後輩と同僚
今日、最後のお客様をお見送りしてから、クローズの札を掛けて。
猫どもを奥の寝床部屋に誘導しつつ、店内を掃除して消臭して、軽くレジ締めをやって、売り上げを帳簿に付けてから諸々を金庫にしまって、いつもの如くダイヤルを回して。
それから、カウンターに置いてあったノートパソコンを開けると、スリープから回復させる。と、さっき開いていた画像フォルダがそのままで、俺はなんとなくそれらをパラ見してみた。ブログにアップロードするためにこの中に移した、
どう見ても体育の授業用、と見える、若干地味というか、はっきり言えば垢抜けない、そんなデザインのジャージ。その胸元には、どこかの校章らしきエンブレムと、『Nakaya』との刺繍がしっかりと施されている。
彼女に言った通り、うちは服装規定などは全くない。むしろ、近所の猫好きなおっさん連中が、休憩ついでに思い切りゆるゆるのスウェットでやって来るくらいだ。もちろん、仲の良さげなカップルも、結構多いけれど。
だからというか、何か、気になって。
「……普通のお嬢さん、だよなあ」
清算時にお願いして書いてもらった、プロフィールカードの情報を見ながら、俺はふと呟いた。カード自体、書くのも書かないのも任意でいいのに、またえらく律儀に、全ての項目を埋めてくれている。
二十四歳、だから、俺より五つ下。会社員、とあるから、仕事帰りにでも来てくれたんだろう。とはいえ、この情報から、わざわざ下見をした上で、よりによってあんな格好で来るというのは、おいそれと理由は思いつかない。
それに、自分でも『こんな格好で』って言ってたし。
あらためて画像を見直すと、彼女の濃いブラウンに染めた、ふわふわした長い髪の先を、カネルが手で必死にちょっかいを出しているものが出てきた。
この後、すぐにそれに気付いて、髪を一房掴むと、それを振り回しては、一緒に遊んでくれていて。まるで子供をあやすように、自然にそうしてくれているんだけれど、じっと興味深そうに、じたばたとじゃれているカネルを観察しているのが、不思議だった。
他の画像も見ていると、俺はふとあることに気付いた。
この人、来てから帰るまで、一度も笑ってないんだよなあ……
中屋さんに伝えた通り、ここに来る人は猫目当ての人ばかりだ。まあ、カフェとしては偏差値がめちゃくちゃ低い自覚はあるから、そっちメインになるのは当然だけど。
だから、猫どもを見るなり、相好を崩してひたすらに構おうとする人がほとんどの中、おそるおそる、未知のものに頑張って触れようとしているような様子が、珍しくて。
だから、せめてもう一度くらいは来て欲しくなって、ポストカードもサービスしてみたのだ。猫どもは好きになってくれたみたいだから、多分、大丈夫だとは思うけど。
とりとめもなく、しばらくぼーっと考えていると、唐突にインターホンが鳴った。と、その直後、それを一瞬で無駄にするような、でかい声が飛んできた。
「おーい、
……しまった、さっさと照明落としときゃ良かった。
めんどくさいのが来た、と思いつつも、無視しているともっとうるさくなるので、俺は仕方なく入口に向かうと、引き戸の鍵を開けた。
と、こっちが引き開けるまでもなく、がらりと勢いよく戸が開いて。
「やっぱいたじゃないですかー。だめっすよー居留守使うなんてー」
「使ってないよ。せっかくくつろいでたのに、邪魔したのはそっちだろ」
そこに立っていたのは、
そんな事情はともかく、纏っているのは、細身のスーツに、表面に光沢のあるグレーのコート。俺は会社員です、と言わんばかりの分かりやすい服装に、無駄に爽やかな容貌をしているが、言ってしまえば中身はそれに見合わないというか、正直とても暑苦しい。
その感想を証明するように、津田はずかずかと遠慮もなく
「いやー、お疲れ様っすー。もう倉庫寒いし冷え切っちゃったんで、俺すげえラーメン食いに行きたいんですけどー」
「……お前、
「シフトがかすりもしなかったんで。やだなー一緒だったらこっちに来るわけないじゃないすかー」
「もう帰れ。第一、今日は延長サービスしたからまだ片付いてないし」
「え、珍しいすね。猫が疲れるからって、そんなことしたことないじゃないですか」
いちいち説明するのも面倒になってきたので、俺は津田に背中を向けて、店内に戻った。後ろで引き戸を閉める音がして、津田がついてくるのを放っておいて、パソコンの電源を落とそうと、カウンターに近付く。と、
「あれ、それ、中屋さんじゃないですか?」
「……なんでお前知ってんの」
意外な声に、俺が思わず振り向くと、津田はこともなげに応じてきた。
「なんでって、職場同じっすから。俺の四年先輩ですよ、担当フロアは違いますけど」
「うわ、世間せっま」
けどまあ、わざわざあんな時間に来れるんだから、家か職場が近いのかな、とは思ってたけど。よりによってこいつと一緒とは……仕方ないけど。
「へー、猫好きなんですかー……でも、なんでジャージ着てるんすかねー。たまに帰り会いますけど、こんな格好見たことないっすよ」
「そのへんは、俺も気になってたんだけど」
不思議そうに、しげしげと画像を見ている津田に、俺も首をひねった。
こいつと同じ職場、ということは、勤務先は駅前のリーヴル
……それは、こっちが見たこともないはずだな。絵本とか、あんまり縁がないし。
「なんか、特に運動してるって風でもなかったし……お前は知らないの?」
