一月

飴と霍乱

 年末年始は、俺は猫どもを連れて、基本的に実家に帰ることになっている。

 大掃除や力仕事、果てはお節作りにまで参加させられて(調理に関する俺の腕は決して良くないというのに)こき使われる要員だからというのもあるが、元々猫用部屋、という名の広い納屋があるので、そこで過ごさせるのだ。特に、今年はアユタヤの怪我のこともあったから、面倒を存分に見られるこの体制をあらためて有難い、と思ったものだ。

 そして、例年通りに年も明け、四日、いつもの如く朝の十一時から、店を開けて。

 平穏に営業を重ね、アユタヤの足もすっかり完治した、という獣医のお墨付きも貰って、さらにしばらくした日。

 「……来てないな」

 カウンターの上に置いていたスマホを取り上げて俺はそう呟くと、メールの履歴を確認してみた。というのは、津田からの連絡がこれまでになく長く途切れているのだ。

 最終の日付は、年始におめでとうございます!といういつものノリのまま、職場の皆とお参り行ってきましたよ!という挨拶と報告だった。ちなみに、小倉さんは隣県の実家に帰省中なので、いずれにしても参加は無理だったらしい。

 そして、気付けば一月も半ばに入ったわけだが、何故か、中屋さんまで合わせたようにしろくろに来なくなってしまって。

 「……だからな、俺に訴えられても仕方がないだろ」

 午後の開店前の掃除を終えて、そうやってメールチェックをしているところに、白玉があからさまに不満げな鳴き声を上げながら、俺の背中によじ登ってきた。

 他の猫どもはといえば、カネルは店中を嗅ぎ回る勢いでチェックをしまくり、クロエは道側の窓に向かって伸びつつ肉球をハンコのように押し付けて、アユタヤは本棚の隙間に入り込んで新刊をひっかき、ストライプは玄関前で、何故かきちんと座って待機している。

 相変わらず皆が皆フリーダムだな、と思いつつ、チェックを終えて曲げた背を伸ばすと、落ちないようにか、白玉は肩まで上がってきて、さらには俺の頬を手で押してきた。

 「こら、眼鏡落ちるだろうが」

 さすがに危ないので、叱るように声を掛けると、うーなっ、というような声を上げる。これまで、中屋さんが来てくれる頻度はおよそ週一回ペースだったから、甘えさせて貰えなくて機嫌が悪いのは分からなくもない。彼女の元来の性格なんだろう、猫どもの様子をじっと観察しつつ、控え目に接しているから、他の四匹もかなり懐いているくらいだし。

 まあ、見る間に白玉が蹴散らしに来るから、一番接しているのが長いのはやはりこいつだが。それにしても、

 「……お礼も早く、渡したいところなんだけどなー」

 思わず、白玉に向かってそう話しかけてしまう。去年頂いた本は、しっかり店の蔵書用ハンコ(熊とみつばち謹製)を奥付に押して、本棚の目立つところに置いていたところ、彼女の狙い通り、お客様にもなかなかの人気だ。

