しろいねことくろいねこ
冬野ふゆぎり
しろいねことくろいねこ
十月
しろとくろ
アーケードなどはもちろんなく、個人で経営する事務所や、可愛らしい雑貨店などが、賃貸マンションや戸建て住宅と混在している地域で、静かだけれど、日中でもぽつぽつと人通りのある、そんな場所だ。
そのうちの、四階建てのテナントビル。柔らかな印象のクリーム色に塗られた外壁と、暖かそうな灯りが漏れる、ブラウンの木の格子で仕切られた窓、という外観が可愛らしい、一階の店舗の前で足を止めると、わたしは思わず息を整えた。
『猫カフェ・しろいねことくろいねこ』
その入口である、何故かここだけ和食店のような風情の、やや古びた引き戸の上に掲げられた木製らしき黒の地の看板には、白の手描きめいた書体で記された店名が、左右に設置された小さなライトの光にさらされていて、夜目にも鮮やかに映る。
肉球の膨らみまでを愛らしく再現した、足跡をかたどったマークがところどころに施されているそれを穴が開くほどに見つめながら、さらにため息を吐く。
こういう場所に来るにしては、今日の服装はなんだか浮いてしまうであろう格好、だということは重々承知の上だ。でも、請け負ってきた依頼においては最適ではあるし、何よりどれだけ汚れてもいい。
難点としては、薄手なので今の時期にはかなり寒いけど、そこは母から貸してもらったベンチコートでカバー。あとは、店に入ってしまえば暖房のおかげでなんとでもなる。
と、頭の中で、どうにか自分を納得させようとするものの、
……だけど、雰囲気壊しちゃわないかな。大丈夫かな。
いざ入ろうとすると、シンプルながらいかにも居心地の良さそうな雰囲気に、気後れしてしまう。わざと平日、しかも日もすでに落ちてしまった遅い時間を狙ってきたから、思惑通り、中には他の客は見当たらない。窓から覗く限りでは、だけれど。
こうしている間にも、刻一刻と閉店時間へと近付いていくというのに、ひたすらに躊躇していると、
「お客様、席は十分に空いておりますが」
背後から、そう唐突に声を掛けられて、わたしはひっくり返りそうなほどに驚いて。
声も出せないまま、勢いよく振り返ると、そこには眼鏡の男性が立っていた。
他のなによりも先に、『眼鏡』という単語が頭を過ぎったのは、その特徴的なフレームのせいだった。
形はやや細身のスクエアと、ごく普通だけれど、わたしから見て、左半分が、白。そして右半分が、黒。顔の中心から、はっきりと色分けされていて、なんというか、インパクトがありすぎて。
その他は、茶色の軽く波打つ髪といい、白にネイビーのボーダーシャツにブルーのジーンズ、その上に生成りのエプロン、というあっさりとした服装はどこにでもいる感じで、かえってそれが不思議なくらいだった。
「あ、あの、こんな格好ですが、構いませんでしょうか」
混乱のあまり、今、一番心配なことを思わず口に出してしまう。すると、男性は眼鏡の奥の、一重の瞳をわずかに細めて、軽く頷いてみせた。
「ドレスコードがあるわけじゃないんで、大丈夫ですよ。お願いする点はいくつかあるんですけどね」
そう言いながら、どうぞ、とわざわざ先に立って、引き戸を開けてくれた。慌てて礼を返すと、勧められるままに中に入る。
「あれ……和風?」
引き戸の閉じる音を背中に聞きながら、足を踏み入れた先には、なんと
『しろくろからのお願い』
店内では、以下の点にお気を付け下さい。
・まず、消毒用スプレーで手を消毒してください
・煙草を吸わない(猫がかじりつくと危ないので)
・写真はフラッシュをたかない(猫の目が痛みます)
・猫に飲食物をあげない(人には構いません)
・大声を出さない、暴れない(皆のストレスになります)
・猫を追い掛けない、おどかさない、起こさない(同上)
・猫、人ともケンカしない(生物同士仲良く願います)
・猫のきまぐれはいろいろとあきらめてください
