後日談:四月
天秤と錘
二つあるものを、どうしても選べなくて天秤に掛けつつも悩む、という状況は、まれにあることだ。もっとも、わたしの場合で言えば、例えば苺のエクレアにするか、それともチーズスフレにするか、というような、日常のごく些細なことくらいだけれど。
それが、まさか自分自身が天秤の片方に乗せられる、ということになるなどとは思いもよらなくて。
「……白玉、久し振りなんだし、我慢しなくていいんだよ?」
わたしが彼女にそう声を掛けたのは、いつものように、しろくろの和室ゾーンだった。
ちゃぶ台の周りに並べた座布団のうち、黄色いそれの上に座らせてもらいながら、説得するように、白くふわふわとした背中をそっと撫でてやる。
しかし、常とは明らかに違うどこかおろおろとした様子で、こちらを見上げてくると、小さく口を開いて、白玉はにゃあ、と弱々しい声を上げた。
「白玉、俺はいい、遠慮なく懐け。また間を置かず会えるだろうが」
困り果てた風情の彼女に、さらにそんな言葉を告げたのは、眼鏡を掛けた男性だった。
とはいえ、航さんのしろくろなセルフレームとは異なり、レンズが横に細長いフレームレスで、つるの部分はシルバー、という、どことなくシャープな印象を与えるものだ。
しかも、今日は休暇だとご本人から聞いているというのに、身に纏っているのは端正なイメージのスーツ。もちろん、ネクタイも緩むことなく、綺麗に結ばれている。
さらには、向かい合わせに並べた色違いの青い座布団に、大変姿勢良く正座をしておられるので、余計になんというか、先生、と呼びたくなるような雰囲気で。
と、その声を聞いた白玉は、首を回して男性を見上げて、それから、またわたしの方を向いて、と、大変に弱った様子で、なんだか次第に可哀想になってきて。
「……なんか、見事な二律背反だな。白玉、一花さんは明日も来てくれるけど、
屈み込んだ航さんが、ぽん、とその頭を撫でると、何故か白玉は低く唸り声を上げて、素早く身体を反転させたかと思うと、前足二本を大きく振り上げ、激しく攻撃し始めた。
要するにそれは、高速猫パンチ、という、見た目には可愛いけれど、かなり強力な技で。
「こら、お前なあ!俺だけあからさまに態度が違いすぎるだろ!」
「……八つ当たりだな」
「……みたい、ですね」
思わず顔を見合わせて、わたしがそう頷いている間に、白玉が後ずさった航さんの足に爪を立て始める。いてっ、と声が上がったのを機に、わたしよりも一歩早く立ち上がった雲井さんが、すっと彼女の傍に一足寄ると、低めた声を鋭く放った。
「白玉、よせ。来い」
短く飛んだそれに、ぴくりと耳を向けた白玉は、すぐさま動きを止めると、掴んでいた足を離して、身をひるがえすと、真っ直ぐに駆け寄ってきた。
それを目にするなり、雲井さんはわずかに膝を曲げ、両の腕を迎えるように差し出すと、白玉がとん、と軽やかに畳を蹴る。
喜色満面、といった様子で彼女が飛びついた瞬間、微かにだけれど、雲井さんの口元が緩むのを見て、ああ、ずっと大事にしてるんだな、と見つめていると、
「……一花さん、あいつらにほのぼのしてもいいけど、俺も慰めてください」
「わ!?ご、ごめんなさい!ええと、大丈夫でしたか!?」
わたしの肩にそっと手を置いて、かなり疲れた様子でそう言ってきた航さんに、慌てて尋ねると、むき出しの腕を見せてきて、
「ばしばし叩かれたけど、赤くなった程度で済んでるよ。パンツは糸出たけど」
少しばかり肉球型に色の変わった肌には、幸い傷もないけれど、ブラウンのチノパンのふくらはぎ付近から足首近くまで、ひょこん、とループ状に糸が何か所も飛び出していて、なかなか酷い有り様だ。
ソーイングセットでなんとかなるかな、と見ていると、白玉を抱えたままの雲井さんが近付いてくるなり、彼女を撫でながら言ってきた。
「しかし、お前にも随分慣れたはずなのに、まだこいつはこうなのか」
