エプロンとご飯・2

 さすがに不惑も近くなれば、周囲の人間、つまりは同期や部下、友人、身内のいずれにおいても、既婚というカテゴリに入る割合が高くなってくる。

 これまでに俺もそうなるべきか、と思ったことがないわけではないが、その時々の相手と、単身の気楽な生活を秤に掛ければ、後者の方が余程心惹かれる、それが常態だった。

 元より、自分のテリトリーを身勝手に侵されることが耐えられない性質で、神経質だということは幾度も指摘されているし、一人暮らし歴は長く、家事も一通り以上こなせる。

 それがより婚期を遅らせるんだ、などと、口さがない友人には言われるのだが、出来ることを出来ないように振る舞ってみせることもしたくはない。だから、

 「……萩原さん、私がここにじっとしている意味って、何かあります?」

 心底困惑したように、彼女がそう言うのも無理はない。貸しがあるから、と呼びつけておいて、何一つ手伝いもさせず、ただ傍に置いているだけなのだから。

 刻み終えた玉葱を、ざっと手近なボウルに放り込んでしまうと、ナイフを脇に置いて、俺はようやく池内の方を向いた。

 視線を合わせるなり、軽く眉が寄せられ、アーモンドのような綺麗な形の瞳が警戒したように細められる。おそらく、今度は何を言い出すのか、と測っているんだろう。

 その表情から、すっと全身に目を移す。長い四肢が殊の外目を引くすらりとした肢体に纏っているのは、襟にレースをあしらったグレーのプルオーバーに、ネイビーのパンツ。

 真っ直ぐな黒髪は、邪魔にならないようにか首元で纏めて、そのまま背中に流している。

 いつもながら、意識せずとも惹きつけるな、と思いつつ、口角を上げてみせると、

 「だから、好きなように過ごしていていい、と言っただろう。わざわざ見ていなくてもいいんだぞ」

 「でも、落ち着かないんですよ!やらかしたってことは分かってますから、こき使って下さればいいじゃないですか!」

 じっとしていることがどうにも耐えられないかのように、小さく拳を作って、そう抗議してくる姿を見やりながら、予想通りの反応が返ってきたことに、思わず喉を震わせる。

 それを見取ったのか、途端にむっとした表情になった池内が噛みついてくる前に、俺は揶揄を隠すつもりもなく口を開いた。

 「ペナルティを課すなら、その者が最もダメージを受けるようなものを課すべきだろう?」

 彼女の性格上、思わせぶりにされること、そして、無為に時間を過ごすことが加われば、正面から叱責されるより、余程きついことは分かっている。それを見越して、ことさらにこういう態度を取ってみせる俺も、大概だとは思うが。

