇に、どうぞご入り用でしょう、と言わんばかりに、傘のコーナーが設けられていた。

 俺とご同様なのか、サラリーマン風の男性が、透明なビニールのそれを手に取っているのを目の端にしながら近付くと、ふと、えらく可愛らしいものが目に入って。

 「ああ、猫柄か」

 どうやら売れ筋なのか、ぽん、と大きく開いた状態でディスプレイされているそれは、白やピンクの地に、水たまりに跳ねる雨の雫と、それを追い掛けて走る猫のシルエットが、縁飾りのように周囲を取り巻いている、そんなデザインのものだった。

 即座に、一花さんならどの色が似合うかな、と考えて、あまり人のことは言えないな、などと、俺はつい一週間前の光景を、今の状況に重ね合わせていた。



 最近、一花さんと休日が重なった日は、俺の車でまずはしろくろに向かうことが多い。朝食は、それぞれの家で取ってから合流して、その後何をするにしても、一緒に猫どもの世話を済ませて、特に白玉の気が済むまで遊んでから、というようなサイクルだ。

 そういったわけで、その日も一通りの作業を終え、しっかりと戸締りの後にしろくろを出たのだが、

 「……一花さん、そろそろ話してくれてもいい気がするんだけど」

 「まだ、だめです。それに、すぐに分かっちゃうことですから」

 俺の手を引きながら、何やら酷くご機嫌な様子で、一花さんはこちらを見上げてきた。

 特にこの後の予定は決めていなかったはずなのだが、珍しく彼女から手を繋いでくれたかと思ったら、明らかに目的を持って、ある方向に引っ張って行こうとし始めて。

 確かに、行き先は容易に想像がつく。店を出て、二つ目の角を曲がって駅前寄りのもう一本の通り、ということになれば、目的地は『熊とみつばち』以外に考えられないのだが、

 「今度は、奥さんの方?それともご主人の方?」

 「一応、前者です。でも、発案はわたし、なので」

 「それだと、ますます気になるなあ……何か、新作ってこと?」

 今月下旬予定のリーヴル長月での吉野さんの個展に合わせて、コラボグッズを販売する旨は聞いていたものの、しろくろからもいくつか提案をして以降は、鋭意制作中、とだけ伝わってきていたのだが、その絡みだろうか、と思っていると、

 「そうですよ。自分で言うのもなんですけど、頑張りましたから!」

 ふわっ、と嬉しそうに笑って、繋いだ手を軽く振ってみせているのに、胸が騒ぐ。普段、大人しやかな彼女だから、こんな風にはしゃいでいるのが、なんというか、可愛くて。

 辺りに人目がなさそうなのをいいことに、引き寄せて抱き締めてもいいかな、などと、結構真面目に考えている間に、残念ながら店に着いてしまったのだが、

 「あれ、閉まってる?」

 『熊とみつばち』の一階、外開きの白の扉に掛けられているのは、どう見ても『CLOSE』の札だった。おまけに、その横には『本日臨時休業』とメッセージまでが添えられていて。

 「大丈夫です、理絵りえさんに許可貰ってますから。入りましょう」

 そうきっぱりと言うと、一花さんは繋いでいた手を離して、少しばかり重めの扉を引き開けてくれた。どうぞ、と勧められるままに中に入ると、相変わらずずらりと商品が並ぶ什器スペースの向こうから、友永さんが顔を出して、大きく手を振ってくる。

 「あー、やっと来たわねー!とりあえず二人ともこっちこっちー」

 残像が見えそうなほどに、激しい手招きとともに差し招かれたのは、奥にあるクラフト教室のスペースだった。ここで開かれる講座は土曜日のみだし、生徒さん用の椅子が多く用意されているせいで、商談を行うにも丁度いい。

 ことに最近は、すっかりお得意様兼商品モニターと化している一花さんが、一緒に来ることが増えたから、単に談笑するにも向いているわけで。

 ともあれ、二人並んで、広い作業台の周りに据えられた、クッションの効いた丸椅子に座るなり、目の前に木製のトレイがぬっと突き出されてきた。そこには、きちんと四つに折り畳まれた、カラフルな色合いのハンドタオルがいくつも並べられていたのだが、