「特殊な誘引成分が出てそうなお前と一緒にするなよ……まあ、白玉フェロモン持ってるのは、一花さんもだと思うけど」
……全然分からないけど、どこかから何か、出てるんだろうか。
航さんの言葉に、おそるおそる自らの身体を見下ろしながら、そんなことを考える。
つい先程の彼女のうろたえぶり、そしてここまで聞こえるほどの喉のゴロゴロを聞いていると、もしかしたら、と、わたしは思わずにはいられなかった。
そんな、白玉の珍しい姿を見ることになった、一時間ほど前のこと。
今日は、先月末の内示から異動までの怒涛のような二週間を終え、ひとまず落ち着いて休暇、となった、土曜日だ。そういうわけで、我が社の状況(特に四階フロア)も含めて色々お話もしようと、航さんと猫たちに会いにやってきたわけなのだが、
「一花さん、そんなに緊張しなくてもいいよ。あいつ、愛想は良くないけど悪い奴じゃないから」
「はい……分かってはいるんですけど」
お店を出て、駅の方へと向かって並んで歩きながら、航さんが宥めるようにそう言ってくれるものの、わたしは正直、溢れる不安を隠せずにいた。
今朝、いざしろくろへ、と支度を終えて家を出る直前に、航さんからスマホにメールが来たので、何事だろうと見てみれば、
『白玉の前の飼い主が来ることになったから紹介するよ、一緒に昼ご飯食べよう』
という内容だったので、一瞬、頭が真っ白になってしまった。
もちろん、お会いするのが嫌だという訳ではない。以前から、白玉と一緒の写真(但し、顔は写っていないのだけれど)を見せていただいたり、どういった付き合いなのかなど、お話を聞いたりはしていたので、相当に仲良しなんだな、という認識はあった。
さらに津田くんとも先輩後輩の間柄だということだし(ちなみに『あ、いい人っすよ!』ときっぱり断言された)、きっと、いずれこういう機会もあるんだろうな、とも。
だけど、この緊張の根本的な原因は、航さんの彼女として紹介される、というそのことなのだ。それに加えて、白玉のこともあるし、やはり出来ればいい印象を持って貰えるといいな、などと考えてしまったりもして。
そんな思いをさまざまに巡らせながら俯いていると、ぽん、と頭を撫でられて。
そこから、するりと下りてきた左手が、わたしの右手をそっと握り締めてきて、思わず顔を上げると、ちょっとからかうような笑みが返ってきて、
「こうすると、なんとなく安心する、って言ってなかった?」
「……言いました、けど」
その後、確か、それ以上にどきどきします、とも伝えたはずなのに。
頬が赤くなるのを意識しつつ、きっと分かっててやってるよね、と思いながらも素直にされるままでいると、航さんは前方に向き直って、ゆっくりと歩みを進める。
こうして、外で手を繋いだりするのも、ほんの少しだけ慣れてきた。たまに吉野さんや友永さんなど、うっかり知っている方に会ってしまうと、凄く照れてしまうけれど。
航さんは、少し意外な気もするのだけれど、スキンシップがかなり好きだ。特に二人でいると、前触れもなく手が伸びてくることが多い。いつの間にか距離が詰められていて、そっと引き寄せられたり、指先で頬をなぞるようにしてきたりして。
もっとも、そうでもなければ、わたしから甘えるようなことはまだまだ出来ないから、全然構わないのだけれど。
……というか、こちらも、もう少し進歩しないといけないかもしれない。
「大丈夫だから。俺が一緒なんだし、それに」
そう言って、言葉を切った航さんは、面白がっているように口角を上げてみせると、
「白玉に好かれてる、っていうだけでも、あいつにとって心象いいと思うし」
「彼女基準、ですか?それだったら、航さんもそうですよね」
「いや、全く違うって。見ての通り、俺には終始偉そうだし」
軽く眉を寄せてそう返してくると、わたしをじっと見つめながら、んー、と唸って、
「一花さんにも相当デレてると思うけど、雲井が相手となると、なんか白玉の雰囲気が異なるっていうのか……まあ、見てみれば分かると思うけど」
