チャイムと微熱

津田:

 料理をしたことがあるか、と言われれば、正直言って、ない。

 俺は実家暮らしで、帰れば母親が作った飯が待っているので、作る必要がなかったし、そもそもどこからどう手をつければいいのか、よく分からなくて。

 包丁を握ったこともない、というのはさすがにないけど、それもたまたま、学生時代に家庭科の調理実習があったから、どうにかクリアしている、というだけのことだ。

 だから、こうしてちゃんとしたレシピが用意されているとはいえ、マジで作れる人ってすげえ、と思ってしまうわけで。

 「津田くん、大丈夫?卵割れる?」

 「だ、大丈夫っす!」

 背後から掛けられた小倉さんの心配そうな声に、俺はすかさずそう答えたものの、とりあえず出してきた小さなボウルを前に、思いっきり躊躇していた。

 なんか、力加減に全然自信がなくて、失敗するんじゃねえの、っていうのが怖くて。

 出汁はもう、中屋さんがあらかじめ作っていってくれたものがあるし、ご飯はレンジであっためてある。葱は、気が付いたら日置さんがさっさと切ってて、何気に二人並んで、あれこれやりとりしてたのが、ちょっと新婚さんみたいで。

 「あーもう、超うらやましい……」

 っていうか、あの人たち既にすっげえラブラブに見えるんですけど。

 もうどっちか一押しすれば、あっさり引っ付きそうだと思うんですけど、マジで。

 その様子を思い出して、思わずため息交じりに呟くと、ふっといい香りがして。

 「こら、お鍋沸き過ぎになるでしょ?」

 いつの間にか隣に来ていた小倉さんが、軽く叱るような調子でそう言うと、吹きこぼれ寸前のところでコンロの火を落として、俺を見上げてきた。

 「もう、ご飯入れちゃっていいから。煮詰まると美味しくなくなっちゃうし」

 「……了解です」

 ああ、なんか、俺もうこれだけで何もかも報われた感じ……

 絶妙な身長差にありがとう!とか心の中で叫びつつ、俺はここぞとばかりに小倉さんをじっと見返してしまった。

 基本的に全部俺好みなんだけど、中でも一番好きなパーツが大きめの瞳で、それでこうたしなめるように言われると、覿面に弱い。それに、俺がやります、って言った以上は、絶対余計な手出しはしないで見ていてくれるとこも、仕事でのことと同じで。

 と、ふいに口元に手を持って行った小倉さんが、小さく咳き込んで。

 「大丈夫ですか?まだ座っといた方がいいんじゃ」

 「少しなら平気。熱もかなり下がったし、それより見てないと、君が怪我しそうだから」

 「……言い訳しようもないっすね」

 俺はさすがに苦笑すると、気を引き締めて作業に取り掛かった。確かに、熱を出した日よりは遥かに顔色もいいけど、病み上がりの彼女を長く立たせとくわけにもいかないし。

 ご飯を入れる時には塊を落として出汁が飛んだり、卵を割る時に、案の定黄身が潰れて砕けた殻まみれになったりしたものの、なんとかフォローもして。

 ようやく、流し込んだ溶き卵が固まって、ちゃんとそれっぽいものが出来上がった。

 と、一人分の小さな土鍋から上がるいい匂いにそそられて、また俺の腹が派手に鳴る。

 慌てて手で押さえるものの、そんなことで止まるわけもなくて。

 すると、小倉さんが小さく声を上げて、笑って。

 「ごめん。もう遅いもんね、先にちょっと食べる?」

 「いや、そんなわけにはいかないっすよ!ちゃんと日置さんたちが帰ってくるまで」

 そこまで言った時、さらに細く長く、どうにも切ないような音が響いて。

 「……無理しなくていいよ?」

 「はい……雑炊は置いといて、なんか食わしてもらってもいいですか」

 これに手をつけたら、間違いなく空にしかねないくらいの空腹に、俺はあっさり前言を撤回してしまった。……とりあえず、蓋閉めとこう。



 それから、小倉さんの指示で、壁際に寄せてあった長いベンチチェアを持って来て。

 テーブルを挟んで、ソファと向かい合わせに並べたそれに座って、俺は出されたチーズケーキをもりもりと食べていた。丸くて小さい、見た目はタルトみたいなレアなやつで、甘すぎなくてかなり美味い。どっさり実家から送られてきたもののうちのひとつだそうだ。