 「あれ、これ……うちの猫ども?」

 よくよく見れば、その隅にちょこんと施されている刺繍が、どう見ても俺のイラスト(というには甚だおこがましいが)だったのだ。

 何をどうしたものか、しろくろの玄関先の黒板やメニューに遊び描きをしていた、そのままのタッチで見事に写し出されているのに、俺が心底感心していると、

 「分かりますか!?やった、理絵さん、航さんに認めてもらえましたよ!」

 「でっしょー?日置さん、結構癖のある絵柄だからさあ、毎回描くたびに微妙な違いがあってさー、完コピすんのに苦労してたんだからーほんとにー」

 嬉しそうに声を上げた一花さんと、ドヤ顔の友永さんがハイタッチを交わしているのに、俺は苦笑を漏らした。

 「ずっと二人で、これ企んでたってことですか?」

 「そうよー、一花ちゃんからの持ち込み企画で。あたしとしても、店のマスコット的に色々使えそうでいいかなって思ってさあ」

 「ごめんなさい、黙ってて……でも、絶対に驚かせたくて」

 聞けば、来店当初から、俺のイラストを気に入ってくれていた一花さんが、刺繍にすることを思いつき、こっそりと写真を撮って帰っては、そこから模写を繰り返してタッチを含め、どうにかものにしたそうだ。そして版下を作り、それを友永さんがデータ化して、刺繍用ミシンに取り込んで、との流れらしい。

