下り坂

 ちらほらと雪が降ることはあっても、積もるところまではまず行くことはないという、そういった気候の地域に長く住んでいるから、目覚めて窓を開けた瞬間、目の前に広がる白の世界に遭遇すると、我ながら子供のように興奮してしまう。

 これが出勤日なら、しばらく感嘆しつつも見とれたあと、我に返ってバス動いてるかな、電車は、などと交通情報に右往左往することになるのだが、そうでない時に上手く当たる、そんな日もあるわけで。

「……よし、準備出来た」

 朝から一日お休みの、火曜日。午前、九時少し前。

 誰もいない静かな自宅の玄関に立ち、壁に下がっている細長い姿見で一応のチェックを済ませてから、わたしはとん、とスノーブーツの踵を鳴らしてみせた。

 その用途通りに使えることはほぼないというのに、ソールの模様とドットが可愛い、という理由で即決してしまった、ネイビーに白のショートブーツだ。

 もちろん機能の点でも問題ないし、今日のようにいざしろくろに出かけよう、という時には、細身のパンツともとても合わせやすいことに気付いた、というのもある。

 先日買った、まるでカネルのような色合いのふわふわのファーがフードと袖口についた、カーキ色のコートの裾をちょっと直してから、わたしは外に出た。

 ……それにしても、さすがに、寒い。

 腕に掛けた、アイボリーのバッグから手袋を取り出しつつ、細く吐き出した息は、見る間に白く、高く上っていく。ほんの数センチとはいえ、積もったものがまだ解ける様子も見えず、見上げた空は厚い雲に覆われていて、いつ降り出してもおかしくないほどだ。

 さくさくと雪を踏みしめながら歩いて、自宅の玄関から、およそ三分。通勤ルートでもあり、生活の足である市営のバス停を、なんとなく横目で見ながら通り過ぎる。

 こんな状況なのに、駅までの三十分ほどの道のりを歩いて行こう、と思ったのは、休日だというのに酷く早起きをしてしまったということ、それと、父も母も既に出勤しているので、一人しんとした家にいるのは、何かもったいない気がするということ。

 それに何より、凄く久々にしろくろに行ける、ということで、そわそわとして落ち着かない、というのが一番の理由だ。店長さんに、あれだけはっきりと必ず行きますと言っておきながら、どうしても都合がつかなくて。