さっそく、脇の台に置かれたスプレーを何度か押すと、手に馴染ませながら、わたしはあるものに気付いて、黒板に顔を近付けてみた。
白のチョークで、淡々とそう書かれた脇に、猫?と少し首を傾げたくなるような、なんともいえないイラストがちょこんと描かれていて。
多分、三角の耳とヒゲが書かれているのだから、ふさふさの長毛の猫がこちらを向いて座っているのだろう、とどうにか推測されるものの、見ようによってはスポンジというか、タワシというのか、そんな感じにも見える。
「それ、白玉です」
「しらたま?」
「猫です。うちの」
抹茶のような色合いの、グリーンのスニーカーを脱ぎながら、男性が零した言葉に呼応したかのように、軽い足音がこちらに近付いてくる。
顔を上げると同時に、仕切りなのか、正面に床近くまで下げられた藍ののれんの裾がふわりとめくれあがる。と、奥から静かに現れた姿を認めて、わたしは目を見開いた。
まず、大きい。体色が白だから、というのも多少はあるのかもしれないけれど、まれに見かける近所の野良猫などとは比較にならないほど、どっしりとした印象だ。
しかも、イラストの元になっているだけに長毛なので、余計にボリュームがあるように見える。水に濡れでもすれば、きっと本来の体格が現われてくるのだろうけれど、それでも、だ。
間違いなく白玉、であろうその猫は、わたしの足元にまで近付いてくると、綺麗な緑の瞳をゆっくりと瞬いて。
それから、口を開けて白い牙を見せると、にゃあん、と一声鳴いた。
「……はじめまして」
なんとなく、挨拶をされたような気がしてそう応じると、淡いピンク色をした小さな鼻から、ふん、と息が漏れる。人なら、ちょっとばかりふてぶてしいかもしれない仕草も、猫というものがすると、こんなに可愛いものか、とふと思ってしまった。
「良かったら、頭、撫でてやってください。こいつ、それが一番好きなんで」
「あ、はい」
脇に立つ男性にそう促されて、身を屈めると、おそるおそる手を伸ばす。
指先で触れようとすると、白玉はつと顔を上げて、鼻先をちょん、と合わせてきて。
それから、こちらの手のひらに自分から頭を、ぐりっ、という感じでこすりつけて来てくれた。どうやら、撫でろ、ということのようだ。
正直、慣れていないので、そろそろと毛並みに沿って手を動かしてみると、やがて凄い震えのようなものが、小刻みな音とともに伝わってきて。
「……これは、ひょっとして、ゴロゴロ、というものでしょうか」
まだ、何故か傍で見ている男性を振り仰いでそう尋ねてみると、相手は軽く眉を上げて、
「そうですね、喉、鳴らしてますけど……お客様、ひょっとして、猫を触るのは初めてですか?」
「ええと……はい、初心者です」
少し後ろめたい気がして、迷ったけれど、素直に答えてしまうことにした。というのも、猫カフェ、と名の付いた店に来る人ならば、それこそ『猫派』なのだろう、と思うからだ。
実のところ、わたしは何派でもない。何しろ生まれてこの方、動物に触れる機会というものが本当に少なかったから、派閥も何も、といったところなのだ。
と、わたしの言葉を聞いた男性は、何を思ったのか口角を上げ、にやり、という感じの笑みを浮かべてみせると、
「じゃあ、せっかくだから、こちらも全力でおもてなししましょうか」
「……あの、全力、というのは」
何やらちょっと怖い気もして、そう聞き返してみると、男性はさらに破顔して。
「初心者からリピーターになっていただけるように、ってことです。これでも商売なんで」
しょ、正直すぎる。でもまあ、おっしゃることはもっともなことだ。生活は大事だし。
まずはこちらへ、と続けられて、わたしは大人しく後についていった。
その足元に白玉がまるでお付きのように付いてくれて、滑らかな動きでのしのしと歩いているのを見ながら、ふと綺麗だな、と思う。なるほど、うちの家族が惹かれるのも、無理もないかもしれない。