 ……しかし、俺が言うのもあれだけど、可愛いかどうかは微妙だと思うんだけど。

 だが、こうして商品になってみれば、それはそれでいいかもしれない、と思いながら、艶のある糸で縫い取られた箇所に触れて、指先で感触を確かめていると、

 「あの、それでですね、こんなのはどうかなって思ったんですけど」

 おずおずと、一花さんが差し出して来たのは、A4サイズの一枚の企画書だった。先日、友永さん(店主の方)から渡された体裁と同じものだ。

 そこに描かれていたのは、エプロンだった。詳細なデザイン画で示されていて、各部に指定が細々と添えられているのだが、胸元に五匹の刺繍が入っているのはもちろん、

 「極力爪の被害を防ぐために、肩紐は幅広かつしっかりめ、裾は膝を越えて長くして、足さばきのいいように左右にベンツを入れて……ってこれ、完全に店で使う想定?」

 「そうです。今使ってらっしゃるものって、随分とくたびれてきちゃってるでしょう?だから、プレゼントしよう、って思って」


 また、にこにこと、この人はこともなげに。

 ほんとにどこまで、俺に何かしてくれようっていうんだろうか。


 まだ、お弁当のお礼だって満足に出来てないのに、次々と先を打たれてしまって。

 お返しの程度とか、そういった問題でないことは、分かっているつもりなんだけれど。

 どうかな、喜んでくれるかな、と、どこか子犬めいた期待に満ちた表情を向けられて、もうどうしていいやら、と俺は頭を抱えると、

 「えーと……すみません、友永さん。お茶貰っても構いませんか」

 「あー、いいわよー!でも二階で準備してくるから、ちょっと時間かかっちゃうけどー!じゃあ、ごゆっくりー!!」

 内心で渦巻くものを察したのかどうかは知らないが、なんとか絞り出した要望に頷いた友永さんは、軽く応じるなり、さっさと奥の階段を上がって行ってしまった。

 駆け上がっていく足音が完全に消えるまで、心の中でカウントを取りながら、どうにかこらえていると、

 「だ、だめでした、でしょうか……」

 「……そんな訳、ないから」

 広がった沈黙を誤解したのか、俯いてしまった一花さんの髪に触れると、おそるおそる見上げてきて、余計にたまらなくなる。

 「有難う。ほんと、嬉しい」


 使い勝手も、デザインも、猫どものことだって。

 全部、俺のことだからって、一生懸命考えてくれてるのが、伝わってくるから。


 そう感じたままに、端的に謝意を伝えてしまうと、途端にぱっ、と顔を明るくして、

 「良かったです!ええと、じゃあ、細かいデザインの詰めと、あと、何色がいいですか?個人的にはブラウンとか、ライトグレーも似合うかなって……あ、あの、航さん?」

 「うん、なに?」

 「だ、だめです!ここはお家でもしろくろでもないです!」

 さりげなく椅子を動かして、にじり寄ろうとしていることをあっさりと悟られた上に、俺の口を手でふさがれて、徹底抗戦の構えでこられては、引き下がるより他はなくて。

 仕方ないな、と息を吐いて、俺はそっと一花さんの腕を掴んで、手をはがしてしまうと、

 「じゃあ、迫るのは我慢するから、ひとつ俺の言うこと聞いてくれる?」

 「こ、交換条件ですか!?えっと、あの、内容によりますけど……」

 俺が条件を出すこと自体が元より筋違いである、ということには気付いていない様子の彼女に、頬が緩むのを感じながら、そっと『聞いて欲しいこと』を口にする。

 と、一花さんは、一瞬困ったように眉を下げたものの、すぐに何か思いついたようで、

 「あの、お揃いで、作ってくださるなら……お願いしたいです」

 ほんのりと頬を染めながら、微かな声で可愛らしい望みを、告げてくれて。

 結局、数瞬前の前言をあっという間に撤回してしまった俺は、後で一花さんにさんざん叱られる羽目になった。……まあ、それすらも、ご褒美めいた甘さだったけれど。



 それで、必要以上に時間を置いて戻ってきた友永さんに、一花さんがしろくろ用を一点、俺が、彼女曰く『お家用』を二点、発注することになって。

 色はおすすめ通りにそれぞれライトグレー、ブラウン、そしてクリームイエローで作ることになった。もちろん、猫どもの刺繍は五匹全部をずらりと並べることにしたのだが、店用は胸元の中央にでかでかと、店名のロゴと平行に配置し、家用は左胸の上に控え目に、さらに少し凝ったフォントで名入れをする、という内容でおさまって。

 そういった経過で、今、このエプロンを身に着けている、というわけなのだが、

 「これはさすがに、お揃いってわけにはいかないよなあ……」

 色違いの二本の傘を手にして、俺は悩んでしまっていた。この猫柄にする、ということだけは決めたものの、色がなかなか決まらないのだ。

 イエローは残念ながらなかったので、白か、水色か、それともピンクか。

 どれでも気に入ってくれそうだけど、と思いながら、それでもなお迷っていると、またメールが飛んできて。



 From:一花さん

 Re2:それで大丈夫です!

 本文:

 そろそろクリーム煮、いい感じに煮上がってます。

 仕上げに一振りすると、凄く美味しいんですよ!

 ミモザサラダも我ながらいい出来だと思うので、

 足元に気を付けて、帰ってきてくださいね。


 お迎えに行けなかったのは、凄く残念なんですけど、

 なんだか、こうしてここで航さんを待ってるのって、

 不思議な感じで、でもとても幸せです。

 お帰りなさい、って言うまでの間も、楽しいんだなって。


 だけど、今度は鍵をお預かりするの、絶対忘れません!

 せめて、玄関先まではお出迎えしますね。

 それじゃ、そろそろテーブルのセットもしておきます!



 柔らかな笑顔が浮かんできそうな文面に添えられた、ホーローの鍋の中で、ふつふつと煮立つ白いクリーム煮の画像が、いかにも美味そうで。

 「うん、白にしとくか」

 さっきまでの逡巡がさっぱりと消え、閉じた白の傘を取り上げると、レジに向かう。

 すぐに使うので、とタグを切ってもらいながら、何気なく外を見ると、雨はもう小雨になっていて。

 止まないで良かったな、と思いながら、俺は手の中のそれをじっと見下ろしていた。



 それから、耳ざとく俺の足音を聞きつけたのか、玄関から飛び出さんばかりの勢いの、一花さんに出迎えられて。

 傘については、もうすっかり雨も止んでいたので、俺の家に置き傘として置いておく、ということで話がまとまった。

 ……ちょっと気が早いけど、後は、梅雨の時期に期待することにしておこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る