 でも、正直なところ、それで丁度良いくらいだった、とも思う。仕事中だったり、他に集中することがあればいいけれど、途切れた間隙に、するりと思い起こしてしまうから。

 そういえば、千穂、大丈夫かな。

 ここに入れれば、めったなことでは落とさないだろうほどに深い、コートのポケットに入れておいたスマホを取り出すと、職場から緊急連絡がないかどうかだけ確かめる。

 一通り確認を終えて、待ち受けに戻した液晶に目を落としながら、わたしは少し前の、彼女とのやりとりを思い返していた。



 「あ、あれ可愛くない?けど、もうちょっと長い方がいいんだっけ」

 「うん、お尻が隠れるくらいかな。持ってるの、短いのばっかりだから」

 藤宮の駅から、我が社のビルとは交差点を挟んで、概ね斜向かいになる商業ビル。

 名の知れたアパレル系のショップがずらりと並ぶ、十五階建ての三階フロアの一角で、トルソーに掛かったコートを指差した千穂に、わたしはそう応じていた。

 今年は、年始直後のそれだけでなく、かなり遅めの冬のバーゲンが行われるというので、仕事帰りに寄ってみよう、ということになったのだが、

 「でも、目論見当たってるかも。二月とかまだまだ寒いし、結構いい感じの残ってるし」

 「そうだね。千穂は、狙ってるのある?」

 「んー、パンツかカットソーくらいかな」

 「……スカート、ほんと買わないね。制服くらいしかないんじゃない?」

 「だって、楽なんだもん。いちいち足さばきに気を遣わなくていいし、それに……」

 そう言いかけて、ふと口ごもった様子に顔を向けると、千穂は何やら微妙な表情をしていて。

 「津田くん?」

 「……まあ、そう」

 ぽつりとそう零した彼女は、照れたように顔をそらすと、そのまま視線を向けた先へと足を進める。気を悪くしたかな、と慌てて後を追うと、振り向かないまま声が飛んできて、

 「ごめん、やっぱ、まだ全然落ち着けてないみたい」

 「……それは、仕方ないよ」

 急性気管支炎が完治して、千穂がようやく復帰してきて、すぐ。

 その帰りに、半ば以上拉致されるような勢いで、彼女の家に連れて行かれたわたしは、彼とのことを一部始終聞いて、本当に驚いてしまったのだ。

 というのも、店長さんの車に戻ってきた津田くんの様子は、いつもよりは若干大人しい程度だったし、千穂に会えて安心したのかな、とばかり思っていたくらいで。

 繋ぐ言葉を探しているうちに、足を休めてください、とばかりに、フロアの通路のそこここに置かれている、白と赤のソファが目に入る。

 わたしは千穂を誘って、一旦休憩することにした。まだ午後六時を過ぎたところだし、急ぐ必要は全くない。加えて、各店舗にはいよいよ人が流れてきたから、話していても、誰も気にしないだろうからだ。

 白い壁を背にして、千穂は赤、わたしは白に座ると、透明なパーティションの向こうに、様々な色合いが溢れているのを見るともなく見ながら、ようやく口を開く。

 「急がなくていい、って言われたんでしょ?でも、気になる?」

 「……ん。でもなんか、その方がきつい感じで」

 「きつい?」

 短く尋ね返すと、やりきれないような仕草で、髪をくしゃりと掻き上げた千穂は、壁に頭を預けてしまうと、

 「待ってくれてるのに、未だになんて返せばいいのかとか、それで踏み込んじゃったらどうなるんだろう、とか……一人でいると、分かるわけないことばっかり考えてて」

 それでも、彼のメールや普段の態度は、抑えているのか至って平静だから、ずるずると返事を保留したまま、もう一月も終わろうとしていて。

 そう吐き出してしまうと、千穂は小さく息をついて、

 「結局、怖いだけなのかな。何がどう変わるのか、全然見当つかないし……あと、今、気が付いたけど、ちょっと腹も立ってる」

 「え、何か怒らせるようなこと、されたの?」

 驚いて尋ねると、千穂はううん、と軽くかぶりを振って、

 「自分でも馬鹿だな、って思うんだけど……これだけこっちは動揺しまくってるのに、撃ち込んだ方はなんでそんなに余裕あるの、とか、凄い理不尽なことばっかり思ってて。だって、あれから、ずっと……」

 途切れた言葉の続きは、俯いた唇からは零れては来ない。

 だけど、それはおそらく、言うまでもないことで。

 何気なく顔を戻すと、ふと視界の端に目を引く色があるのに気付いて、焦点を合わせる。正面のハンガーに掛けてあったコートが売れたのか、空いたスペースの向こう側が見えて、そこにあるものに、わたしはじっと視線を向けながら、呟くように言った。

 「……わたしも、千穂と一緒みたい」


 何を見ても、何故だかその人を思い出して。

 細く流れてきた糸を束ねて、繋がっていこうとするように、心が動いて。


 だけど、いざ相対してみると、一言を伝えるのにも、膝が震えてしまいそうなほどで。

 「……津田くん、偉いなあ」

 「……なんで唐突にそういう結論に至ったの、一花」

 「ちゃんと、気持ちを伝えられたから、かな。凄く難しいことだもん」

 そう言いつつ、わたしはソファから勢いをつけて立ち上がると、千穂に手を差し出した。見上げてきた彼女に、出来るだけ元気付けるように笑ってみせると、

 「千穂、気になるの見つけたから、付き合ってくれる?」

 「……いいよ」

 苦笑しながら、されるままに腰を上げた千穂と、並んで歩き出す。

 と、解いた手を戻しざまに、ぽん、と髪を撫でられて。

 「なに?」

 「なんでもない。ありがと」

 それだけを言うと、千穂はどことなくさっぱりした表情で、小さく笑みをくれた。



 それから、見ている限りでは千穂も幾分普段通りに戻って、津田くんの方も焦っている様子は見えないままだ。ほんの少しだけ、ぎこちない時もあるけれど。

 あまり間を置かず、きちんと伝える、とも彼女から聞いているし、きっと、すんなりと納まるところに納まるだろう。……津田くんが暴走しなければ、おそらく。

 そう考えて、わたしは思わずため息をついた。状況的に言えば、まさしく天と地ほどの差があるからだ。

 もう両想いでいいんだよね、というほどに進展した関係と、親切な店長さんとその常連(そろそろ、そう言ってもいいだろう)というだけの間柄では、全く異なる。というより、たまたま津田くん、という奇妙なかすがいがあったことで、仲良くしていただいているというだけのことで。