そんなことを考えつつ、先程ののれんを分けると、すぐ左側には小さなレジカウンター。正面には艶やかな木のカウンターに、背もたれの高い椅子が五つ並んでいて、さらにその奥には、中央に据えられている広い作業台らしきものを中心として、全体的にステンレスの銀色と壁のベージュに覆われた、やけに立派な厨房があった。
……でも、確か、ブログに食べ物はありません、って書いてあった気がするんだけど。
そんな疑問はともかく、飲み物に関しては、いかにも業務用です、といった風情のドリンクサーバーがカウンター傍に据えられていて、店内のそこここに示されているメニューによれば、それを店長さんが淹れてくれる方式であるらしい。
そして、その右手を見てみれば、大きく二つのゾーンに分けられていた。道路に面した格子の窓のある方は、床はコンクリートの打ちっ放し。そこにベージュのソファや椅子、ブラウンのテーブルがランダムに並んでいて、いかにもカフェらしい雰囲気だった。壁の色は外壁と同じクリーム色で、なかなか上手くマッチしている。
それから、厨房の横、奥の方はといえば、またがらっと変わっていて。
「とりあえず、和室ゾーンへどうぞ。今、猫どもが勢ぞろいしてるんで」
男性の言葉に目を移してみれば、そのものずばりカフェゾーン(よくよく見れば、その境に分かれ道にあるような、矢印型の看板があった)から続く小上がりの先は、広い和室になっていた。
まだ新しいものらしいいい香りの青々とした畳は、何気なく数えてみると十二畳もある。その中央には、丸い広めのちゃぶ台がひとつ。そして周辺には、ふかふかとした色とりどりの座布団。それから、壁にはキャットウォークというのか、木製の棚のような段差をつけた通路が、階段状にそこここに据えられていて。
「……たくさん、いますね」
「まあ、一応猫カフェなんで。これでも一般家庭よりは多いかな、ってくらいですけど」
思い思いの場所にいるのだろう、まだ脇についている白玉以外の、四匹の猫たちの瞳が一斉にこちらを認めたようだった。
黄色、金色、青に、オレンジ。
顔立ちも体格も、なにもかもが異なる対の瞳にじっと見据えられて、一瞬ひるむ。
どうしたらいいものか、とうろたえていると、男性がつい、と先に立って。
「クロエ、アユタヤ。ほら、サービス」
手招きとともに声を掛けると、まず、黄色の瞳のほっそりとした真っ黒な猫と、確か、シャム猫というのか、青っぽい色を鼻と耳、それから四肢の先と尻尾に帯びた、こちらもシャープな体型の青い瞳の猫が、たたっ、と駆け寄ってきた。
両方とも、尻尾が長い。それをぴん、と真っ直ぐに立てているままに、わたしの目の前まで来ると、それぞれに甲高い声で鳴いて、足に身体をこすりつけてくる。
「あの、撫でれば、いいんでしょうか」
「ですね。あとは、好きなようにくつろいでくだされば」
いつの間にかハンガーを手にしていた男性に、コートお預かりします、と言われて、慌てて前のスナップボタンを外す。
と、脱いだものを渡すと同時に、すかさず問いが飛んできた。
「失礼ですが、スポーツジムの帰りとかですか?」
「あ、いえ、まあ、そ、そんなところです」
……とっさに、こんな怪しい回答しかできないって、もう。
そうですか、とあっさり頷いて、厨房横のクロークに下がっていく男性を見送りつつ、わたしは深々とため息をついた。
問題の今日の服装は、全身、ほぼ真っ黒なジャージ。ポイントには白が配されていて、まるでこのお店の名前の如く、白黒だ。しかも、学生の頃(さらに言えば胸にはしっかりネーム入り)に使っていたものだから、こんな雰囲気のカフェに似合う格好とは、とても言えない。
そこに、先程の二匹がこれもゴロゴロとすり寄っているので、あっという間に何本もの細い毛がまとわりついている。よし、当初の意図としては、ひとまず達成だ。
ともかく、ずっと立っているのも妙なので、おそるおそる、その場で腰を下ろしてみる。正座は長く持たないので、足を軽く崩しながら座って、
