探索と発見・2
家を出てからこの方というもの、一人暮らしの気楽さをこれでもかと満喫してきているから、一旦自分の部屋に帰れば、本当に必要最低限しか手間を掛けないことにしている。
つまり、靴は玄関スペースに置いたメッシュのシューズラックへ、一歩進んでバッグは即座にリビングのポールハンガーへ引っかけてしまうと、スマホを黒のサイドテーブルにごとん、と放り出して、ボルドーとブラウンのコンビが気に入っているソファにどかっと座り込む、そこまでが毎日の一連の動きで。
「……感心するほど動線に無駄がないな」
「だってー、帰ってきてまで余分に動きたくないんですよー……あーもう、疲れた」
そのスリッパどうぞー、と、まだ何故か玄関でこちらを窺っている様子の萩原さんに、腕を伸ばして、ふかふかしたグレーのそれを勧める。
自分専用の、これも色で一目で決めてしまった、ボルドーの同じスリッパを足先で振り回しながら、やっと傍までやってきた彼を見上げて、ちょっと眉を下げると、
「すみません、少ししたら復活しますから」
「それは構わないが……いつもこうなのか?」
軽く眉を寄せて、珍しく心配そうな表情を露わにしてくるのに、口元を緩めると、
「ご心配なく、今日みたいな日だけです。やっぱり、気を張ってたら疲れちゃうなー、ってことで」
だらしなくこうやってるのはいつものことですけどー、と軽口を叩きながら、どうぞ、と開いた隣を手で示す。他にソファがあればその方が良かっただろうけど、元より誰かを招くというより、自分の居心地を追求した部屋だから、あいにく、というわけだ。
今日は、新規の顧客相手の商談だった。これが取れれば、比較的大きな数が期待できる契約内容だったから、プレゼンにせよ何にせよ、気合いが入りまくっていたのと、初めて矢面に立つ役割を与えられたものだから、上手く行った途端に気が抜けて。
社に帰ってきて、二人で上司にあらためて成果報告と事務処理と、に追われて、やっと帰ってこれたのだから、まあ疲れもするだろう。
と、気を引き締めるためにひっつめていた髪を緩めたくなって、後ろ手に腕を回して、留めていたバレッタを外そうと動いていると、するりと違う腕が伸びてきて。
「じっとしてろ」
短く、耳元で響いた声と、ふわりと香るコロンのいい匂いがして、思わず目を細める。
すぐに、ぱちん、と小さな音とともに、黒く大きめのそれが外されて、何か解放されたかのように、さらりと髪が頬に流れてきて、ふっと我に返ると、
「……男の人がバレッタ外せるとか、慣れてますよね」
「やらされたことがあるからな。だが、やってやりたいと思ったのは今くらいだぞ」
……もう、またすぐに切り返してくるし。
しかも、やっぱきっちり効果的だし、むかつく。
内心を思い切り表情に出していると、萩原さんはからかうように薄く笑って、手の中にバレッタを落としてきた。艶やかな楕円に、天井からの光がつっと白く走る。
身を屈めていた姿勢から、そのまま隣に腰を下ろしてしまうと、軽く手招きをしてくるのに、あたしはかぶりを振った。
「だめです。今、最高潮に肌脂ぎってるし、ファンデ思いっきりつきそうだもん」
「どうせ、替える服だから気にしなくてもいいんだが」
「そこを考えてくれるより、こっちの都合も斟酌してくださいよー」
全く、何が悲しくて、好きな男に化粧だだ崩れの顔などわざわざ見せたいものか。
それだったらすっぴんの方がまだしもだ、と思い立って、あたしはさっさとソファから立ち上がると、
「
「コーヒー。出来たら、ホットがいいが……」
「分かりました。とっておきの淹れてあげますから、化粧落とすまで待っててください」
「それくらい、俺がやる。豆だけ出しておいてくれればいいから」
「送ってもらったのにそんなことさせられませんー。ミルも電動だし、あとはコーヒーメーカー頼みなんだから、大人しく座っててください」
そう言い切ってキッチンに向かうと、冷蔵庫から豆の入っている硝子の瓶を取り出して、とり急ぎ流し台の天板の上に置いてしまう。
と、背後に気配がしたかと思うと、ひょい、とそれを取り上げられて、
「フィルターは?」
「……そこの引き出しに」
