風邪とお見舞い

一花:

 一月も下旬に入ってくると、うちのような書店、という人の出入りの激しい仕事では、本当にマスクや消毒用スプレーを手放すことができない。

 もちろんお客様に移さないように、そして自らがシフトに穴を空けないために、万が一にも外から知らずウイルスや雑菌を持って来てしまう、というのを極力避けるためだ。

 だけれど、必要性は重々分かっていても、時々、息苦しくなることもあるわけで。

 「っはー!!俺マジで顔めっちゃくちゃ蒸れてますよもう!」

 「ほんとだね……真っ赤になってる」

 土曜日、午後十二時十一分。職場からほど近い喫茶店エクリュの、お昼時の混雑の中。

 どうにか三人分の席を確保して座るなり、マスクをばっと取った津田くんに、わたしはそう返しつつも、自分も外しにかかった。紐を掛けていたせいで、耳の後ろが少々痛い。

 外との温度差のせいで、こちらもそれなりに頬は赤いけれど、彼に至ってはまるで茹でられたように顔は赤くて、湯気が上ってもおかしくないくらいだ。

 出されたおしぼりで手を拭きつつ、津田くんは窓の外を見やると、軽く眉を寄せて、

 「にしても、小倉さん遅いっすねー。すぐ追いつくって言ってたのに」

 「在庫確認するところまでは見てたから、倉庫で時間掛かってるのかもしれないね」

 心配そうにそう言うのに、わたしは普段から良くあるケースを口にしてみた。

 今日は、久しぶりにお昼休みが三人とも同じ、という日だった。病欠の関係で(無論、津田くんの事件も含まれる)揃ってシフトが変更、変更の連続だったから、間髪入れず、皆で昼飯行きましょう!と津田くんから声が掛かって。