 と、ざくり、と音を立てて足元の雪が割れる。知らずうなだれていたのか、深い靴跡に汚れたそれを目にして顔を上げると、もう眼下に駅が見えるところまできていた。

 とはいえ、まだ気を緩めてはいけない。高台の住宅地にある我が家からこの辺りまでは、比較的緩やかな坂だけれど、次の角を曲がると、急激に勾配がきつくなるのだ。

 大型バスが通る、とはにわかに信じ難いほどの二車線の道路脇に、ほんの申し訳程度に引かれた白線に掛かるように寄せられた白い塊を避けつつ、そろそろと足を進めていると、

 「あ、おはようございます、中屋さん」

 突然聞こえるはずのない声がどこか遠くから聞こえて、おかしいな、考え過ぎたのかな、との思いがよぎりつつも、また一歩踏み出そうと足を上げて。

 「おーい、中屋さーん。すいません、こっちです」

 酷くはっきりとした二度目の声に、ようやく事態を正確に頭が認識する。つまりこれは気のせいでもなんでもなく、ごく近い場所に店長さんがいる、ということだ。

 完全に予想外のことに、慌てて周囲に首を巡らせると、道路を挟んで向かい、進行方向からは左手に、白に赤混じりの花が綺麗な、山茶花の生垣がまず目に入って。

 その奥に見えている、同じ灰色のドアが並ぶ、おそらくアパートらしき建物の二階から、何故かほうきを手にした店長さんが、空いた手をこちらに大きく振っていた。

 「あ、えっと、あの」

 どうしたものか、とうろたえつつも、取り急ぎ、挨拶はちゃんと返さなければ、と思い、同じく手を振り返そうと腕を上げる。

 と、振ると同時に、ぐい、と引っ張られるように身体が傾いで。

 「……中屋さん!?大丈夫ですか!?」

 焦ったような店長さんの声が耳に届いた時には、わたしは声も出せないまま、何故だか歩道の上にへたりこんで、ひたすら呆然として雪の中に埋もれていた。



 訳が分からないうちに、気付くと路上に座り込んでいた時から、しばしの時間が過ぎて。

 「すみません、おかげさまで綺麗に取れました」

 長くお借りしていた洗面所からリビングの前へと戻ると、そろそろと引き戸を開けて、わたしはグレーのソファに掛けているボーダーシャツの背中に、そう声を掛けた。

 すぐに振り向いてくれた店長さんに、分かりやすいように汚れの落ちたコートを広げてみせると、良かった、と笑って、

 「そこは結構冷えますから、どうぞ入って。コートはそこのハンガーに掛けてくれればいいですから」

 そう言い置いて、手にしていたスマホを脇にあるサイドテーブルに置くと、さっと腰を上げて、左手の壁際にあるキッチンへと向かった。さすがというか、店にいる時と同様、実にフットワークが軽い。

 わざわざ用意してくれていたのか、天板の上に置かれた小さなコーヒーメーカーからは、既にここまでいい香りが漂ってきている。

 それに引かれるように部屋に入り、きっちりと扉を閉めると、指示通りに木製のコートハンガーに手にしたものを掛けてしまってから、わたしはその根元に、立て掛けるように置かれているものに気付いた。今回の元凶の、アイボリーのバッグだ。

 革製のそれは、中にふわふわとした素材が使われていて手触りがいいのに、意外に物が入るから、コートと同じ日に衝動買いしてしまったのだが、持ち手が長いのが災いして。

 手にしているのを忘れて、腕を上げた時に、通り沿いの家の庭から張り出していた松の木の枝に引っ掛かり、気付かずに手を振ったら身体が引っ張られ、そこから雪が落ちて。

 ……どこからどう見ても、もうコントにしかなってない、絶対。

 髪が派手に濡れた以外は、ほとんどコートが被害を引き受けてくれたので、それだけは幸いだった。それにパンツは、座り込んだ先が雪の上だったから、意外と無事に済んで。

 でも、これは津田くんの倉庫転倒事件並みのレベルだ、などと沈み込んでいると、

 「それ、ざっと周りだけ見ましたけど、傷とか破れたりとかはなかったみたいですよ。汚れも、拭いたら取れましたし」

 そう言いながら、傍らに立った店長さんは、両手にした二つのマグのうち、シンプルな白無地のものを、はい、と差し出してくれた。

 「有難うございます。それと、あの、本当にごめんなさい」

 なんだか、この間から謝るようなことばかりしてしまっているな、と落ち込みながら、渡された手の中の暖かさに、余計に情けなくなって。

 しかも、あんなに酷い格好を、と俯いたわたしに、店長さんはまた笑って、

 「いいですよ、気にしなくて。元はと言えば、俺が声を掛けたのが引き金でしたから」

 ……確かに、そのことで相当驚いてしまったというのも、あるかもしれないけれど。

 何より、ご近所、というにはかなり遠いけれど、まさか店長さんの家が、同じ最寄駅のこんなに近い場所にあるなどとは、全く思いも寄らなかったのだ。しかも、バス移動とはいえ通勤ルート上にあるから、間違いなく毎日目にしているはずで。

