ハートと写真・2

 バレンタインに向けて、店長さんに差し上げるべく、悩みながらもチョコを用意して。

 イベント当日の服も、猫の毛などの問題を考慮しつつ、なるべく頑張って可愛いものを選んで、千穂と池内さんに何かと励まされつつも、色々と気合を入れて。

 とりあえず、万が一伝えられずとも、ともかく必ず渡すこと、を最低限の目標に据えて、いよいよ当日を迎えて。

 幸いなことにうまく休日も取れて、よし、とばかりにしろくろへと向かったのだけれど、何かとんでもなく予想外の方向へと、どんどん流されていってしまって。

 「それでは次の方、どうぞ。どの子とご一緒が宜しいですか?」

 自分の中で『接客モード』と呼んでいる口調で、なるべくはきはきと、を心がけつつ、まずわたしがご要望をお伺いしつつ、お客様方をソファに案内して。

 「あ、全員ですね。それでは、まずお二人でお掛けいただいて……」

 そして、それを受けた店長さんと二人で、カップルです、というお二人の周りを整えて、猫たちを落ち着かせつつ、衣装も乱れのないように手を加えて。

 「はい、お二人ともよろしいですかー、それでははい、笑ってー!」

 臨時スタッフの敦子あつこさんがテンションも高くそう声を上げると、お二方のうち女の子はまさしく満面の笑みを浮かべ、隣の男性は、照れて頬を赤くしてしまわれて。

 すかさず、吉野さんの構えたカメラが、シャッター音を響かせる。と、

 「……はい、オッケーです!お客様、写真の方ご確認いただいて……あ、いいですかー、有難うございまーす!すぐにプリント出来ますので!」

 「こちらへどうぞー、申し訳ございません、一分弱お時間頂きますねー」

 最後には、プリントとレジ打ちをセットで受け持っておられる友永さんが、にこやかにお客様を送り出してくれる。ご希望なら、店の壁に掲げたコルクボードに、メッセージを添えた写真を、記念に飾って頂くこともできるのだ。

 実に綺麗に完成してしまった、一連の流れ作業の合間に、わたしが息をついていると、隣に立っていた店長さんが、すまなさそうにそっと声を掛けてきた。

 「すいません、せっかく来ていただいたのに、こんなことになって」

 「いいえ。お役に立てて幸いですし、それに、慣れてきて結構楽しいですから」

 そう返すと、まだ困ったようにだけれど、店長さんも笑みを返してくれる。

 実際、その言葉に嘘はなかった。就職してみてから気付いたことだけれど、こうして、お客様に楽しんでいただく側に参加する方が意外と向いているのかも、などと思ったりもしているし、やっぱり猫たちと触れ合えるのも、とても嬉しくて。

 ……それに、こうしている方が、変に緊張していなくて済むし。

 内心で隠れた本音を呟いていると、すぐに次のお客様がやって来られた。今度は四人のグループで、よくよくお伺いしてみると、お友達同士のご夫婦が二組、ということで、

 「それでは、皆さま全員と、お二方ずつで。かしこまりました、どうぞこちらへ」

 「クッションにはメッセージがそれぞれ入っておりますので、意味についてはこちらをご覧ください」

 綺麗にラミネート加工された『バレンタインメッセージ』のカードを、店長さんがそれぞれに手渡すと、特に女性からわっと歓声が上がる。

 その内容はといえば、こういうもので、今の関係に合わせて選んでいただけるのだ。


 Happy Valentine’s day!(ハッピーなバレンタインを!)

 You are my Valentine.(あなたは、わたしの大切な人)

 Please be my Valentine.(どうか、わたしの大切な人になって)


 それぞれ白玉、ストライプ、アユタヤの似顔絵が刺繍されていて、淡いパールピンクがとても可愛い。他に、ちゃんとクロエとカネルのものもあって、そちらは、艶やかな赤。ごくシンプルに、お店の名前と今日の日付だけだ。ちなみに、裏返せばメッセージなしの、猫たちの顔だけ、という風になっているから、お好きなように利用していただける。

 ……アユタヤバージョンだけは、とても勇気のいる内容だけれど。何より人前だし。

 そして、この趣向も見ていて楽しいけれど、何よりも猫たちの衣装が、凄く素敵だ。

 全猫がネームの入った、白いファーの縁取りの赤のマントを羽織っていて、あとは頭にかぶっているものが、少しづつ異なる。白玉は女王様めいた赤いハート付きのクラウン、カネルとクロエは同じものだけれど、体格に合わせたサイズの、王様のようなクラウン。