 しかしあいにく、千穂だけ仕事の流れで出遅れてしまったので、席取りのために二人で先に出てきた、というわけだったのだけれど、

 「あ、メール来た。今正面入口出たよ、って」

 「そうっすか!……あー、でも俺の方には来てない……」

 「そんなに落ち込むことじゃないよ。先に一緒に行ってるの、分かってるんだから」

 「そうなんすけどー、やっぱメールでもなんでもそれが一通でも何文字でも多く欲しいじゃないですかー!もっともーっとデレてくれてもいいと思うんですよねー!!」

 ……少しは近付いたのかな、と思ったけど、勘違いだったんだろうか。

 相変わらず隠す様子もなく、おおっぴらに思いの丈を打ち明けてきた津田くんに、反射的に頷きつつ、わたしはそんなことを考えていたが、突然、ぴくりと彼の眉が上がって。

 「すんません、ちょっと行ってきます」

 席を蹴る勢いで立ち上がると、こちらが何事か尋ねる暇もなく、店の入口へと向かっていく。その動きにつれて首を巡らせると、すぐに理由は分かった。千穂だ。

 丁度、入ってきたその様子を見ていると、明らかに普段とは違っていた。

 いつも綺麗に背筋を伸ばして歩いているのに、俯きがちで、ふらつくとまではいかなくとも、踏み出す足に力が入っていない感じだ。

 津田くんが近付くと、すぐに顔を上げて、ごめんね、というような仕草をしてみせる。

 途端に、すっ、と彼が厳しい表情になったのが見て取れた。有無を言わせない様子で、軽く肩を抱くようにして、千穂の身体を支えながらこちらにやってくる。

 それを見て、わたしも慌てて席を立ち、椅子を引いてじっと待っていると、

 「ごめん、ありがと、一花」

 「そんなのいいよ。とにかく、座って」

 力ない声を聞いて、津田くんが怒ったような顔になるのも無理はないな、と思いつつ、テーブルに手をつきながら、わたしはやっとのことで椅子に掛けた千穂を見つめた。

 わたし達と同様、きちんとマスクをつけていたから、遠目では分かりにくかったけれど、明らかに額や耳まで、かなり赤くなっている。

 「熱、高そうだね。もしかして、喉?」

 「みたい。朝は微熱くらいだったんだけど、昼前くらいから急に上がってきちゃって」

 答えながら、いかにも辛そうに額を押さえているのを見て、津田くんが口を開いた。

 「小倉さん、もう今日は研修とか約束とか、何にも予定入ってないっすよね?」

 「うん、ないけど……」

 「俺もです。とりあえずうちのチーフに連絡するんで、休んでください」

 調整して助っ人に出ます、と言いながら、素早く業務用の携帯を操作しはじめた。そうしながら、わたしの方に目をくれると、

 「あ、中屋さんはダメっすよ。二階、午後から読み聞かせイベントあるでしょ?」

 先手を取られてしまって、わたしはうっと詰まりつつも、大人しく頷いた。イベントは定例のものだし、三時からだから、少しくらいならなんとか、と思っていたのだが。

 その間に、わたしは千穂に尋ねつつ、自分のスマホで土曜日に空いている病院を探していた。幸い、彼女のかかりつけとは異なるけれど、最寄りの駅前の総合病院は、夕方からの診察を行っていたので、データを纏めてメールで送信する。と、

 「オッケーっす。一階のチーフにも連絡つきましたって」

 「……さすが、素早い」

 千穂のことになると、という言葉は呑みこんで(でないと彼女に怒られる)、満足そうに携帯を切った津田くんにそう言うと、すぐに真面目な表情になって、

 「飯食ったら、マジで即帰ってください。うち、今あんまし話題作出てないんで、割と余裕ありますし、ほんとにお互い様なんで」

 「……ありがと。津田くんがそれ言うと、タイムリーに説得力あるよね」

 「そのことは言わないでくださいよー!俺もう本気で死ぬかと思ったんですから!」

 小さく笑みを浮かべて、軽口で返した千穂に、いつものノリで津田くんが答える。

 どことは言えないけれど、二人の間の柔らかい雰囲気に、わたしはなんとなく安心して、ほっと息をついた。



 それから、津田くんはもの凄いスピードでご飯を平らげて、わたしに後を託すと、先に職場に戻っていった。ついでに、まさしく目にも止まらぬ速さで伝票を奪われてしまったので、後日に色々とおごり返したけれど。

 そういうわけで、わたしは千穂と一緒に一階チーフに声を掛けて、帰り支度を手伝ってから、ゆっくり寝てるんだよ、と送り出したのだが、

 「返事来ないっすねえ……あーもう大丈夫かなー」

 「まだ送ってから一分しか経ってないよ?気持ちは分かるけど」

 千穂が熱を出した日から、三日後。

 そわそわと落ち着かなげに腕を組みかえては、心配そうに呟いている津田くんと並んで、わたしはリーヴル長月の駐輪場、その隅で、千穂からの返事を待っていた。

 幸い仕事も大過なく終わり、今日は早番だったので、今からお見舞いに行ってもいいか、という中身なのだが、うっかり送っているところを彼に見つかってしまって、

 「あ、小倉さんのお見舞いっすか!?俺も一緒に行きたいっす!」

 「ちょ、ちょっと待って!とりあえず返事来てからだから!」

 凄い勢いで食いつかれてしまい、慌ててそう返して、こうして待っているというわけで。

 確かに、最近ずっと連勤ばかりで疲れが溜まっていたのか、なかなか熱が下がらないと聞いているし、心配なのはわたしも同じだ。

 ちなみに、彼は既に何度も『お見舞い行きます!』とアプローチしてきたそうなのだが、ことごとく断られたそうで、

 「あー、俺すっげえ熱で弱ってる小倉さんを甲斐甲斐しく看病したいのに!額のタオル替えてあげたり、おかゆあーんって食べさせてあげたりしたいのにー!!」


 ……そんなことを言われたら、余計に却下したくなるんじゃないかな、恥ずかしいし。


 想像するだに照れるようなシチュエーションを、堂々と言ってのけた津田くんを横目で見ながら、わたしは内心でそっとため息をついた。相変わらず、色々と全開だ。

 おまけに大きな声だから、道行く人々が何事かと振り返ってきているしで、もう。

 あの後、ふらふらながらもなんとか無事に病院に行けたらしい千穂から、急性気管支炎だった、点滴してもらったから大人しく寝てる、と連絡が来て。

 お見舞いに今日を選んだのは、当日は起き上がるのも大変だから、と固辞されたので、その翌日、頼まれたものを含めて持てるだけ持って行ったのだが、それらがそろそろ無くなる頃だから、と思ってのことだ。