「ええと……クロエ?」
試しに、黒い猫に向けてそう呼んでみると、にゃ、と短く鳴いて、いきなり膝に上がってきた。黒だから、との予想は当たっていたようだ。
サービスせよ、と言われたことを分かっているのか、じきにクロエも喉を鳴らし始める。その横で、アユタヤが綺麗な青の瞳を細めながら、相手してください、とでもいうように小さな手をわたしの腕に掛けてくる。
その様子が、なんだかいじらしいような気がして、ついつい頭を撫でてしまった。
「……懐かれると、弱いなあ」
「でしょう。そいつは人タラシですからね」
そう言いながら、よっこらせ、とお年寄りのような掛け声とともに、小さなお盆を手にした男性が少し離れて座り込むと、お茶の入ったお湯呑みを差し出して来た。
「あ、有難うございます。この子、そんなにタラシ、なんですか」
クロエにも頭をぶつけられて、お茶を零さないようにしつつ、アユタヤと交互に撫でながら、わたしは尋ねた。
男性は、その隣に座る白玉の背中を大きく手を動かして撫でてやりながら、すぐに頷くと、
「うちのは皆、大なり小なりそういうところ、ありますけどね。アユタヤが撃墜率一位、って感じです」
「なるほど……他の子は、どうなんですか?」
「あとは、お客様の好みにもよるんですけど、ナンパ率はあいつかな」
と、後ろを振り向いて、知らぬ間に傍に近付いてきていた、毛先の方に行くほど濃い、というグラデーションのかかった茶色の、もさもさ度は白玉より低く、大きさは一回りは小さい、そんな猫を指差してみせた。
「カネル。ストライプもこっち来い」
その横に、名前そのままの、はっきりとした黒っぽい縞模様の猫もいて、骨太、というのだろうか、どこかがっしりとしている印象を受ける。
仲良しなのか、二匹並ぶようにしてやってきた猫たちは、きちんと足を揃えて座ると、それぞれに、金色とオレンジの瞳を向けて、なんともいえない声を上げた。
「あっちの、道路沿いの窓、あるでしょう」
指先をすっと動かして、男性はカフェゾーンの向こう、幅の広い桟のある、大きな窓を指し示した。脇には小さな、緑が鮮やかな多肉植物の鉢が、ちょこんと置かれている。
「あそこに日中陣取って、気付いた人が近付くと、リアル招き猫やるんです」
「宣伝部長、みたいな感じですか」
「あ、それいいですね。ブログでその設定にしようかな」
そんなことを話していると、突然、背中に重みが掛かった。驚いて振り向くと、白玉が両手を掛けていて、どうやらよじ登ろうとしているらしい。
「登るの?傾いた方がいい?」
真っ直ぐなままだときっと登りにくいだろう、と思って、白玉に向かってそう言うと、声を出さずに口を開けて、閉じてみせた。……うん、と言ってるのかな。
わたしは手にしていたお湯呑みをお盆に置くと、クロエとアユタヤを潰さないように、そろそろと身体を前に傾けた。すると、おそらく彼女の思惑通りになったのか、のしのしと背中を登ってきて、そのまま肩にしがみつくように落ち着いてしまうと、満足そうに喉を鳴らし始める。
これだけのしかかられると、あったかい。……けど、結構、重い。
「お客様、初心者とは思えないですね。扱い方、上手ですよ」
「そうでしょうか……なんだか、望まれるままにしてるだけなんですけど」
と、褒めてくれた男性の方に顔を向けると、その手にはどこから取り出したのか、青のデジカメがあって。
「あの、それは、どういう」
「ブログ用に、撮らせていただいても?」
「だ、だめです!こんな変な格好なので遠慮します!」
「でも、これだけ短時間で白玉に懐かれる方は正直珍しいんですよね。できれば、お願いしたいんですが」
……これも褒め言葉、なんだろうか。懐かれてるのなら、ちょっと嬉しいけれど。
顔は絶対に出しませんから、と、既に電源を入れつつ、真面目な表情でじっとこちらの反応を待っている男性と、視線を合わせたまま、しばし。