 そんなことを言うと、店長さんは頷いて、

 「俺も驚きました。まあ、この前お送りした帰りにやっと気付いたくらいなんですけど……このへん、まだいまいち土地勘がないもんで」

 どうぞ、とソファを勧められて、長いそれの左端に掛けさせてもらう。と、その正面にある大きな掃き出し窓からは、白の上に点々と足跡が続いている広めの庭があって、そのぐるりには、さっきのものとは色の異なる花の生垣が巡らされているのが見て取れる。

 そのコントラストに自然と目を引かれながらも、ふと、ある疑問が浮かんできて。

 わたしは白いマグを目の前のセンターテーブルに置くと、少し離れて座った店長さんに向き直った。

 「あの、さっき、お隣の掃除をされてたのは……わたし、てっきりあちらがお家だと」

 今、わたしがお邪魔しているお家は、二階建ての一軒家だ。そして、先ほど店長さんが手を振っていたアパートは、低い羽目板の塀を隔ててすぐ右、という立地で、入口も違う。

 あの後、すぐさま道路を横切って助けに来てくれて、引き起こしてもらったそのままに手を引かれて、ここに連れて来られて、洗面所に案内されて今に至る、わけなのだが、

 「ああ、管理の一環です。あそこ、俺が家主なんで」

 実にあっさりと応じてきた店長さんは、ごく簡単にわたしの疑問を解してくれた。

 このお家は、元々がお母様のご実家。そして、お隣のアパート(なんと、日置荘というそうだ)は、おじい様が二十年ほど前に建ててから、ずっと管理をされていたのだが、

 「もう八十越えなんで、俺の母親が親父と相談して、五年前に実家に引き取ったんです。祖母は早くに亡くなりましたし……そしたら、ここをどうするか、っていう話になって」

 どちらも売ってしまう、またはこの家も合わせて貸し出す、ということも考えたという。だけれど、それぞれに思い出が残っているから、手放すこともしたくない、とのことで、

 「それで、俺にお鉢が回ってきたんです。クロエを飼い始めた時に、俺が猫が増えた、っていう話をしたら、祖父にいきなり『お前が住んで管理しろ』って」

 そこからは、あれよあれよと話が進んだそうだ。店長さんとしては、猫を飼うのにこの広さは素直に有難いし、通勤にも支障がない。アパートの管理は、多少面倒はあるけれど、慣れてみれば結構性に合っていることに気付いて、数年が経過して。

 「正直、ここを貰ってなければ、多分しろくろもなかったでしょうね」

 生臭い話ですけど、と苦笑しながら、そう話を結んだ店長さんは、濃いグレーのマグを口に運んだ。ふわりと漂ってきた香りからすると、どうやらブラックなようだ。

 けれど、手元にある白のマグの中身は、ミルクが多めに入っていて、砂糖はなしで。

 