 ぬいぐるみの方は、さっそくレジカウンターに飾ろうとしたところ、新たなおもちゃか、とすかさず猫どもの襲撃を食らいかけたので、結局俺の家に飾ってある。

 おかげで、ふと目に入るたびに、なんとなく照れくさくはあるのだが。

 と、この時間には珍しいことに、スマホが軽い着信音を鳴らした。

 先日せっつかれて入れた無料通話アプリが起動しているので、相手は今のところ家族かあいつくらいしかいないのだが、


 ……本当に津田かよ。


 嫌な以心伝心だな、と思いつつも応答してみると、やけに弱々しい声が耳に届いた。

 『あー、日置さんお久しぶりっすー……今大丈夫っすか?』

 「いいけど、なんだよお前その声。風邪でも引いたのか?」

 『いや、もっと酷い目にあったんすよーもー聞いてくださいよー……』

 いつも以上に情けない様子に、眉を寄せつつも聞いてみると、どうにも間抜けな話だった。四階フロアの新年会に参加したところ、出てきた鍋の牡蠣にあたったというのだ。

 「それ、ちゃんと加熱したんだろうな?よく沸騰してから一、二分とか言うだろ」

 『あ、そういや鍋に突っ込んでから一分くらいでしたー……たぶん』

 「……微妙なところだな。それでお前だけか、食らったのは」

 『えーと、さっさと食べた俺と中里だけです。他は大丈夫だったみたいなんすけど……日置さん、明日って定休日っすよね?』

 「予定通りだけど。どうした」

 前置きから何か頼みごとか、と思ったら、案の定そうだった。なんでも、職場の様子を見て来て欲しい、というのだが、

 『池内さんもチーフも、一週間は休んで治すのに専念しろ!って笑い飛ばしてくれたんですけど、絶対に迷惑かかってんなーって……それと、そのー……』

 「妙にもじもじすんな気持ち悪い。小倉さんか?」

 『はいー……一回くれて以来、全然メール来てなかったんで、心配で』

 「気を遣ってくれてるんだろ。どうせお前、常時マーライオンかトイレの住人で、見る暇もなかったんじゃないのか?」

 『同時もありっすー。あれ、めっちゃ的確な比喩でしたよ……』

 心底げっそりした様子で言ってくるのに、俺はため息をつくと、頼みを聞いてやることにした。もしかすると、このしわ寄せが中屋さんたちにも及んでいるのかもしれないし。

 ひょっとして彼女にも何かあったんじゃ、とは一瞬思ったものの、どのみち行った方が早いだろう。明日昼から行ってやるから、と確約をして、俺はともかく通話を切った。



 そして、翌日。

 一通りの猫どもの世話と、色々な買い物を済ませてから、俺はリーヴル長月に向かった。チャリは店の前に置いて、ぶらぶらと歩いていきながら、どこから様子を見たものか、と考えて、一番上の四階から降りてくればいいか、と方針を決める。

 正面の入口から入って、すぐ左手に、かなり長い上りと下りのエスカレーターが並んでいるので、そちらに向かいながら、俺はざっと一階フロアを見渡した。

 小倉さんは一階の総合担当(何が総合かというと、書籍以外に文具等も含むかららしい)のはずなのだが、週半ばの午後とはいえ一番混雑する場所だから、さっぱり姿が見えない。

 やっぱり当初の予定通りにするか、と大人しくエスカレーターに乗り込んで、やたらと緩慢なスピードのままに、ぼうっと上を見上げていると、

 「あ」

 「え?……あれ、店長さんですか!?」

 いいタイミングというか、悪いタイミングというか。

 あと少しで二階に到達、というところで、なんと下りのエスカレーターで降りてくる、中屋さんとかち合ってしまって。

 しかも、口元にはぴったりとしたマスクなどしているから、さっと心配になったが、

 「あ、あの、お久しぶりです!ええと、どうしよう」

 「いや、お構いなく!後ろ向いちゃだめですよ、危ないから!」

 余程驚いたのか、手にしたクリップボードを落としそうな勢いで振り向いてきた彼女は、俺の言葉に我に返ると、慌てて前に向き直って、そのまま無事に下まで降りていった。

 ……とりあえず、元気そうなようで、良かった。



 それから、一階に連絡用ボードを届ける、という要件を済ませた中屋さんに、また二階フロアへと並んでエスカレーターを上りながら、俺は津田から連絡が来た件を話してみた。

 すると、中屋さんはほっとした様子で、

 「わざわざお知らせ頂いてすみません。確か、今日で連絡あった日から六日目ですから、随分回復してきたんですね」

 「六日って、そんなに経つんですか」

 頷いた中屋さんが話してくれたところによると、まず、四階フロアの宴会があった日が一月の九日。十日にアルバイトの中里くんが発症、同じ日の夜に津田が発症、という流れだったそうで、聞くところによると津田の方が酷い症状だった、らしい。