「分かった。いいから、顔を洗ってこい」
苦笑交じりに、甘やかすように優しく言われて、うー、と低く唸ってしまう。
だって、あたしもだけど、この人だって相当疲れてるはずなのに。
体力だって、メンタルだって、キャパは絶対向こうの方が大きいだろうけど、でも。
「……せっかくだから、ちょっとくらい、楽にしてて欲しいのに」
ぽろりと内心を零してしまうと、萩原さんは、少し驚いたように眉を上げたけれど、
「それは、お互い様だろう」
すぐに、また余裕ありげな笑みを浮かべると、ほら、と促すように背中を叩いてくれる。
その仕草に、色々と余計なものを落とされた気がして素直に頷くと、足を進めざまに、あたしはフェイントのように振り返ると、その背中に一瞬だけしがみついてやった。
それから、顔を洗って、ついでにざっとシャワーも浴びて、さっぱりして。
ゆるめの、ブルーのオールインワンに着替えさせてもらってから出て来ると、ソファにもたれて、じっと目を閉じていた萩原さんが、ぴくりと身を震わせてこちらを向いた。と、
「……悪い、うっかり寝るところだった」
「いいですよ、そんなの。先に飲んでてくれて良かったのに」
やっぱり相当疲れてるんじゃない、と思いながら、その脇を通ってコーヒーメーカーを目指す。既にサーバーには丁度三杯分が出来上がっていて、芳しい香りがここまで漂ってきているのに、出されているカップを取り上げようとして、手を止めた。
そこに置かれていたのは、嫌に見覚えのある、白の地に、グレーのラインの入ったマグカップで。
「中身が中身だからな。うっかり忘れているのか、と思ったんだが」
「……忘れてました。今までは」
背中から飛んできた声に、苦い響きを抑えられないまま、あたしは短く言葉を返した。
さっさと捨てとけば良かった、と、何年も前の自分を恨みながら、唇を引き結ぶ。
そうしているうちに、いつの間にか傍らに立っていた萩原さんが見下ろしてくるのに、あたしは顔を向けないまま、マグを掴むと、手のひらに向けて中身を空けた。
細かな、白い光を弾きながら転がり落ちてきたのは、指輪だった。
ホワイトゴールドに、小さな石が三粒埋め込まれただけの、シンプルなものだ。
じっとそれを見つめ続けているあたしの髪を、大きな手がそっと撫でてきて、
「話すか、そっとしておくか、どっちが楽だ?」
「……聞いてくれた方が、いいかな」
くるりと身をひねると、傍にある腕に自分のそれを巻き付けて、そっともたれかかる。
「想像できると思うんですけど、これ、元カレに昔、貰ったんです」
二十歳の頃からそこそこ長く付き合ってて、盛り上がりも盛り下がりもそんなになくて、至って穏やかに過ごしてきて、そろそろ婚約とか話出るのかな、っていう年代になって。
なんかよそよそしくなる、連絡つかない、予定入れてもドタキャン、のフルコンボだし、どうも嫌な感じだな、と思ってたら、ビンゴどころじゃなくて。
「わざわざあの馬鹿、人の誕生日にぶつけてきたんですよねー、ネタばらしを」
曰く、お前は気が強すぎて可愛げがない、忙しいって断り過ぎ、むしろ今の彼女の方がほっとけなくて守ってやりたい、などなど、言い訳は次から次へと流れ出てきて。
「要するに『心変わりしたからお前ポイな』ってことでしょふざけんな、って言って、すぱっと放ってきちゃったんですけど……なんか、これだけ捨てるのためらっちゃって」
なにしろ生まれて初めて、仮にも好きな相手から貰ったものだし、アイテムがアイテムだから、なんとなく捨てるのも気が引ける、そんな気がして。
このカップだって、あいつが使ってたものだからって、それで放り込んでしまい込んで、ずっと忘れてた、つもりだったのに。
「なーんか……まだ、複雑ー」
未練があるとかは、正直欠片もないけれど。
あの時に投げつけられた言葉の棘は、しつこくしくしくと痛み続けているようで。
そんなことをぽつぽつと零しながら、しばらくそうしていたけれど、ふいに萩原さんが身をひねって、手を伸ばして来たかと思うと、あたしの手から指輪を取り上げて。
それから、空いた手でマグカップを掴んでしまうと、からん、とそれを放り込んで。
