五月
エプロンとご飯・1
朝食を千穂さんと二人で食べる、ということは、いわば夢のようなシチュエーションだ。
いくら彼女が一人暮らしだからといっても、さすがに、まだ泊まりとかはさせてもらえないし、万が一そんなことがバレでもしたら、間違いなく両親ともが揃って『嫁入り前のお嬢さんにお前はなんてことを!』と容赦なく殴られるのは必至だろうし。
だから、お願いを聞いてくれる、となって、スマホも置時計もありったけ(二個は弟がちょっとため息をつきながら貸してくれた)枕元に用意して、アラームを五分置きの時間差でセットしまくって、即行でベッドに入って、超早朝になんとか起きて。
買った料理本と材料と、それから何故か出がけに母親がくれたエプロンを持って、ほぼ始発に飛び乗って、千穂さんの家にどうにか約束の時間、少し前に着いて。
「いらっしゃい、早かったね。大丈夫、眠くない?」
「……いや、もう、全然平気っす」
扉が開けられるなり、俺はその現れた姿に、じっと見とれてしまった。
……なんか、こんな可愛いの着てるとか、フェイントだろマジで。
ちなみに、服装は至ってシンプルだ。ブルーと白の短め丈のカットソーに、ベージュのクロップドパンツ。細いけど、滑らかな感じの身体の線がふんわりと出てて、モロに俺の好みだから、それも凄くいいんだけど。
とどめを刺してくれたのは、その上に着けているエプロンだった。淡いグリーンと白の斜めギンガムで、腰の周りとかひらっとした裾とかに、ピンクでパイピングがされてて、ポケットにはリボンがついてて、と、普段見ている割とシャープめな私服からは、なんか想像できないような感じで。
遠慮も何もなく、まじまじと俺が頭からつま先まで眺めているのに、千穂さんは段々と頬を染めていったかと思うと、ふい、と顔をそらして、
「……いいでしょ、エプロンくらい、可愛いのにしたって」
「えっ!?それはもちろんっすよ、めっちゃ似合ってますから!」
そう即座に返しながら、照れたように拗ねたように、そっぽを向いている姿を見てると、なんかもう、限界突破って感じで。
とにかく、中途半端に入りかけていた身体を、一歩進んで玄関に突っ込んでしまうと、背後で扉ががしゃん、と閉まるなり、両手にした荷物を足元に置く。と、
「だ、だめ!却下です!」
「ええー!?なんでっすかー一瞬だけですからぎゅってさせてくれてもー!!」
意図を正確に汲んだのか、スリッパを鳴らしてすかさず後ずさった千穂さんに、慌てて靴を脱ぎながら追い掛ける。あーもう、こんなことならさっさと上がっとけば良かった。
「そう言って一瞬で済んだためしないでしょ!?それに、食材を床に放置しないの!」
「夏じゃないっすから少しなら大丈夫ですよ!卵とか消費期限長いですし!」
「馬鹿、そういう問題じゃないー!!」
リビングに置かれたテーブルとソファの周りをぐるぐると回りながら、微妙な鬼ごっこみたいになって、しばらく決着がつかなくて。
結局、寝室に籠城した(さすがにそこには侵入できない)千穂さんにひたすら謝って、なんとか出てきてもらえたけど。
「それで、何作ってくれるの?」
「秘密です!って言いたいとこなんですけど、材料見たらバレバレなんで、はい、これ」
着け慣れないので、苦労してエプロンの肩紐に腕を通しながら、俺はもろもろを詰めて来たエコバッグから、一冊の本を取り出した。差し出されるまま、千穂さんは両手で受け取って、その表紙に目を落とすと、
「あれ、これ見たことある。先月の新刊だよね?」
「そうですよー。中屋さんにオススメしてもらったんです」
ちょっと大判のそれは『はじめての朝ご飯』という、もの凄く特化した料理本だ。まあ、この手の本は絶えず出ているものだから、新機軸、ってコンセプトなんだろう、たぶん。
俺の適当な推測はともかく、内容はタイトル通りに思いっ切り初心者向けで、用意する器具から始まって、作業手順から何から、分かりやすく写真付きで解説されている。
基本的な和の朝定食、カフェっぽいプレートメニュー、それからおうちでモーニング、的な感じのラインナップで、何やらむやみやたらと美味そうなのだが、
「……これ、私の好きなメニュー?」