 実は、お昼休みにメールを送ったのだけれど、今になっても連絡は来ていない。彼女は実家も遠いし、一人暮らしだから、それも気がかりな点で。

 と、手にしたスマホが光を放って、一気に手元が明るくなる。途端に津田くんが色めき立って、

 「来ましたか!?小倉さん、なんて!?」

 「こら、覗かない!今見るから待って!」



 From:千穂

 Re:遅くなってごめん


 ちょっと熱がぶり返してて、ずっと寝てた。

 今朝からまたふらふらしちゃって、動くの辛くて。

 少しはましになったかな、とは思うんだけど。

 食材とかは、実家から送ってくれたからいいよ、ありがと。

 ほんと、何考えてんのって量だから。

 まあ、心配してくれてるのは有難いんだけどね。

 

 それと、来てくれるんなら、お願いがあるんだ。

 片付けとか全然手が回ってなくて、それだけ頼んでもいい?



 ……やっぱり、調子悪かったんだ。

 わたしは簡単にメールの中身を津田くんに伝えてから、すぐに行くことと、彼も一緒に行きたがっている旨を返信して、しばし。

 ほぼ、間髪入れずに返ってきた内容は、こういうものだった。



 From:千穂

 Re2:ごめん


 一花、ひとりで来てくれる?

 津田くん、ごねるかもしれないけど断って。

 ほんとごめんね。



 返事を確認して、これはどう伝えようか、と考えつつもメールを閉じかけたところで、ふいに手首を掴まれ、腕を引かれて。

 驚いて顔を上げると、酷く険しい表情をした津田くんが、じっと液晶を睨んでいて。


 「……こんな時だってのに、なんで俺には頼ってくれねえんだよ……!」


 わたしが口を開く前に、まるで絞り出すような声を、噛み締めた唇から零す。

 あまりにも辛そうな様子に、振り払うのもためらわれて、どうしたものかとうろたえていると、突然、津田くんの頭ががくん、と前にのめって。

 急に手が離されて、わたしが少しよろめいたところを、伸びてきた腕に肩をしっかりと掴まれて、そのまま身体ごと引き寄せられて。

 「……お前、何やってんだ」

 今までに聞いたこともない、怖いくらいに低い声でそう言ったのは、店長さんだった。

 半ばわたしをかばうようにして立つと、叩かれたんだろう頭を押さえて呆然としている津田くんを、正面から睨み付ける。

 すると、我に返ったようにわたしと店長さんを見比べてから、風が起きそうなくらいの勢いで、彼は頭を下げてきた。

 「すいません!俺、なんか頭に血が上って!日置さんも……」

 「俺の方はどうでもいいから。大丈夫ですか、中屋さん」

 謝りかけた彼の言葉を即座に遮ると、全く事態についていけていなかったわたしの顔を、店長さんが覗き込むようにしてきて。

 と、平気です、と返そうと顔を上げた時、ふっと間近に目が合って。

 途端に、まるで抱くように肩に触れている手の温度に、今更ながら気付いてしまって。

 「あー!二人とも何こんな真剣な時にいちゃいちゃしてるんですかー!!ずるい!」

 「あっさり通常モードに戻るなよ!ていうかお前のせいで色々と雲散霧消しただろ!」

 あっという間に復活したのか、いつものテンションで放たれた津田くんの台詞に、店長さんもすかさず反応して、やっと手が離れる。

 

 ……でも、良かった。

 あのままじゃ、変に意識して、喋れなくなりそうだったし。


 こんな時だというのに、底冷えする寒さも吹き飛んでしまいそうなくらい、頬が熱い。

 少しでもそれを誤魔化してしまおうと、指先で両頬をぎゅっとつねりながら、わたしは津田くんから事情を聞いている、店長さんの背中をじっと見つめていた。



日置:

 風邪などを引いて身体が弱ると、ああ、所詮人間も動物だよなあ、としみじみと思う。

 要するに、手負いの獣の如く、俺は今弱ってるからとにかく引きこもってたいし構うなそっとしといてくれ、という気分になるからだ。そういう時に限って、良かれと思ってか、白玉やクロエに腹に乗られる、というような目に遭ったことのある身としては。

 だから、本当なら彼女の気持ちを斟酌して、気を揉まずにさっさと家に帰ってろと忠告したいところだったのだが、

 「あーもう落ち着かないー!!中屋さんまだっすかねえ……」

 「お前な、さっき入っていったとこだろ。それとそううろうろすんな、ただでさえ不審だってのに」

 少し前のカネル並みに、ぐるぐると小さな円を描くように歩き回っている津田に、俺は眉を寄せながらそう言うと、腕の時計に目を落とした。

 今は午後六時半を過ぎたところで、日が落ちるのも多少長くなってきたとはいえ、既に辺りは真っ暗だ。そんな状況で、オートロックの小奇麗な賃貸マンション、しかも、いかにも女性が好みそうな外観のその前で、車を背に男が二人、となれば怪しさ満載で。

 とはいえ、その見た目は淡いグリーン、ひたすら収納率重視の、屋根の高い軽。

 しかも、でかでかと店の名前にブログアドレス、さらには吉野カメラ店謹製の、特製猫ステッカー(五匹分)が所狭しと貼ってあるから、かなり緩和されているとは思うが。

 咎めるような俺の言葉に足を止めた津田は、ちょっと情けなさそうにうなだれると、

 「すいません。とにかくなんかしてないと、どばーって心配が溢れちゃって」

 「わざわざ彼女が話してくれる、って言ってるんだから、大人しく待ってろよ。ほら、着いたみたいだぞ」

 そう返しつつ手で示した先には、二階の廊下、手摺壁越しにこちらを見下ろしている、中屋さんの姿があった。

 立っているのは、各階五部屋あるうちの、一番奥から二番目の扉の前だ。

 思わず挙げた手を振ってみせると、中屋さんは、俺と津田に向けて小さく頷いてみせた。それから、インターホンだろう、軽いチャイムが鳴るのが聞こえてきて、しばし。

 えらく緊張した様子で、扉が開くのをひたすらじりじりと待っている津田を、見るともなく見ていると、かちゃり、と微かな音が響いて、外開きのそれからようやく小倉さんが姿を見せた。