 あまりにも腹が減っていたせいで、通算五口ほどで一個を食べ切ってしまう。と、

 「気に入った?二個だけ残しといてくれたら、好きなだけ食べていいよ」

 「ほんとっすか!?じゃあ遠慮なく!」

 笑いながらそう勧めてくれるのに、いつものノリで返してしまって、ちょっと後悔する。

 こんなことで彼女が社交辞令を言うようなタイプじゃないのは分かってるけど、なんか我ながら、すごいガキみたいで。

 そんなことを考えつつ、手元のマグに目を落としていると、ことん、と音がして。

 顔を上げると、手にしていた可愛い桜柄の湯呑みを、テーブルの上に置いた小倉さんが、どこかためらうように口を開いた。

 「その、なんかごめんね。津田くんが心配してくれてるのは、分かってたんだけど……色々みっともなくて、見せられる感じじゃなかったから」

 「小倉さんが謝ることじゃないっすよ。それに、そのへんは二人にも、めっちゃ叱られましたから」

 あの後、日置さんに車で送ってもらうことになって、その道中で日置さんは容赦なく、中屋さんは説得するように、俺の暴走を注意してくれて。

 特に、部屋が荒れてたり(どこが荒れてるのか、マジ全然分からなかったけど)風邪でお風呂にも入れていない状態などは、女子なら誰にも見せたくないくらい恥ずかしい、と言われて、そんなもんなのか、とあらためて気付かされて。

 自分なら男だし、むしろ好きな人が見舞ってくれるとか言われたら、例え鼻水垂らしてようが、めちゃくちゃ幸せだろうな、って思うし。……まあ、掃除はすると思うけど。

 「それに、小倉さんがどんな格好してようが、好きなものは好きですし」

 何気なくそう言って、少し甘めのコーヒーを口に運ぶ。

 スティックタイプのやつって簡単でいいよなー、結構美味いし、などと思いつつも飲み干してから、あまりにも周囲が静かなことに、ふっと気付いて。


 あ、やばい。

 今、めちゃくちゃ素で口からだだ漏れになってた。


 焦って顔を上げると、驚いたように大きく目を見張ったまま、硬直していた小倉さんが、目に見えて、びくりと身を震わせて。

 「あ、えっと、その、今のは」

 本気で、と続けかけた時、俺の視線を避けるように、彼女は、ふい、と顔をそらして。

 「……本気でどうでも良かったら、そもそも家に入れないし、そんなことも気にしないじゃない」

 ぽつりとそう零すと、俯いたその頬が、ほんのりと朱に染まっていって。

 その姿に、どうしようもなくぼうっと見とれつつも、くれた言葉の意味を理解した途端、なんかこう、ぐわーっと色んなものが溢れてきて。

 「小倉さん、あの、俺」

 勢いのままにベンチから立ち上がって、きちんと告げてしまうつもりで息を吸い込む。

 と、彼女が顔を上げようとした時、さえぎるように軽いチャイム音が鳴り響いて。

 「……えっと、開けてくる、から」

 「……いえ、俺が行きます」

 腰を上げかけた小倉さんを制して、俺はそのままくるりと踵を返すと、無言でインターホンへと向かった。


 ……狙ったわけじゃないって、分かってる、分かってるけど!