それを聞いて、がぜんその方に興味が沸いてしまった。普段の、きりっとした彼女も、凄く甘えてくれる可愛い姿も知っているけれど、また違う姿を引き出すなんて。
「あ、一花さんからなんかオーラ出てる。その調子で行こうか」
「はい、が、頑張ります」
エネルギーを充填するかのように、きゅっ、と繋いだ手に力を込めると、驚いたように目を見張った航さんの視線を捉えて、意を決したように頷いてみせる。
このような試練は、お付き合いを続けていく以上、これからきっといくらでもあるはずなのだ。だから、ひとつひとつ乗り越えていかなければ!と内心で気合いを入れていると、
「随分と仲が良いな、日置」
やや低い、しかし滑舌のはっきりとした、そんな声が耳に届いて、一瞬動きを止める。直後に、呼ばれた名前に気付いて、わたしは慌てて顔を向けた。
と、思いの外すぐ傍に、その男性は立っていた。
さっぱりと短い、軽く立てた硬そうな黒の短髪に、ダークグレーのスーツに包まれた、その背丈はかなり高く、航さんがわずかに見上げてしまうほどで、わたしと比較すれば、頭ひとつ分近くは差があるだろう。
そして特徴的なのが、体格に見合ったがっしりとした広い肩と、フレームレスの眼鏡の奥から覗く、鋭い眼光を放つ瞳だった。
二重の、切れ長のそれにひたと見据えられて、わたしがとっさに返事も出来ずにいると、
「こら、お前素で目つき悪いんだから、人の彼女をじろじろ見るなって。それに、駅で待ってろって言ったはずだろ」
「ああ、不躾で申し訳ない。だから、そちらが紹介してくれるのを待っていたんだが」
咎めるような航さんの言葉に、男性はあっさりとわたしから視線を外したかと思うと、スーツの内ポケットから、何故か黒い革製の名刺入れを取り出してきて、
「初めまして、
慣れているのか、流れるような動きで、両手にした一枚のそれを差し出されてしまって、わたしは反射的に会釈を返すと、頂戴いたします、と受け取ってしまった。
「中屋一花と申します。こちらこそ、失礼ながら本日は名刺を持参しておりませんので、お返しできず、大変申し訳ございません」
と、思わず仕事モードに入ってしまって、定型の答えを返してしまう。と、
「……一花さん、そいつに真面目に付き合わなくていいから。それと雲井、今日は仕事じゃないんだから、いきなり名刺交換はないだろ」
「すまん。しかし正直、これが一番やりやすいんだ」
半ば呆れたように言ってきた航さんに、雲井さんはぴしりと姿勢を正すと、きっぱりとそう言い切ってみせた。……確かに、凄く分かりやすくはあるけれど。
ともかくそれが、白玉の元の飼い主であり、航さん曰く『白玉タラシ』だという、雲井さんとのファーストコンタクト、だった。
……それにしても、道端で名刺交換って、普通あんまりないよね。
それから、近くてしかも美味しい、という条件を満たす喫茶店エクリュで、三人でランチを食べながら、もう少し詳しい自己紹介を交わして、その後はお二人がさまざまに近況などを交換したりで、あっという間に時間は過ぎて。
幸い、雲井さんがまだ時間に余裕がある、ということで、一緒にしろくろに行くことになったのだが、着くなりあの葛藤が繰り広げられた、というわけで。
「でも、ほんとに、かなり違いますね」
再び、座布団に腰を下ろして落ち着いた、雲井さんの腕の中で、途切れることなく喉を鳴らし続けている白玉を見ながら、わたしは感心してそう言った。
まだお昼休み中だから、他にお客様はいらっしゃらない。それ故に、彼女が気を散らす要素が周囲にないせいか、一心に、彼に対してまるでラブコールを送っているかのようで。
そんなことを考えながら、わたしの膝を分け合うようにして、二列に別れて乗っている、アユタヤとストライプ(さすがにちょっと重い)をかわるがわる構っていると、
「昔からそんな感じ。だから、本当に俺が預かっていいのかな、ってさんざん考えたんだけどね」