 案の定、池内は言葉に詰まった様子で、悔しそうな表情を露わに俯いたが、

 「……じゃあ、ほんとに好きなようにさせてもらいますからね!全部の部屋大捜索してやるんだから!」

 きっと顔を上げたかと思うと、そう宣言してリビングを出ていこうと踵を返す。と、

 「大したものはないが、酒はまだ出すなよ。飯に合うやつを用意してやるから」

 「勝手に飲んだりしないですよ!あとワインだったら白がいいです!」

 その背中に声を掛けると、すかさず言い返してきた上に、ちゃっかり要望まで含まれていて。

 あの負けず嫌いが、と俺は苦笑しながら、池内言うところの『やらかした』時のことを思い返さずにはいられなかった。



 酒に強い、ということは、さほど自慢になることだとは思っていない。生まれ持っての体質だし、せいぜい無茶な飲み方を勧められても失態を晒さずに済む、その程度のことだ。

 しかも、呑んでもさほど酔わない、ということは、しばしば共に痛飲した者の後始末をさせられることになる事態も、少なからずあるわけで、

 「……津田、お前、何を飲ませた?」

 少し席を外してみれば、意外な有様になっているのに、俺は思わず眉を寄せていた。

 「えっ!?そんな怪しいもの飲ませてませんよー!!普通にカクテルばっかでー!!」

 視線を受けて、慌ててそう言ってきた津田から目を移し、テーブルに突っ伏したまま、ぴくりとも動かない様子の池内の肩を、俺は軽く掴んで揺すってみた。

 「池内、大丈夫か?」

 耳元に顔を寄せて尋ねてみるものの、微かに瞼が動く程度で、自身の腕を枕に、どこか心地よさ気に小さく寝息を立てている。どうやら、本当に寝入ってしまっただけのようだ。

 五月に入り、職場も概ね新体制に落ち着いてきた、金曜日。

 そのうち飲みに行きましょう、との言葉通りに、俺は津田と小倉、そして池内を誘い、北町にある行きつけの店に連れて来た。モノトーンで何もかもが統一された内装に、バーカウンターと個室が併設されていて、落ち着いて飲むにも多少騒ぐにもいい場所だ。

 本当なら、日置さんと中屋も併せて誘うはずだったが、定休日とシフトの都合で、また次回、ということになってしまった。それはさておいて、

 「完全に寝てるな……このメンツで、潰れる奴が出るとは思わなかったんだがな」

 「……萩原チーフ、私も津田くんもそんなに強くないですけど」

 「いやー、俺も千穂さんも引き時わきまえてますからねー。うわばみはどうやったって真似できないっすから!」

 「津田、池内が起きたぞ」

 「うえっ!?マジすかいやでも今言ったことって別に間違いじゃないですしー!」

 「冗談だ。まあ、夢うつつで聞こえてる可能性もあるが」

 頭を抱えて騙されたー、などと騒いでいる津田は放っておいて、俺は小倉に向き直ると、

 「飲んでいたのは、どんなカクテルだったか分かるか?」

 「えっと確か、アペタイザーとか、とにかくジンベースばかりだったと思いますけど。そういえば、普段あんまり飲まない感じの……」

 「……なるほどな」

 与えられた情報に、少しばかり思い当たることがあった俺は、取り急ぎジャケットからスマホを取り出すと、二人から池内の住所を聞き出した。同じ部署である以上、連絡先は交換済みだが、現住所までは、喫緊の事情がない限り把握も出来ないからだ。

 幸いなことに小倉が知っていたので、位置情報を確認して登録を終えると、

 「有難う。後は俺が請け負うから、二人は帰っていいぞ」

 「え、でも、この様子だと起きそうにないんじゃ……」

 戸惑ったように小倉が指差した先には、わずかに姿勢は変えているものの、相変わらずやけに気持ち良さ気に眠っている姿があって。

 「……そうだな。津田、悪いが手伝ってくれ」

 「あ、運ぶんですか?わっかりました、足ですか腕ですかー?」

 「いや、それはいい。扉さえ開けてくれれば助かる」

 担ぐ気満々、という様子の津田にそう言葉を返すと、俺は池内の傍に近付いて、掛けている椅子をわずかに引いた。それから、両の肩に手を掛けると、上体をそっと起こして、都合よく、かなり高い背もたれに寄りかからせる。