 内心で思いっきり歯噛みしながら、通話ボタンを力いっぱいに押す。

 と、小さなモニターには、いかにも仲良さ気(俺視点)に二人並んでいる、日置さんと中屋さんがぱっと映し出されていて、俺は色んな意味で、深々とため息をついた。




千穂:

 疲れている自覚はあったし、休むタイミングが上手く計れなかったのは、自分のせいだ。

 単身なのだから、家庭のある人よりは余程融通は利くし、そもそも社会人である以上は、自己管理が原則となるわけだから、無理を重ねる前にどうでも調整はするべきなのだ。

 だけど、それでも弱っている時に、こうして頼らせてもらえる相手がいる、というのは、やはり有難いもので。

 「よし、全部干し終わったよ!こんな感じで大丈夫かな」

 綺麗に空になった洗濯カゴを抱えて、どこか満足そうにリビングに戻ってきた一花に、乾いた食器を棚へと片づけていた私は、ふっと笑みを返すと、

 「全然いいけど、なんでそんなドヤ顔なの?」

 「え、そんな顔してた!?だって、シーツとか我ながらぴしっと干せたかな、って……」

 赤くなってベランダの方を振り向いた、その視線の先には、確かに皺ひとつない、淡いベージュのシーツが夜風に揺れていた。几帳面な性格が出ているように、パジャマも他の何もかもが、きっちりと等間隔に干されていて、誰も文句のつけようもないくらいだ。

 幸い、今晩から明日に掛けては晴れの予報が出ているから、問題なく乾くだろう。

 しかし、状況が状況とはいえ三日分も洗濯物を溜めた上に、人に干して貰うとか……

 リビングはほぼ使ってなかったから、なんとか誤魔化せたけど、寝汗が酷かったから、寝室なんかぐちゃぐちゃだったし、着替えもローテ出来なくなりそうなくらいで。

 情けないなー、と苦笑しつつ、こんな面倒事を頼んだというのに、それでも至って機嫌良さげな一花に、素直に礼を返す。

 「ほんと、ありがと。今度ランチでも飲みでもなんでもおごるから」

 「うん、行き先考えとく。あ、一緒に快気祝いもすればいいよね」

 「大げさだって、入院とかじゃないんだからさ。それにどっちかっていうと津田くんの方でしょ、エグい状態だったのって」

 その内容を思い返して、私は思わず眉を寄せた。というのは、随分やつれた様子の彼が復帰してきてからすぐに、いかに大変だったかを周囲に話しまくってくれたからだ。

 一花も私も、もちろん四階フロアの人たちも、既に発症から寛解までの一連の状況を、逐一微に入り細を穿つ描写で聞かされたから、『こんな時だけ担当らしい能力発揮すんな!』と、池内さんにはたかれていたけれど。