ページをめくっていた千穂さんが、気付いて俺を見上げてくるのに、嬉々として頷きを返す。複数のメニューを組み合わせてるから、目立つように、色分けしてばっちり付箋を貼っておいたのだ。でないと、どれがなんだか混乱しそうだし。
「こっちは池内さん情報っす!あ、ちゃんと家でおふくろにビシビシやられてきたんで、作るのは任せちゃってください!」
「え、いいの?手伝えるとこはやるよ?」
「いや、あんまり甘えちゃうと腕が上がらないんで。だから基本的には俺で、出来たらやばそうなとこは傍で指摘してくれたらいいなーって」
申し出にそう応じつつ、腰の紐を結ぶべくもたもたと後ろに手を回していると、それに気付いたのか、千穂さんは本を脇のテーブルの上に置いて、
「そのまま引っ張ると、団子になっちゃうよ。やったげるから、じっとしてて」
そっと俺の背後に回ると、もうガチガチの塊になりかけていた結び目に掛けていた手に、細い指先が触れてくる。
でも、たったそれだけなのに、何か。
「津田くん?離してくれていいよ」
「あ、はいっ、すいません」
怪訝そうな声に、慌てて俺は腕を前に戻すと、沸き上がりかけた衝動を抑えるように、思わず接客時の基本姿勢っぽい感じで、しっかりと手を組んでしまった。
あー、やばい。千穂さんから触られるの、ほんっとやばい。
ずっと彼女のことを見てきて、最初はクールなのかな、と思ってたんだけど、一歩踏み込んでしまった今は、マジで迫られるのにはえらく弱い、ってことが徐々に分かってきた。
しかも、予想外なほどに恥ずかしがりで、照れるしすぐ赤くなるし、加えて彼女からのいちゃいちゃ的な積極的なアクション、というのがほぼない始末だ。まあ、そこは元から俺が触りたいし構いたい方だから、別にいいんだけど。反応がいちいち可愛いし。
でもその分反動というか、何気なく傍に寄られたり、ふとしたことで触られたりすると、身体の奥底で、つつくと派手に噴き出しそうなものが、ざわりと蠢く感じで。
完全に信用されてそうなのを、ふとしたことで裏切ってしまいたくなる、っていうか。
「はい、出来た。緩くない?」
ぽん、と背中を軽く叩かれて、巡る思考から我に返る。身体を軽く捻って確認すると、肩も腰回りも、丁度良い感じだ。礼を言うと、どういたしまして、と笑ってくれるのも、もう自惚れでなく、俺にだけ見せてくれる柔らかさで。
だから、溢れる幸福感のままに、俺は勢いよく拳を振り上げると、
「っしゃ、そんじゃ気合い入れて頑張りまっす!」
「いいけど、空回らないように気を付けてよ?」
本を渡してくれながら、ちょっと苦笑気味に言われて、条件反射で素直に頷いてしまう。
と、ふとその様子が隙だらけであることに気付いた俺は、すっと身を屈めると、寸前にまで顔を近付けて、にっと笑って。
「ストッパー、宜しくお願いします。俺を止められるの、千穂さんだけなんで」
そう言い切ってしまうと、千穂さんが目を見開くのにも構わず、ちょん、と唇に触れるだけのキスを落としてみせた。
それでまあ、予想通り真っ赤になった彼女に叱られて、ぽかぽか殴られて。
涙目になっているのをどうにか宥めて、作り始めたのはいいものの、スライサーで指の皮を剥いてみたり(あれはマジで痛かった)、考えてた段取りに容赦なくダメ出しを食らったり、閉め方が甘くてミキサーの蓋が緩んで吹っ飛んだりと、色々やらかしたものの、
「はい、お疲れ様」
「……有難うございまっす……なんか、真面目にやると料理ってマジハードっすね……」
俺の要望通りに、薄めのブラックのコーヒーを、目の前のテーブルに置いてくれた千穂さんに、うなだれていた頭をどうにか上げる。
白のソファに深々と沈めていた身を起こすと、鼻先に漂ういい香りを吸い込んで、目を醒まそうと試みるものの、なんかやけに疲れてしまって。
ポタージュは手間暇がかかり過ぎるから、野菜コンソメ系に変えてみたりはしたものの、サラダのドレッシングは一から作ったし、目玉焼きの黄身とかも我ながら絶妙の半熟加減だったし、パンとハムとチーズと合わせたらますます美味かったし、美味しいとも言ってもらったしで、一定の成果は出せたかなー、とは思うわけなのだが、
「洗い物とか手回らなくて、溜まりまくってさんざんだったし、床にも流しにも皮とか飛ぶし、結局千穂さんにフォローされてばっかで……」