 そして、アユタヤとストライプは、少し濃いめのピンクのハート付きのティアラで。

 「ほんと、皆、可愛いなあ……」

 「……中屋さん、それ、白玉に聞こえないようにした方がいいかもしれませんよ」

 そう店長さんに間近で囁かれて、少しどきりとしながらも、慌てて口を噤む。

 というのは、今日お店に着くなり、わたしがいきなりしろくろのお手伝いをすることになったのは、彼女の不機嫌が原因だったからなのだ。



 バレンタイン当日の、午後三時半を過ぎた頃。

 「もう並んでる……凄いなあ」

 しろくろに向かって、駅の方から真っ直ぐに歩いてきたわたしは、常にない様子に声を上げた。店の前には、開店を待っている方のためなのだろう、いつもはない長いベンチが置かれていて、既に五人ほどが座っている。

 今日の開店は、午後四時となっている。さすがにイベントとなると、店長さんだけでは手が回らないので、撮影役の方のほかに、何人か臨時スタッフが来られるそうなのだが、その方々のご都合もあってのことらしい。

 ともかく、撮影イベントは時間限定でもあるし、待ちの方が少ないうちに並んでおこう、と足を速める。最後尾につこう、と店の入口前を通り過ぎて、二つ並んだベンチに近付くと、どこか見覚えのあるカップルが座っていて。

 「ええと、ここ、よろしいですか?」

 「あ、はいー、どうぞー……あれっ、前にお会いしたお姉さんですか?」

 顔を合わせるなり、そう返してきてくれたのは、栗色の髪の女の子だった。確か白玉やクロエの子猫時代を一緒に見させてもらった方で、小柄で目がくりくりとしているので、とても印象に残っていたのだ。

 そして、そのお隣は、あの時も一緒にいらっしゃった、背の高い黒髪の男性で。

 「座ったままで申し訳ありません。どうも、その節は、こいつが失礼を」

 「あ、いえ、そんなことは……楽しかったですし。今日は、やっぱりイベントですか?」

 「そうなのです!駅前のポスターがもう、なんとも可愛かったのでー!嫌がる副店長を引きずってきました!」

 副店長、ということは職場のお仲間なのかな、と思いつつ、わたしは彼女の言っているポスターを思い出した。実は、リーヴル長月の一階ブースにも貼ってあるのだ。

 ブログにも載っていたけれど、白玉を中心に、ハートのクッションに囲まれた猫たちが、思い思いのポーズを取っていて、毛色がそれぞれに映えて、とてもいい感じだった。

 ……あれ、そういえば、店長さんと一緒の画像は、どこにも使わなかったのかな。

 先日、『暴走したカネルに踏まれて送ってしまった』というそれは、保存しておくことのお許しをいただけたので、わたしのスマホの中だ。待ち受けにしようかと一瞬考えはしたものの、やはり見つかってしまうと恥ずかしいので、少しの操作で見れるようにしてある。