無言のまま、食器棚を開けると、また前の位置へと戻してしまった。
ぱたん、と、扉の閉まる音と、振り向いてきた萩原さんの、気遣うような視線を受けた途端に、ふっと、何か行き詰っていたものが動いた気がして、
「……有難うございます」
「いや。俺も、あまり見ていたくはなかっただけのことだからな」
「え?」
意外な台詞を聞いた気がして、反射的にそう聞き返すと同時に、すっと腕が伸びてきて。
これまでにされたものよりも、ずっときつくきつく、抱き締められてしまって。
髪に指を差し込まれて、撫でるように梳かすように、手を動かしてくると、
「そんな顔をさせるのが、俺以外の奴のせいなのが、無性に苛立って……それだけだ」
さらに、少しばかり切羽詰まったような声音で、囁かれてしまっては。
……もう、狙ってても素でも、なんでもいいや。
だって、もう、このひとにならなんだって、って、思っちゃってるんだから。
そんなことを思わされて、ちょっとばかり悔しくなって、反撃してやろう、と悪戯心がふっと沸き上がって。
こちらからも腕を回すと、ぎゅっと抱き締め返して、耳元に短く囁いてやる。と、
「……着替えがないぞ。それに明日、気付かれない訳がないだろう」
「ネクタイと下着だけ替えとけば、なんとでもなりますよー。なんだったら、コンビニ行ってきますけど」
ためらわずに乗ってくれるんだ、と少しばかりおかしくなって、笑いながらそう言うと、すぐに苦笑が返ってきて、
「からかってるのか、本気なのか、どっちだ?」
「どっちも。でも、ほんとに全然いいですよ」
これがベッドになりますし、と、後ろにあるソファを指し示すと、目を見開いたあと、おかしそうに、くくっ、と喉を震わせて。
「まあ、いいだろう。少しばかり、騙された気がしないでもないが」
分かっていながら、どういう意味ですか、と聞いてやろうと開きかけた唇を、少しだけ、無理矢理気味に重ねられて、長く、強めに、奪われるみたいにされて。
さすがに息が持たなくて、気が付くと、力なく広い胸にもたれかかっていて。
「……やっぱり、タラシっぽいですよね、健さん」
「その評価は、いい加減に訂正してもらいたいな」
しっかりとくるまれるようにして支えられながら、どうにかのろのろと声の方を向くと、萩原さんは、いつもみたいに、曖昧にも取れる笑みを浮かべることもしていなくて。
「こうしたいのは、お前にだけだ」
……だから、それが、タラシっぽいっていうんですよ。
酷く真摯な表情で、低めた声で、人の心臓が止まりそうなことを平気で言うんだから。
「もう……じゃあ、ずっと、そうしといてください」
ため息交じりになんとかそれだけを伝えると、さすがに、本日の気力は終了しました、という風情で、あたしはもう一度、萩原さんの胸に深々と顔を埋めた。
それで、翌朝、普通に二人して、パンと卵とサラダとコーヒーの朝食を用意して。
向かい合わせで、ぼんやりとニュースなど見つつ、欠伸交じりに黙々と食べていたら、唐突に萩原さんが口を開いた。
「
脈絡というものを、一切合切無視した台詞に、あたしは思わずコーヒーを零しかけたけれど、よくよく考えてみれば、結構合理的なんじゃないか、と思い至ってしまって。
家賃とかもったいないし、生活費はもちろん出すし、問題と言えば、ソファだけやっぱ持っていきたいかな、っていうくらいだし。
それになんていっても、一緒に、いたいし。
「……我が社って、同棲の規定ってなんかありましたっけ」
「俺が記憶している限りでは、特に思い当たらないな。配偶者の扱いとは異なるし……住居手当の問題くらいだろう」
「あと、さすがにうちの親には挨拶に来て欲しいんですけど」
「それは当然だろう。俺の方にも話は通すが、そっちの日程調整は任せてもいいか?」
「いいですよー……けど、お父さんひっくり返っちゃうだろうなあ」
などと、どんどん一足飛びどころの話ではなく、事態が進んでいってしまうことになりそうで。
……まあ、お互い適齢期とかの問題は全然なさそうだし、別にいっか。
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