ボウルとか泡立て器とか、気が付いたらいつの間にか綺麗に洗われてて、水切りに凄く綺麗に並んでるし、零したものもさっと布巾で綺麗にしてくれてるし。
いつも家でやってたから、とはいうものの、気遣いレベルの違いはもう歴然過ぎて。
マグを手にしつつ口も付けずに、反省すべき点をひたすらにだらだら垂れ流していると、色違いのそれを手にした千穂さんが、そっと左隣に腰を下ろしてきた。
途端に、髪からなのか何なのか、微かな甘い香りが鼻をくすぐって、近いなあ、とふと思う。少し前まではテーブルを挟んで、向かい合わせになって座ってたのに。
「大丈夫、今日のメニューって、いわば豪華版だから。普段、私一人だったら、絶対にあんな凝ったもの作らないし、手が追い付かないのはしょうがないよ」
優しく言い聞かせるようにそう言ってくれるのに、俺はまだ俯いたまま、低く唸り声を漏らすと、
「反復が大事だっていうのは分かってるんです。飯作りって基本手先動かす仕事だし、だから、練習してるうちに手順とか段取りとか徐々に見極められてくるんだろうなって、そう頭では考えてるのに、なーんかこう、焦っちゃうんですよねー」
「え、どうして?初めてに近いわりには、かなりちゃんと出来てたし、慌てることとか全然ないのに」
本当に意外だ、って感じで、不思議そうに尋ねてくる千穂さんの声に、俺はやっと顔を上げると、きょとん、としている瞳を捉えて、言葉にしてもいいもんかどうか、しばらくためらっていたけど、
「だから、そのー……いずれ二人で住んだりとかしたら、共働きだし家事の分担とか、色々考えないといけないじゃないっすか」
結局、他に伝える言葉も見当たらなくて、俺はもう、ずばっとそう言ってしまった。
仕事はもちろん大黒柱にレベルアップ出来るように頑張るつもりだし、千穂さんが一歩どころか百歩くらい先んじている家事の腕も磨いて、何があっても支えていけるように、今からしっかりと体制を整えていくつもりで。
具体的にそんなことを話していくうちに、千穂さんの表情が、面白いくらいに変わっていった。驚いたように目を見張って、頬が赤くなって、だんだんうろたえて視線が泳いで。
「……気が、早過ぎでしょ」
両手でくるんだマグに目を落として、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぽつりと呟くのに、俺がさらに言葉を継ごうと口を開きかける。
と、それを遮るように、細い腕が伸びて、テーブルにマグを置いてしまう。ことり、と硬い音がして、意識が一瞬耳に集中した時に、俺の膝に、そっと右の手が乗せられて。
「でも、ありがと。私だって、全然考えてなかったわけじゃ、ないから」
こういう時、いっつも、やられた、って思っちまう。
俺が望んでるものよりももっと、怖いくらい満たされる言葉で、こともなげに返されて。
しかも、すっごいおずおずと、こっちの表情を窺うみたいに見上げられたりして。
なんかこう、思いっきり両手で頭をぐしゃぐしゃに掻き回したいような心地になって、その感情のままに、ばっと腕を上げる。と、
「……っあっつっ!!うわ、マジであっちいー!!」
「ちょ、何やってるの!?ああもうじっとして、早くそれ脱いで!」
当然ながら、まだ冷めるまではいってなかったマグの中身が零れて、俺の胸から腹まで、何かドリッピングめいたでかいシミを、盛大に作ってしまって。
まだつけていたままのエプロンのおかげで、さほど大事には至らなかったものの、着ていたシャツから何からを、妙に冷静に、しかも手早く剥ぎ取られてから、問答無用で奥の風呂場に放り込まれてしまった。
……さすがに下は、脱がされなかったけど。なんか、ちょっと複雑。
それから、洗濯してもらった服が乾ききるまで、用意されたタオルケットにくるまったまま、色々とうなだれつつも、千穂さんに世話を焼かれてしまって。
取り切れずに薄くシミの残ったエプロンを持って帰ってみれば、待ち構えていた母親と弟に、無駄に細かく今日の顛末を聞き取りされて、総ツッコミを食らってしまった。
……結果、赤点レベルだけど。とにかく、及第点まで持ってけるよう頑張ろう、マジで。
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