 俺は膝を曲げると、身を屈めてその背中に右の腕を回し、軽く引き寄せて、胸に池内の頭をもたせかけてしまう。と、膝の裏に左腕を差し入れ、一息の内に抱え上げた。

 途端に、ふわりと柑橘系の香りが甘く漂って、オレンジか、と目を細めると、

 「うっわ、リアルお姫様抱っこ!チーフ意外と力持ちー!!」

 「彼女が軽いだけだ。小倉、すまないが表に出てタクシーを止めてくれるか?」

 「あ、はい……って津田くん!何気に写メ撮ろうとしないの!粛清されるよ!」

 「だって、池内さんの弱みを握れる千載一遇のチャンスじゃないですかー!!ああっ、千穂さん耳引っ張らないで!マジで痛いから!」

 妙に興奮気味の津田が、眉間に深々と皺を寄せた小倉に引きずられて、個室を出て行くのを見送ると、まるで起きる様子の見えない池内に目をやった。

 酔いが回っただけのようで、さほど顔色は悪くないのを見て取って、軽く息を吐く。

 ここのところ、仕事とはいえ出張ばかりだったから、疲れさせたのだろう。異動直後はどうしても先方への挨拶回りも多いし、覚えなければならない顔も少なくはない。

 過去の経験がいくらかあるとはいえ、五年のブランクをもう少し考慮すべきだったな、と自省していると、腕にしている身体が身じろぎをしたかと思うと、小さく声を上げる。


 まあ、俺が少しでも手控えをしようものなら、間違いなく噛みついてくるだろうが。


 初めて目にする、すっかり気を緩めているその様子から視線を逸らせずにいると、遠く店の玄関の方から、津田と小倉が呼ぶ声が飛んでくる。

 起こさない程度に、力の抜けた身体を揺すり上げると、俺は空け放した戸口から微かに漏れ来る車の音に向けて、静かに足を進めていった。



 それから、どうにか後部座席に寝かせて、二人に礼を告げ、タクシーを出して。

 彼女の家に着いてみれば、また一騒動だった。荷物の中には自宅の鍵らしいものが皆目見当たらず、また小倉や津田に連絡を取って、なんとか実家の住所を聞き出して。

 目的地に着く直前に、彼女の実家に電話したところ、運良くご家族がまだ起きていた。応答してくれた若い女性に経過を告げて、どうにか送り届けてみれば、酷く恐縮されて。

 結局、最後まで目覚めないまま、どうにか部屋まで運び込んだわけだが、翌日、つまり今日の午前十時を過ぎた頃に、息せき切った声でようやく連絡が来て、

 『本当にすみません!どうかお詫びに伺わせてください!』

 などと言ってくるものだから、お互い休日なのを幸いに、こちらに呼びつけたわけだが、まさしく平身低頭、と言った風情で、それも正直、面白くて。

 「あー、すっきりしたー……あのマッサージ器、滅茶苦茶いいですね」

 「長く戻ってこないと思ったら、それか」

 プレーンな白の皿に盛りつけたサラダの上に、塊のチーズを下ろしながらそう応じると、黒のソファに座り、両腕を上げて大きく伸びをしていた池内が、ひょい、と眉を上げて、

 「好きなようにしろって言ったじゃないですかー。それにしても、一部屋は書斎っぽくなってるし、贅沢な使い方してますよねー羨ましいー」

 「そう思うんなら、勝手に使いに来ればいいだろう。いつでも貸してやるぞ」

 するりとこんな言葉が出て来るのに、自分でもふと、不思議な感覚にとらわれる。

 この部屋を購入してからというもの、ごく稀に同期が飲みに来る以外は、誰かを自由にふるまわせる、などということは思いもつかなかったというのに。

 そんな思考を読み取ったわけではないだろうが、顔を皿の方へと戻した俺の背後から、立ち上がる気配と音が伝わってきて。

 何故か、横ではなく、俺の真後ろでぴたりと足を止めた池内が、背中にクロスに掛けた、エプロンの肩紐を軽く引っ張ってくると、

 「……何なんですか、もう」

 どこか拗ねたような、困惑混じりの声が、柔らかく耳を叩く。

 短い問いの意図を察しながらも、動かしていた手だけを止めて、答えを返さずにいると、もう一度、紐がやや強めに引かれて、

 「萩原さんが本気っぽいっていうのは、最近やっと理解できましたけど……」