 まあ、今回だけは冗談抜きでキツかったみたいだから、同情はされてたみたいだけど。中里くんなんて、怖くてもう口に出来なくなりそうです、って言ってたし。

 「じゃあ、三人で企画しようか?でも、それでなくても津田くん、二人で行きませんか、って、すぐに誘ってくるんじゃないかな」

 「……そこは、変な気を遣わなくていいから」

 一花にしては珍しく、ちょっとからかうように言われて、思わず返答が遅れてしまった。

 反射的にさっきのことを思い出して、何か察したとか、それで探りを入れてるのかな、とか思ったけど、そういうタイプでもないし。

 一花と店長さんが一緒に上がってくるまでには、それなりの時間があったから、暗黙の了解という感じで、彼も私も何事もなかったように振る舞ってたつもり、だったんだけど。

 ちなみに、今は男二人で、マンションの前の道に停めた店長さんの車の元へ行っている。津田くんと一花を順に送ってくれるというので、ナビのルート設定をしているのだ。

 そういえば、店長さんにも色々とご迷惑を、と頭を下げたら、笑いながらあっさりと、


『いやまあ、行きがかり上、とても捨て置けなくて』


 そう言って、見上げた一花に向けた表情が、なんか、どことなく甘くて。一花も一花で、ほんの少し、恥ずかしそうに赤くなってたし。

 どうしたのかな、と思って、隙を見て津田くんにも聞いてはみたけれど、あからさまに話題をそらされたし。……けどまあ、とにかく。

 「ていうか、私も店長さんに迷惑掛けちゃったから、また四人で行けばいいんじゃない?一花だって、一緒の方がいいでしょ?」

 なるべく軽い言い方で、さらっとそう付け加えてみると、一花は一瞬、目を見開いて。

 それから、うろたえたように俯くと、みるみる頬を赤くしていって。

 あまりにも分かりやすい反応に、驚くより先に心配になって、私は声を掛けた。

 「一花、なんかあったの?ごめん、やだったら、何も言わないでいいから」

 「……ううん、嫌とか、そんなことはないんだけど」

 微かにかぶりを振った一花は、どう言ったものか、しばらく考えていたようだったが、ようやく顔を上げると、

 「また、ゆっくり話すから。今は、なんていうか、全然纏まってなくて」

 「……分かった」


 それはもう、一も二もなく頷かざるを得なくて。

 だって、この子のこんな表情、初めて見たし。


 試しにちょっとだけつついてみようかな、などと思ってたことを反省したくなるくらい、どうにもいじらしい感じが伝わってきて。

 と、準備が終わったのか、しんとしていたリビングに、チャイムが響く。

 私は一花の髪に手を置くと、慰めるように軽く撫でた。何もしなくとも、いつもふわっとした彼女のそれを、ぽんぽん、と叩いてみせると、

 「出るから、帰る支度してて。ほら、カゴなんかそのへんにほっとけばいいし」

 「うん、でもすぐだから、ちゃんと仕舞ってくる」

 小さく微笑むと、一花は言葉通りに、すぐさまお風呂場の方へと向かった。

 私はインターホンの前に立ち、即座に応答してきた津田くんに短く返しながら、これはどうしたもんかな、などと考えていた。



 それから、わざわざまた上がってきてくれた店長さんに、後日のお礼を半ば無理矢理に(私が言う前に、津田くんが怒涛の勢いで押し切った)約束して。

 苦笑しつつも、どうにか受けてくれた店長さんは、一花に向き直ると、

 「じゃあ、帰りますか。中屋さん、一応ナビだけ間違いないか、確認してもらっといていいですか?」

 「分かりました。それじゃ、千穂」

 なんとか落ち着いた様子の一花に、うん、またねと返しつつ、少しほっとしていると、いきなり津田くんが焦ったような声を上げた。

 「あ、俺さっきのベンチ戻してないっす!日置さんたちは先行っててください!」

 「え、いいよ、そんなのあとでやっとくから」

 「ダメっすよ、力仕事なんかしちゃ!一瞬で済ませるんで、ほら!」

 何かオーバーアクション気味に腕を振ると、履いていた靴を蹴り飛ばす勢いで脱いで、リビングに再び踏み込んでいく。

 その様子を見送りつつ、あの子はもう仕方ないな、と諦めて、一花たちを送り出した。

 二人並んで、何かを話しつつ歩いて行く背中を、心配と興味が入り混じった気持ちで、少し開けたドアの隙間から見ていると、

 「あー、小倉さん覗きはいけませんよー!」

 完全に不意を突かれて、慌てて外開きのドアから身を離すと、派手な音を立ててそれが閉まる。人聞きの悪いことを、と思いながら鋭く振り向くと、予想より間近にいた彼に、するり、と腕を巻き付けられて。


 二度目のそれは、やけに優しい感じで、包み込むようで。

 ひんやりとしたコートの感触と、耳に落とされた熱が、妙に対照的で。


 「返事とかは、全然急がないんで。俺でいい、って思ったら、でいいすから」

 「……分かった」

 そう返した唇が、我ながら、情けないほどに震えている。

 顔も上げられなくなって、どうしていいかも分からなくなった時、ようやく津田くんは身を離して、俯いたきりの私の髪を撫でると、それじゃ、とだけ言って、帰っていった。

 と、肩から解けたストールが、ぱさり、と足元に落ちる。

 取り上げようとして、のろのろと身を屈めた私は、そのまま座り込んで、膝の上に顔を埋めた。

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