「……あの、いくつか条件があるんですが」
「なんでしょうか」
「撮った写真、事前チェックは」
「もちろん、してください。記事のアップロードも、目の前でやりますから」
「それと、もう、閉店の時間が近いようなんですが」
顔を上げて、壁に掛けられた鳩時計(凄く久しぶりに見た)に目をやると、指している時刻は午後七時四十八分だ。そして、確か閉店時間は、午後八時のはずで。
「この子たちの写真とか動画、あの、今からたくさん撮らせてもらっても……」
「いいですよ、いくらでも。どうせ明日は休みですし、お客様の気の済むまで」
さらりと許可が出てしまって、わたしはしまった、と内心で焦ってしまった。
しかもたくさん、などと割とあつかましいお願いだから、きっと呑まれないだろうと思ってたのに。
でも、よく考えれば、写真数枚で当初の目的が達成できるのだから、良い条件ではあるし。
「……じゃあ、猫たちメインでなら」
「心得ました」
では早速、と、嬉々としてデジカメを構えた男性に、結構な枚数を撮られてしまった。
……こんな変な姿勢で、とても絵になる、とは言えないと思うんだけれど。
そろそろ肩の重みが苦しくなってきて、白玉に降りて、といつ言い出したものかと考えながら、わたしは大人しくされるままになっていた。
それから、本当にカメラの容量一杯になるまで、猫たちのいろいろな姿を撮らせてもらって。
「余計なお時間を取らせまして、申し訳ないです」
「いえいえ。こちらもいい記事が出来ましたし、お互い様です」
お支払いを終えて、店の名前の入ったスタンプカードを貰って、頭を下げたわたしに、店長さんと判明した男性(カードにその旨書いてあった)は、軽く会釈を返してきた。
その足元には、ぞろぞろとついてきてくれた五匹の猫たちが、所狭しと並んでいて。
一斉に見上げてくるそのさまに、素直に可愛いな、と思いながら見ていると、店長さんは、脇のレジカウンターに引っ込んで、しばらくごそごそとしていたかと思うと、
「はい、これ、初回ご来店サービスです」
そう言って差し出されたのは、三枚のポストカードだった。
反射的に受け取って、お礼を言いつつも見てみると、一枚目は畳の上の白玉とクロエ、二枚目は窓際のカネル、三枚目はソファによじ登るストライプとアユタヤ、だった。
「なんだか、皆、格好いいですね」
まるで狙ったみたいに、カメラ目線、という感じのきりりとした瞳が、綺麗で。
特にカネルなどは、光線のせいもあるのかもしれないけれど、まるで一幅の絵のようだ。
「その三枚だけは、プロに撮って貰ったんです。駅前通りのカメラ屋の親父ですけど」
「カメラ屋さん……」
駅前通りは、出勤経路だからよく通るけれど、どこにあっただろう。
通りの店舗の並びを思い返していると、何気ない様子で、店長さんが言ってきた。
「それで、目的はもう達成されましたか?」
その言葉に、わたしは思わず、ぎくりとしてしまった。
言われた通り、ちゃんと目的があってやってきて、頼まれたことはクリアできた。
だけど、自分の中にあった、いささかの後ろめたさを見抜かれたような気がして。
おそるおそる顔を向けると、店長さんは、またにやりと口角を上げて、
「少し前から、うちの店を遠くから窺ってらしたでしょう?」
……そこまで、気付かれてたのか。うかつすぎる。
でも、ばれていたのなら仕方ないので、大人しく頷くと、
「すみません、怪しい真似をして……ちょっとその、入るタイミングを計ってて」
今週に入ってから、仕事の帰りに、実は、何度か近くまでは来ていたのだ。
この格好で入らなければいけないけど、学校指定のジャージは、さすがに恥ずかしい。なので、運良く他の人が店内にいなかった今日が、わたしにとっては絶好の状況だったわけで。
「いや、謝ることはないですよ。俺も、何してらっしゃるのかなー、って気になってただけですから」