 ……こういうところが、好きだなあ。


 脈絡もなく、ふっとそんな言葉が心に浮かんだ時、何気なく店長さんがこちらを向いて。

 内心でびくりとしたけれど、気付いた様子も見えずに、空いたマグをテーブルに置くと、

 「そういえば、中屋さんは時間、いいんですか?お出掛けの途中だったんじゃ」

 「え、あ、全然大丈夫です。しろくろにお伺いする途中だったので」

 そう応じて、店長さんが示してくれた壁の時計に目をやったわたしは、反射的に時間を確認して。

 それから、あることに気付いて、思わず二度見してしまった。

 「え、今って、十時半……」

 「そうですよ?」

 それが何か、という風に、平然と応じてきた店長さんに、わたしはすっかり混乱して、焦りのままに立ち上がると、

 「だ、だって、しろくろの営業時間まで、あと三十分しかないのに。店長さん、いつもお掃除とか開店準備にもっと、時間かかるって、ブログでも、だから……」

 移動時間を考慮しなくても、午前十一時の開店には絶対に間に合わない。

 つまり、とうの昔にお店に行っていなければならないところを、こんなことでわたしが邪魔をしてしまった、ということになるはずで。

 気付きもせずに、のんびりとしていた自分にも腹が立って、次の言葉も継げずにいると、

 「ちょっと待って、落ち着いて、中屋さん」

 慌てたように言いながら、席を立った店長さんの手に、両の肩を掴まれて。

 驚いて、固まってしまったわたしの手から、そっとマグを取り上げてしまうと、

 「えーと、何か色々と誤解があるみたいなんですけど、中屋さん、しろくろのブログ、今朝って見ましたか?」

 「え?……見てない、です」

 その言葉に、にわかに嫌な既視感が沸き上がる。

 もしかして、と思う間もなく、店長さんは眉を上げると、軽く息をついて、

 「やっぱり……じゃあ、昨日、サーバが緊急メンテに入ってたのは」

 「あ、それは、知ってます」

 昨日は、いつも通りの夜九時過ぎに見ようとしたけれど、サーバメンテナンス中、との表示が出たので、残念に思いつつも、早々に眠ってしまったのだ。

 そのせいか、大変早くにすっきりと目覚めて、身支度にも時間を掛けられたのだが。

 「サーバ落ちは全くのイレギュラーだったんで、朝に更新したんですよ、ほら」

 そう言いながら、店長さんは自身のスマホで、最新の記事を開いて見せてくれた。



 臨時休業のお知らせ(午前のみ)


 店主です。

 本日午前の営業(十一時~十三時)は、諸事情により

 お休み致します。

 午後からの営業は、通常通りとなります。

 足元の悪い中ですので、どうぞお気をつけてお越しください。



 ……また、やってしまった。

 読み終えた瞬間、もう、恥ずかしさといたたまれなさで、座り込んでしまいたくなって。

 「もう、やだ……なんか、今日はめちゃくちゃ、失敗ばっかり」

 こらえきれない泣き言が漏れて、それも情けなくて。

 好きな人に、変なところばかり見せてしまったことが、嫌になるほど身に沁みて。

 逃げ出したいくらいなのに、動けずに俯いたきりでいると、小さなため息が聞こえて、思わず身を竦める。と、

 「……仕方ないな、もう」

 どことなく優しい声がして、大きな手が、頭をそっと撫でてきて。

 宥めるように数度、そうしてくれていたかと思うと、

 「中屋さん、落ち着いたらでいいですから、あとでスマホ見といてください」

 思いがけない台詞に顔を上げると、店長さんは何やら手にしたスマホを忙しく操作していた。その指の動きが止まって、間を置かず、バッグの辺りから聞き慣れた着信音が響く。

 わたしに、メールが届いたのだ。と、いうことは、

 「プロフィールカードのアドレス、失礼ながら使わせてもらいました。これから、臨時休業の時は、必ずお知らせしますから」

 「え、でもそんな、ご面倒を!これからちゃんとこまめにチェックしますから!」

 これまで、迷惑しか掛けていないのに、わざわざお知らせいただくなどとは、恩を仇で返すようなもので。

 そう伝えると、店長さんは顎に手を当てて、んー、と短く唸って。

 「面倒じゃないですよ。元々中屋さんのせいでもなんでもないですし、それに、まあ……」

 言葉を切って、困ったように眉を寄せると、すっと手を伸ばしてきて。

 「……そんな泣きそうな顔されたら、少しはえこひいきもしたくなるでしょう」


 その指先が、つい、と滑るように、頬を撫でてきて。

 まるでからかうように、軽くつまんだりもして。


 と、微妙な雰囲気を切り裂くように、急激にエンジンをふかしたような爆音が響いて、わたしは音の方へと目をやった。

 見れば、掃き出し窓の向こうに、車体に青い文字で『曽根工務店』と書かれた、白の軽トラックがガタガタと揺れながら、庭の奥まで入ってくるところで。

 「……えーと、臨時休業の原因が来ましたんで、中屋さん、良かったらここで待っててください」

 店まで送りますから、と言い置くと、店長さんはスリッパを鳴らして、足早にリビングから出ていってしまった。

 やがて、玄関の扉が閉まる音が鋭く飛んできて、ようやく我に返る。


 ……びっくり、した。

 だって、あんなの。


 そう長い間ではなかったはずなのに、幾度でも鮮明に思い返してしまえそうで。

 千穂の感じた狼狽が、今は手に取るように分かる気がして、わたしはひとり頬を染めた。

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