 時々、ふっと見てしまうのは、致し方ない。何しろ、一枚しかないのだから。

 そんなことを考えつつも、有難くベンチに掛けさせてもらおうと身を屈めた時、ふと、窓から店の中が見えて。


 ……店長さんだ。

 でも、どうして、白玉と睨み合ってるのかな。


 カフェゾーンで準備中、なのか、テーブルの上にきちんと座った白玉が、何かむっつり、という感じで、向かいの一人掛け用ソファに掛けている、店長さんと対峙している。

 そして、相対している店長さんはといえば、その手に白くふかふかとしたもので縁取られた赤い布を持ったまま、少し難しい顔で彼女を見つめていて。

 何かあったのかな、と様子を見ていると、こつん、と指先が硝子を叩いてしまった。

 その途端に、ぴくり、と耳を動かした白玉が、さっとこちらに顔を向けたかと思うと、わたしと目が合うなり、にゃあん、と一声鳴いて、天板を蹴って走り寄ってきた。

 「え、あの、どうしたの、白玉」

 彼女とは先週会って、たくさん遊んだから、こんな反応をされるとは思ってもみなくて、焦って硝子越しに宥めようと声を掛けていると、気付いた店長さんと、ふと目が合って。

 あ、というように口を動かして、それから慌てたように身をひるがえすと、レジの方へ走って行ってしまった。

 どうしちゃったのかな、と思っているうちに、がらりと引き戸の開く音がして、待っている方たちが、一斉にそちらを向いた。

 と、いつものエプロン姿を現した店長さんは、お客様に向けて丁寧に一礼をされると、

 「お待たせして大変申し訳ございません、只今鋭意準備中ですので、今しばらくお待ちくださいますでしょうか。それと」

 言葉を切るなり、真っ直ぐにわたしの前まで近付いてくると、すっと手を取られて。

 「こちらの方は本日の臨時スタッフですので、失礼致します」

 「……え?あの」

 一瞬、事態が把握できないでいるうちに、さりげなく繋がれた手を引かれて、そのままわたしは、店の中へと連れて行かれてしまった。

 促されて、先に三和土の上に入ったその後ろで、引き戸が閉まる音がして、思わず振り返る。すると、わたしと顔を合わせるなり、そっと手を解いた店長さんは、頭を掻くと、

 「すみません、中屋さん。勝手なことをして」

 「いえ、あの、何かあったんですか?白玉も何か様子がおかしかったし……」

 「それなんです。あいつ、何をどうしても落ち着かなくて」

 と、店長さんの声に反応したかのように、間仕切りの藍ののれんがさっと大きくめくれあがったかと思うと、彼女が姿を見せた。

 それはもう、半ば以上予想していたのだけれど、今日は駆け寄ってくるなり、わたしの足にすがりつくようにして身体を伸ばすと、まるで訴えるように鳴き続けていて。

 三和土に屈み込むと、すぐに膝の上に飛び乗ってきた白玉を抱き上げて、背中をじっと撫でてやる。そうしていると、幾分ましになったのか、鳴き声がやっとおさまった。

 気付けば傍にはクロエも来ていて、心配なのか、その周りをしきりにうろうろしていて。

 「わ……クロエ、可愛い」

 足元に座って、こちらを見上げてきたその姿は、もうそれしか出て来る言葉がなかった。

 ほっそりとした黒の身体に纏っているのは、ベルベットだろうか、手触りのよさそうな赤の布地に、白のファーで縁取られた、マント。

 それからなんといっても、頭にちょこんと乗せられた、クラウンだ。赤と金を基調に、上手く耳にかぶらないようなサイズで作られていて、首元の細いリボンで固定してある。

 マントと揃えたのか、頭に当たる部分にも白のふわふわがついていて、なんとも素敵で。

 じっと見ていると、ふいに腕の中の白玉が身じろぎして、きっと緑の瞳を向けてきた。さらには、抗議するようにまた鳴き始めて、ぎゅっとしがみついてくる。

 その様子に、やっとあることに思い至って、おそるおそる店長さんの方を見ると、

 「……ひょっとして、あの、これは焼き餅かな、って」

 「みたいですね。こいつが一番大きいから、衣装を着せるのが最後になったんですけど……他の猫どもが褒められてたから、拗ねたのかもしれません」

 その言葉に、やっとさっきの状況を理解していると、またものれんがふわりと開いて、見知らぬ男性が板の間に踏み込んできたかと思うと、白の混じった眉をひょいと上げた。

 「なんだ、日置の彼女か。白玉はもういいのか?」

 「え!?あ、あの、わたしはあの」

 「……吉野さん、彼女を混乱させるようなことを言わないでくださいよ」

 突然投げられた台詞に、うろたえるわたしの横で、疲れたように深々と息をついた店長さんがそう返す。と、男性はふん、と鼻を鳴らして、

 「もう他のやつらは準備出来たぞ。その嬢ちゃんに手伝ってもらうんじゃねえのか?」

 「あら、まあ。それはいいわねえ、どうにも男ばかりで華が足りないと思っていたのよ」

 そう言いながら、寄り添うようにその横に現れた女性は、強面という印象を受ける男性とは対照的な、穏やかな雰囲気の方だった。長い黒髪を肩からひとつに編み下ろしているのが酷く印象的で、お二人とも、おそらく両親と同じくらいの年回りと見える。