あぐらを組んだその上に、正にジャストサイズ、という感じでおさまったクロエを撫でてやりながら、航さんがそう応じたのに、雲井さんは白玉を見下ろしていた顔を上げて、
「それでいい、と言っただろう。こいつ自身が選んだことなんだからな」
「選んだ、って……じゃあ、他にも候補の方がいらっしゃったんですか?」
「うん、あと二人。条件はほぼ満たしてたらしいんだけど」
何せ、とても綺麗な白い毛並みに、凛とした雰囲気を持っている彼女だから、いささか体格が大きいとはいえ、引く手あまただったそうだ。
そういうわけで、新しい環境に馴染むかどうかも含め、お試しで数日同居、を実施してみたものの、
「最初の女性は、俺も理由は未だに分からんが、白玉に拗ねられて餌も食わなくなって、次の男性は、誤って尻尾を踏んで怒らせてしまって、断念されたんだ」
「それで、最後の砦、じゃないけど、いきなり軽トラ横付けされて家に乗り込まれてさ……休みで俺まだ寝てたのに」
雲井さんの転勤まで、その時点であと五日だったそうだから、切羽詰まっていた挙句の突撃だったらしい。ケージとトイレから始まり、砂や大量の餌までの全てを持ち込まれて、流されるままに当時の大家さんに報告し、共同生活が始まったそうだ。
すると、警戒はなかなか解かれなかったものの、無闇に威嚇したり不機嫌になったり、ということがなかったので、正式に譲渡、という形になったらしいのだが、
「でも、雲井が引っ越す日だけは凄かったよ。やっぱりセンサー発動してたみたいで、泣きわめく、とかはなかったんだけど」
クロエを踏む勢いで、膝に乗ろうとしてくるカネルを適度にあしらいながら、航さんが白玉に目をやると、どことなく優しい笑みを向けて、
「一日窓からじーっと空ばっかり見てて、飯も食わないし……だから、また帰ってくるから、って言ったら、黙ったままのしのし寄ってきて、腹に乗られてそのまま寝ちゃって。そこから、やっと落ち着いたんだよな」
その言葉に反応したのか、両の耳を震わせた白玉が、つと首を回して、緑の瞳をじっと航さんに向けてきた。前足を胸元に置いて、しっかりと雲井さんにしがみついたままで。
そんな様子を目にしていると、ふっと何かが腑に落ちた気がして、わたしは、気付けばぽつりと呟いていた。
「……なんだか、航さんがお父さんで、雲井さんが恋人みたい」
それぞれの醸し出す雰囲気というか、放つ気配が、それに近い気がして。
と、言い終えた途端、二人とも、なんというか、虚を突かれた表情になって。
「……なるほど。それは、ウェイトが全く異なるはずだな」
「あー、凄い納得した……それで、俺の扱いはいつまで経ってもぞんざいなんだな……」
眉をきつく寄せた雲井さんは、酷く感心したように深々と頷いて、航さんはといえば、額に手を当てて天を仰ぎつつ、しみじみと嘆きの声を上げた。
もしかして、何かお二人の思わぬ急所を突いてしまったのかも、と思いつつも、何やら深く沈思している姿に、わたしはそれ以上何も言わないことにした。
その後、なんとなく落ち込んだ様子の航さんを、アユタヤとストライプと一緒に慰めていると、しばらくじっと黙していた雲井さんが、ふと思いついたように眉を開いて、
「日置がお父さん、ということなら、中屋さんはお母さん、というところか」
「えっ!?お、お母さんって、あの」
「……なんでそんなに慌ててるの、一花さん」
「え、だって、お父さんとお母さんって……な、なんでもないです!」
不意打ちで飛んできた言葉に、とっさに変な反応をしてしまって、わたしは一瞬脳裏に過ぎったものを振り払うように、思い切りかぶりを振った。
……一拍置いて、あからさまに嬉しそうに変わった航さんの表情には、気付かなかったことにしておこう。……今は、まだ。
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