 まだ喉がきついんだろう、きっちりとマスクをしたままで、部屋から漏れ出す明かりにさらされて見える限りの顔色は、どことなく青白い。

 二言三言中屋さんと言葉を交わして、ふいに目を見張った小倉さんは、こちらに視線を向けてきて。

 その途端、ぴくりと身体を震わせた津田が、止める間もなく声を上げた。

 「……小倉さん!」

 やけに真っ直ぐに響いたその声は、とにもかくにも切実で。

 それ以上何も言えないのか、必死な様子で彼女を見上げているさまは、口を挟む余地も見当たらなくて。

 と、軽く目を伏せた小倉さんが、心配そうに見ていた中屋さんに向き直った。何事かを告げているようだったが、声はこちらまで届いてこない。

 やがて、小倉さんが背を向けて、部屋の中へと姿を消す。瞬時に落胆した表情になった津田に、慌てたように中屋さんが振り向いてくると、

 「あの、津田くん、店長さんも一緒に上がってきてください!」

 「……え?俺まで?」

 「へ?……いいんっすか!?」

 二人揃って、どことなく間抜けな声を上げて、その場にぽかんと立ち尽くしている間に、くるりと背を向けた中屋さんの、ぱたぱたという足音が離れていって。

 結局、玄関まで降りて来てくれた彼女が、中から鍵を開けてくれるまで、俺と津田は、いきなりの展開に、馬鹿みたいにぼうっとしていた。



 それから、しばらく経って。

 「日置さん、プラゴミってもうないですか?」

 「こっちはないよ。それだけ溜まったんだから、とりあえずベランダに出して来い」

 「了解っすー。けど、結構分別ってめんどくさいっすねえ……」

 いかにも家ではやっていませんよ、というような、感心半分面倒半分な台詞を漏らした津田は、半透明のポリ袋の口を固く結びながら、ちらりと背後を窺うと、

 「しかし、まだっすかねえ……髪だけ洗うっていうから、すぐかなって思ってたのに」

 「病人なんだから、そうしゃきしゃき動けるわけないだろ。お前がその分キリキリ働け」

 蹴とばすようにそう言うと、俺は平たく潰したペットボトルをひとまとめにし、同じく袋の口をきつく縛る。中身は既に洗ってあったから、匂いもなく綺麗なものだ。

 ちなみに、津田の言葉通り、小倉さんは奥にある風呂へ、中屋さんは隣の寝室に入って、掃除とベッドメイキング中だ。そして俺と津田は、さすがにそんなことを手伝うのははばかられるので、こうしてLDKの片付けを請け負ったわけだが、

 「でも、ほんと女子の部屋って綺麗ですねー……なんかいい匂いするし」

 「……お前がここで言うと、かなりやばい発言にしか聞こえないんだけど」

 素で零しているらしい津田の台詞に、俺は思い切り眉を寄せた。

 まあ、それはともかく、確かに二人がかりでやるほど、片付けるものは見当たらない。

 家具も、壁に作り付けらしい棚に液晶テレビと何冊もの本、白の座り心地のよさそうなローソファに、床と同じ色目のダイニングテーブルくらいで、至ってシンプルだ。

 ブラウンのフローリングの床は、さっき床用のワイパーで一通り掃いて、足元のラグはベランダではたき、キッチンはと言えばシンクに水跡も残っておらず、目立っていたのはせいぜい天板の上に整然と並べられていた、かなりの量のペットボトルくらいのもので。

 どこかぽーっとした様子で、ポリ袋を手にしたまま部屋を見回している津田に、満杯になった袋を押し付けてやろうと顔を向けた時、そろそろと寝室の引き戸が開いて、

 「あ、もう片付いちゃったんですね。有難うございます」

 右手にワイパー、左手にコロコロ(店に置いてあるものと同じ)を持った中屋さんが、そう言って小さく笑ってくれたのに、俺も口元を緩めると、

 「お疲れ様です。何か他にあったら津田に丸投げしてください、特に大変そうな仕事を」

 「またさらっと酷いことをー!でも中屋さん、俺マジで買い出しでも何でもしますよ!」

 さあ命令してください!と、従順な犬めいた態度で指示を待つ津田に、中屋さんは軽く小首を傾げると、

 「それが、メールの通り追加でいるようなものはないんだよね……洗濯は今回してるし。ええと、じゃあそこの電気ポットのお湯確認して、少なかったら中身足してくれる?」

 「了解でっす!あ、そろそろおかゆとか用意した方がいいですかね?」

 「雑炊がいい、って言ってたから、お鍋にお湯も頼んどいていいかな。あとは……」

 続く言葉の前に、かたん、と硬質な音がしたかと思うと、奥の引き戸がからりと開く。

 瞬時に駆け出さんばかりに反応した津田が、それでもじっと我慢しているうちに、ようやく小倉さんが姿を見せた、のだが、

 「……あの、なんでジャージなんすか!?」

 何を期待していたのかは知らないが、半ば悲鳴のような声を上げる。それを、じろりと見やった小倉さんは、小さくため息をつくと、

 「君も、おまけに店長さんまで来てるっていうのに、パジャマで出て来られるわけないじゃない。もう、すっぴんは諦めたけど」

 だから一花だけにこっそり頼んだのに、と呟くように言った彼女は、津田の台詞通りにジャージを着ていた。ただし、さすがにスポーツ用のものではなく、グレーのスウェット生地で出来ているもので、フードと袖口、それと膝から下に白のドットが入っている。