 「四階が、ちょっとだけパニックになっちゃったんですけど、幸いというか、職場には感染は及ばなかったので」

 常日頃から手洗い・うがい・消毒・感染予防を全社で心がけていたおかげで、シフトの調整を早急に行い、念のため参加者の体調チェックをすることでおさまったそうだ。

 「ああ、それでマスクなんですね。中屋さんまで風邪引いたのかと思いました」

 「大丈夫です、今のところわたしはなんともないですから。それと、千穂なんですけど、池内さんも一緒に、さっき社内研修に入っちゃったばかりで……」

 俺がわざわざ切り出すまでもなく、津田の意図を察したんだろう中屋さんは、すまなさそうに言ってきてくれた。さすがというか、なんというか。

 そう話してくれたところで、二階に辿り着く。とりあえずの目的は九割方達したので、せっかくなので、蔵書を増やす名目で、絵本売り場に案内してもらうことにした。

 とはいえ、彼女は仕事中だから、あまり俺ばかりに時間を割かせるわけにはいかない。ごく手短に、以前頂いた本が、おかげさまで好評であることを伝えてから、

 「ところで、中屋さん、最近お休みはないんですか?」

 どうにも白玉が拗ねて参ってます、と、冗談めかして言ってみると、中屋さんは困ったように眉を下げて、

 「それが、いきなりお休みになっちゃう方が連続で出ちゃって。この時期は、ある程度覚悟してるんですけど」

 社員、アルバイトのみならず、お子さんがインフルエンザ、という方も出ているそうで、どのフロアもばたばたとしているらしい。……このへんは、どこの職場も一緒だな。

 なんとなく昔のことを思い返している間に、ふと何か思いついたように、俺を見上げた中屋さんは、ごそごそとエプロンのポケットを探ると、はい、と手を差し出してきて。

 「……飴ですか?」

 ころん、と、俺の手のひらに転がしてくれたのは、個包装の飴だった。透明な袋には、琥珀と言うよりはやや薄いような色合いの、丸っこいものが入っている。

 思わず光に透かすように持ち上げてみると、中屋さんは頷いて、

 「はちみつの飴です。少し生姜も入ってますけど、喉に良く効くんです……あ、かなり甘いですけど、平気ですか?」

 「大丈夫です。酒よりは甘いものの方がまだ好きなんで」

 「良かった。それ、わたしの冬のお守りなので、ご利益あると思います」

 店長さんも風邪引かないように、と言って、中屋さんが笑ってくれた時、レジの方からぱたぱたと足音が近付いてきた。

 間を置かず、オレンジのニットにジーンズ、それに店のエプロン、というラフな格好の若い女の子が、棚の間からひょい、と顔を出してくると、

 「すいません中屋さん、定期購読の件なんですけど……って、うわ、ごめんなさい!」

 「あ、いいですよ、俺の用件は済んだので」

 接客中だと思ったのか(まあ、一応そうだけど)、慌てた様子の女の子に俺はそう言うと、中屋さんにあらためて礼を告げて、それじゃ、と手を上げる。

 と、丁寧に会釈を返してくれた彼女は、さっきの女の子に続いて、一度は棚の向こうに姿を消したけれど、どうしたわけか小走りに戻ってきて、

 「あの、なかなか予定がつかないんですけど、必ず会いに行きますから!」

 それだけを急き込むように俺に告げると、すぐに踵を返して去っていってしまった。


 ……なんか、主語が見当たらない分、変に困るんだけど。


 他意はない、と分かっているものの、ああも真っ直ぐにぶつけられると、誤解しそうで。

 とりあえず、建前のようなそうでないような、よく分からなくなった目的を果たすべく、俺は黙って本棚に手を伸ばした。



 その夜、職場訪問の顛末を、一応津田に連絡したのだが、

 『えー!?小倉さんに会えなかったんですかー!?』

 昨日よりはさらに回復したのか、耳に刺さるような声に俺は顔をしかめると、

 「さすがに研修が終わるまで待ってられないだろ。それにちゃんと状況は聞いてきたんだから、文句言うなよ」

 『まあそうっすけどー……ずるいっすよーなんか日置さんだけいい思いしてー』

 「……お前こそ、もう調子良くなりました!とかって小倉さんにメール送るなりすればいいだろ。ていうか、それだけ元気ならさっさと職場復帰」

 『あ、否定しませんね!やっぱ日置さんにもついに俺の呪いがとど』

 そこまで聞いて、もういいだろう、と俺はさっくりと通話を切ってやった。

 とにかく、明日はこれ以上拗ねないように、白玉によく言い聞かせておかないとな、と思いながら、手にしたスマホを脇に置くと、ソファから立ち上がる。

 と、パンツのポケットからかさりと音がして、昼間に貰った飴のことを思い出した。

 中身は、もうない。店を出てから、すぐに口に放り込んで、しろくろに戻った頃には、すっかり無くなってしまっていて。

 まだ舌に残るような、強い甘みを反芻しながら、俺は手の中の包みを見下ろしていた。

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