 「なんだ、まだ信用してなかったのか?」

 「顔合わせて二回目でぎっちり口説いてくる人とか、ああそうですか、ってあっさりと頷けないでしょ?……それに、なんかぶっちゃけタラシっぽいし、変に口上手いし」

 「よく言われる」

 正確かつ容赦のない評価に、口元を歪めて認めてしまうと、とん、と拳で軽く、背中を叩かれて。

 「余裕ありげなのも腹立つし、見透かされてるっぽいのもむかつくし、何をやらせても小器用なとこもちょっと悔しいし、あと……」

 「まだあるのか……まあ、この際だから、遠慮なく吐き出せばいいだろう」

 さすがにため息を吐きつつそう返すと、一瞬、間が空いて。


 「……もう、分かんない。気になるけど、どうしていいのか」


 微かに震える声音が、取り違えようのない今の想いを、驚くほどに伝えてきて。

 痺れにも似た、得も言われぬ衝撃を感じながら、俺は詰めていた息を吐き出すと、

 「俺も正直、よく分からないところもあるんだが」

 「……なんですか、それ。どういうことですか」

 「説明し難いな……気付けば、そう考えていた、ということだから」

 見た目が好みだ、というのは、もちろんある。

 気が強く、面倒見のいい性格も、時折垣間見せる柔らかな部分にも、すっと惹かれて。

 だから、俺に対する警戒をどうにか解いてしまえたら、


 「何か、甘やかしてみたい、と思って」


 彼女は目下には慕われ、上からも可愛がられている方だが、自立心が強すぎて、何かを他者に委ねる、ということを滅多にしない。

 むしろ、それは仕事の上でも強力な武器になり得る、とは自ら理解しているが、

 「仕事なら、幾らでもフォローしてやれるが、それでも折れそうな時もあるだろう。だから、愚痴を吐いても、当たり散らしても構わない立場に、俺を置けばいい」

 「……何それ。サンドバッグ志願、ですか」

 「言い得て妙だな。そんなところだ」

 呆れたような池内の声に、俺は低く喉を鳴らすと、そう返してみせた。

 適性がある、と俺だけでなく、上役も判断したとはいえ、私情がなかったか、と言えば、当然、ないはずもない。公私ともに責任を負うのは、むしろ望むところ、というわけで。

 と、今度は両の拳で、背骨の上をきつめに叩かれて、思わず声が漏れる。

 さすがに咎めようと首を巡らせかけた時、それを押し止めるかのように、柔らかな熱がそっと、背中に寄りかかってきて。

 「……変なの。変な趣味」

 「そうか?いい趣味だと思うがな」

 「即座に切り返さないでください!あーもうなんか怒りのやり場ないしー!!」

 こらえきれないようにそう叫ぶなり、俺からさっと離れると、足早にソファへと戻る。

 それから、適当に並べてあった白とグレーのクッションを全て掻き集めたかと思うと、半ば飛び込むように、自らをその中に埋めてしまって。

 「もうすぐ、飯が仕上がるぞ。それまでには出て来てくれ」

 そう声を掛けると、分かってます!と、くぐもった声で応じてきて。


 赤くなっていそうなその顔を、無理矢理に暴いてみたい気も、しないではないが。


 これ以上拗ねられては、話が進まない。折角の休日だというのに、有効に使わない手はないだろうから。

 まんまとこちらの領域に入り込んできた、ということを、微妙に理解していない様子の部下を、どう攻めたものか、と戦略を巡らせながら、俺は程よく煮詰まりかけたソースに、ひとつまみの塩を無造作に放り込んだ。



 それから、要望通りに、用意した昼食に合うワインでもてなして。

 食後に、さりげなくジンの瓶をテーブルに置いてやったら、露骨に顔を強張らせたので、とりあえず、昨夜の理由を問いただしてみたところ、渋々、といった風情で、


 「……萩原さんが飲めるのに、あたしが飲めないとか、なんか悔しいし」


 と、推測を裏付けるような返事が返されてきて、苦笑するしかなかった。

 ……とにかく、俺の居ない場所で口にしないよう、よくよく言い聞かせておくとしよう。

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