 その上に、さらに肩からは冷えないようにか、アイボリーのストールを巻き付けていて、これも津田対策なんだろうな、などと考えていると、唐突に腹の鳴る音が辺りに響いて。

 「……すいません、俺です」

 ほっとしたからかな、と、顔を赤くした津田が、何故か律儀に挙手をしていて。

 それを見て、小倉さんは無言で額を押さえ、なんとなく顔を見合わせた俺と中屋さんは、ほぼ同時に苦笑を交わしていた。



 そこからは、中屋さん主導小倉さん決定で、仕事配分が即座に決められた。

 津田は纏めたゴミをベランダへ集約した後、無理に押し掛けたお詫びとして小倉さんの命令通りに全てを行うこと。

 そして俺と中屋さんは、その間に三人分の弁当と、お見舞いとして直々にリクエストのあった、リッチミルクアイスを購入してくること、となって。

 「しかし、津田をあの状況に放置して来て良かったんですか?」

 駅前方面へと並んで歩きながら、俺は中屋さんに、気になっていたことを尋ねてみた。

 今までの経過を考えると、俺と彼女というストッパーがあるとはいえ、いささか安心は出来かねるのでは、と思ったのだが、

 「大丈夫だと思います。彼も、千穂と顔を合わせて話が出来たほうがちゃんと落ち着くだろうし、その、変な暴発を抑えるのも必要かな、って」

 「……それは、確かに」

 表現を考えながらの彼女の言葉に、俺は頷きつつも、あの暴発の一端を思い返していた。

 たまたま出入りのペットショップから、新改良のキャットフードをサービスして貰えることになって、車でしろくろに運び終わって。

 さて帰るか、と自宅方面へ抜ける幹線道路に向かって駅前を進んでいたら、津田と中屋さんが並んでいるのを見かけて、それから。


 ……あんまり、津田をどうこう言える筋合いじゃないな、俺も。


 正直、道路脇に寄せてからの行動は、我ながら抑制がまるで効かなかった。

 手首を掴まれて、怯えたような彼女の表情を見た途端に、気が付けば走り寄っていて。

 「あと、最近なんですけど、津田くん見てたら、千穂のこと本気で好きなんだな、って思うことがたくさんあって……それで、応援っていうほどじゃないんですけど」

 「まあ、真剣なのは確かですね。発露のしかたに問題ありまくりとはいえ」

 まるで津田を庇うように聞こえるその言葉に、なんとなしにむっとしつつ、思うままに言ってみると、中屋さんは笑って。

 「そうなんですよね。だから、いいように転ぶといいな、って」

 「それ、悟られたらまずいですよ。中屋さんが味方についてる、って思ったら、あいつどこまでも調子に乗りそうだから」

 「万が一そうなったら、一階のチーフと池内さん仲良いから、絶対に千穂とかぶらないシフト包囲網作ります。……でも、やりすぎると泣いちゃうかも」

 そんな風に、主に津田を肴に他愛ないことを話しながら、駅前に着いて。

 微妙に分かりにくい位置にあった弁当屋と、夜道に白い光を投げかけているコンビニを順番にはしごして、目的の物を無事に入手して。

 同じ道を、再び並んで戻りながら、もうちょっと長い道行きでも良かったのに、などとぼんやり考えながら、街灯の下に姿を現したマンションに目をくれる。

 と、ふいにつん、と強く、左の袖を引かれて。

 驚いて顔を向けると、びくり、と身を震わせて、俺以上におろおろとうろたえた様子の中屋さんが、袖を掴んだまま俯いてしまったかと思うと、

 「あの、今日、助けてくださって、ほんとに有難うございました」

 はっきりとそう伝えてくれたあとに、声を落として、囁くように言葉をくれて。

 それから、ぱっと手を離すと、コンビニの袋をあらためて握り締めて、常にないような早足で歩き出す。

 その姿を、気付けば足を止めて、見送るばかりになりながら、内心で呟く。


 ……なんだ、あの人。

 不意打ちで『凄く嬉しかったです』とか、完全に反則だろ。


 しかも、この頼りない街灯の光でさえ、染まっていた頬の色を映し出すほどで。

 一撃ごとに食らうダメージが倍加してる気がするな、などと思いながら、俺は髪に手をやると、意味もなくくしゃくしゃと掻き回した。

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