だから、さっきは表にゴミを捨てに行っていたところ、わたしがやってきたので、声を掛けてみたのだそうだ。なるほど。
「普通うちに来られる方って、もの凄い勢いで猫に構いまくるし、浮かれるんですよね。けど、何だか終始心配そうな顔で店を見ておられるし、入って頂いたら、どうにも慣れてらっしゃらないようですし」
だから、失礼ながらちょっとカマ掛けてみました、と、悪びれる様子もなく店長さんは続けて、それから、返事を待つようにこちらを見てきた。
別に、話すのは構わない。全然深刻な事情ではないから、答えられないことでもないし。
と、わたしが口を開こうとした時、突然、壁の鳩時計が鳴り始めた。
びくりとして顔を上げると、もう九時になっていた。まずい、明日は普通に出勤なのに。
猫たちは、その予想より大きな音にも慣れているのか、動揺した様子もなく、店長さんとわたしを見上げていて。
「あの、遅いので、今日はこれでおいとまさせていただくんですけど」
言葉を切って、五対の瞳を見渡して、ふと、白玉と目を合わせて。
「でも、この子たちは、好きになったので。また、お伺いしてもいいでしょうか」
そう言ってしまってから、よくよく考えてみれば、ここはお店なのだ、と思い出して。
何か間抜けなことをしてしまった、と気付いたけれど、店長さんはまたにやり、と笑って。
「もちろん。じゃあ、この続きは次回、ということで」
「……先に言っておきますけど、大したことではないですよ?」
結果的に、変に含みを持たせるようなことをしてしまったので、予防線を張るつもりでそう言うと、
「それでも、全然。ここはまあ、いわば休憩所なんで、そんなに気負って来ていただくところじゃないですからね」
これまたあっさりと返されて、ちょっと拍子抜けしてしまった。それは、確かに。
わたしは納得して頷くと、猫たちに小さく手を振って、お店を出た。
それについて、店長さんが店の前まで出て来ると、開いた引き戸から、白玉とクロエが並んで、ちょこんと顔を出して。
「有難うございました。また、どうぞ」
その台詞に唱和するように、二匹が短く鳴き声を上げた。
「……なんか、疲れた」
等間隔に配置された、街灯の白い光に照らされた道を、のろのろと駅に向かって歩きながら、わたしは呟いた。
慣れないところに飛び込むと、いつもこうだ。緊張してしまって、普段より余分に疲弊するということもあるけれど、今回はやっと終わった、という達成感も入り混じっていて。
……でも、猫たちは、可愛かったし。
今度行くときは、服装はもう少しましになるよう、考えないといけないかな。
ふと、白玉の緑の瞳と、白黒の眼鏡を思い返していると、短い着信音に我に返る。
鞄からスマホを取り出すと、ロックを解除してメールを見る。予想通り、父からだった。
From:父
Title:随分遅いが
迷っているんじゃないか?大丈夫か。
母さんが、冬眠前の熊の如くにうろうろと
していて、甚だ落ち着かん。
ついては、至急連絡請う。
それと、画像を先行して送ってくれてもいいぞ。
今日の飯は、筑前煮がメインだ。
実に美味かった。早く帰ってこい。
……また、食べ尽くしたとか言わないよね、あの人。
わたしの母は、非常に和食の腕に定評のある人だ。それ故に、残業で帰って泣きを見たことが幾度となくあるから、少しばかり釘を刺しておこうか、と思い、返信してみた。
To:父
Re:取り急ぎ
任務完了、もうすぐ藤宮駅に着きます。
画像はあるけど、ご飯が無事だと分かるまでは
送らないからね。
母にコロコロを準備してもらっておいて。
送信後、ほとんと間を置かずに、『飯は無事だ!』と筑前煮の画像が送られてきて。
とりあえず、食いはぐれだけはなさそうだ、と安心して、わたしは帰る足を速めることにした。……画像は、もうちょっとだけ焦らしておこう。結構、大変だったし。
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