「そこまで突っ込んだ話はしたことないんで。ただ、小倉さんとは同いだし、もの凄く仲はいいんですよねー……」
そう言いながら、深々とため息をついた津田に、俺はぎくりとした。
この溜めのあとは、たいていろくでもない展開になることを覚えているから、とにかくさっとパソコンの電源を落として締めにかかる。が、遅かった。
「あーもう、中屋さんが羨ましいっす!それになんか俺、最近めっきり小倉さんに避けられてる気がすんですよねー!」
……また始まった。これは、しばらくうるさいぞ、本気で。
さっきからたびたび出てきている小倉さん、というのは、こいつの想い人だ。どういう経緯で惚れたのかは、既に嫌になるほど聞かされたので、もう思い出したくもない。
俺も店に連れて行かれた時に、わざわざ遠くから姿を窺わされたので、顔は知っている。ちなみに、
『あ、紹介はしないっすよ!ライバル増やしたくないっすからね!』
との、呆れた一言つきだった。ともかく、思い切ったショートヘアの、てきぱきとした雰囲気の人で、仕事も丁寧で早い様子だったから、印象は悪くないのだが、
「明日もねー、俺休みだけど彼女は出勤なんすよ!もうチーフも店長もたまには一緒にしてくれたっていいっすよねー!ていうかシフト激烈に変わりてえー!」
……そのせいで、こいつに好かれているというのは、ちょっと気の毒な気もする。俺は馬に蹴られるつもりはさらさらないので、傍観しているより他はないけど。
と、津田の台詞にあることが引っ掛かって、俺は尋ねてみた。
「あのさ、明日だけど、中屋さんも出勤なのか?」
「え、ああ、そのはずですよー。普通に早番って小倉さんから聞いたんで、間違いないっすよ!」
ということは、出勤もかなり早いだろう。確か、朝は八時半開店だったはずだし。
結果的に引き止めるようなことになって、何か申し訳なかったなあ、と頭を掻きながら、閉じたパソコンのコードをコンセントから引っこ抜いて、適当に纏めると、津田にそこで待ってろ、と言い置いて、俺は奥にある休憩部屋に向かった。
これは、完全に自分用のものだから、しまっておかないと色々とまずいからだ。特に、お客様の情報なども入っているから、万全の対策を取らないといけない。
厨房横ののれんをくぐり、廊下に入ると、右手にお客様兼用トイレ。その隣が六畳間、猫の寝床部屋で、さらに奥には三畳ほどの倉庫がある。そこを過ぎたどん詰まりが、休憩部屋だ。ここはおまけのようなものだったから狭く、五畳弱ほどしかない。
引き戸を開けて入ると、壁際には寝泊り用の折り畳みのベッド、それから申し訳程度のテーブルと椅子が二客、設備としてはそれだけだ。
通気口しかなく鍵がかかるので、いつもパソコンはここに置いて帰る。家に持って帰るのはさすがにめんどくさいし。そんなわけで、ポケットから鍵を取り出すと、施錠して。
振り返った途端、間近に津田がぼーっと立っていて、俺は思わず声を荒げた。
「なんだよ、気持ち悪いな!声ぐらい掛けろよ!」
「いや、落ち着いてみたら聞きたいことが出来たんでー」
「はあ?」
営業用、という感じの爽やかスマイル(ややうさんくさい)を向けられて、俺が怪訝な声を返すと、津田はその笑顔のまま続けてきた。
「なんで中屋さんの写真撮ったんすかー?これまでずっと猫ばっかじゃないすかー」
「なんでって……白玉がやたらと懐いてたからだよ」
うちの猫どもは、元々が割合フレンドリーな性質だけど、白玉だけは好き嫌いが多い。なんていうか、懐く相手は私が決めるわ、的な、高飛車な性格という感じだ。
それが、いきなり姿を見せたと思ったら、自分から寄って行くわ、喉まで鳴らすわで。
概ねそんなことを伝えると、津田は何やら不満そうに唇を尖らせて、
「えー、期待外れっすねー。ついに日置さんにも、俺の気持ちが分かってもらえるかと思ったのにー」
「……悪いけど、意味が分からん。何が言いたいの?」
「そりゃ、恋する男心っすよ!」
もの凄いドヤ顔の上に、腰に手まで当てて、何やら偉そうに胸まで張って。
きっぱりと恥ずかしい台詞を吐いた津田に、俺はいたたまれずにため息を吐くと、
「……お前見てたら、例えそんな気があったとしても跡形もなく失せるよ」
「そんな酷い!いいじゃないすかー、俺とどっちが早く想いが通じるか競いたいのに!ほーら同じところまでおーちーろっ、おーちーろっ」
「妙な呪いかけるなよ!それに、そもそもがレースにするようなもんじゃないだろ」
もう色々とめんどくさくなってきて、俺は廊下を足早に抜けてしまい、壁のスイッチに手を伸ばすと、纏めて店内の照明を落としてやった。
「わー!俺真っ暗はダメって言ったじゃないすかー!」
何やら津田がわめいているが知ったことではないので、俺は鞄を引っ掴むと、さっさと玄関へ向かった。猫どもはもう慣れているから、今更騒ぎもしない。
引き戸からばたばたと飛び出てくる津田を横目に、鍵を掛けシャッターを下ろしながら、俺はふと、五匹の様子をえらく一生懸命に撮っていた、中屋さんの姿を思い出していた。
まあ、可愛いか可愛くないか、というなら、可愛いんじゃないかとは思うけども。
笑ったらどんな感じなんだろう、と考えて、津田に聞いてみようかと一瞬思ったけれど、それも何か悔しいような気がして、止めることにした。
また来てもいいか、って聞いてくれたんだし。今は、それでいいや。
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