 まだ不満の声を上げているものの、やや大人しくなった白玉を揺すり上げるように抱き直すと、わたしは尋ねるように店長さんを見やった。と、小さく苦笑が返ってきて、

 「先に言われてしまいましたけど、中屋さん、すみませんがご助力いただけますか?」

 もちろん、そういうことなら否やはない。

 わたしはその言葉に、間髪入れずに頷きを返すと、白玉をぎゅっと抱き締めた。



 そういった経緯で、突如臨時スタッフに任命されてからは、とても慌ただしかった。

 吉野さんと敦子さんご夫妻、それから友永さんとあらためて引き合わされ、イベントの流れを把握して、エプロンをお借りしたその後は、全力で白玉を慰めて、可愛くして。

 とはいえ、さしたる苦労はなかった。立派な体格と綺麗な毛並みに、赤いマントとクラウンはこの上なく映えて、皆の注目を集めた途端、すっかり機嫌が直ってしまったのだ。

 それに、五匹が揃った姿は、もうとてつもなく可愛らしくて。

 「凄い……あの、本当にいただいてもいいんですか?」

 「店主がいいってんだから、構わねえよ。それに、撮ったのはどうせ俺だからな」

 本日、四回目の撮影時間を終えての、休憩中。

 広い厨房の奥を利用した、折り畳みのどこかオリエンタルな間仕切りの影に用意されたテーブルを、飲み物を片手に、わたしと吉野さんの二人で囲んでいた。

 現在、時刻は午後七時半を過ぎたところで、閉店まではもう少しだ。バレンタイン限定撮影サービスはもう終了したので、交代でお休みさせていただいているのだが、敦子さん手作りの美味しいサンドイッチまで出していただいて、とても有難い。

 しかも、今日撮られた写真を、こうしてすぐに手にすることが出来るなんて。

 「可愛い……それに、やっぱり格好いいですよね」

 普通に動いているところを見ているだけでもいいけれど、こうして瞬間を切り取られたものというのは、何か格別だ。レンズを通すだけで、捉えるもの自体が変化する気がして。

 「まあ、あいつらは人馴れはしてるが、獣だからな。牙も爪も含めて、色々魅力のある被写体ではある」

 カフェオレを口にしながら、吉野さんが呟くように言った言葉に、小さく頷く。

 あんな小さな身体からは想像もできない動きや、滑らかで柔らかい肢体を見ていると、飽きることがない。そのくせ、我儘だったり拗ねてみたり、甘えてみたりと子供みたいで。

 そんな猫談義をしながら、また一枚をめくる。と、他の写真の下に隠れていたそれは、ドレスアップした猫たちと、一生懸命に接客に励んでいる、店長さんで。

 「……すっかり、好きになっちゃったなあ」


 何気なくそう呟いて、自分の中に二つ、意味があることに気付いた。

 猫たちと、それから、店長さんと。


 「嬢ちゃん、今、あんたのアドレス分かるか?」

 唐突に投げられた声に、わたしははっとして顔を上げた。

 慌ててはい、と応じると、吉野さんは軽く身をよじって、パンツのポケットから、折り畳み式の携帯を取り出した。それから、アドレス帳を開いて、何故かわたしに示すと、

 「悪いが、ここに入れといてくれ。後でデータ送ってやるから」

 「え、でも、そんな」

 「心配しなくても、あんたとこいつらのやつしか送らねえよ」

 とっさに遠慮しかけたところに、そんな見透かしたような言葉をぶつけられてしまって。

 少しばかり、意地の悪い笑みを浮かべた吉野さんが、指先でとんとん、と写真を叩いてみせるのに、わたしは隠しようもなく真っ赤になってしまった。

 ……凄く小声だったと思うんだけど、なんという失態。



 そして、なんとか無事に営業時間を終えて、お客様を皆で送り出して。

 一通りの片付けと、猫たちにご苦労さまの意味で、ちょっと豪華なご飯を出してあげて、バレンタインイベントは盛況のまま、幕を閉じたのだけれど。

 「すみません、本当に……また送っていただいて」

 「いや、巻き込んだのはこちらですからね。それに、こんな遅くに女子一人で帰すとかありえませんし」

 そう言いながら、スマートキーを操作して、店長さんが助手席の扉を開けてくれるのに、お礼を返しつつ乗り込む。このグリーンの車に乗せていただくのは、これで三度目だ。

 シートベルトを締めながら、ナビの画面に表示されている時刻に目をやれば、もう午後十時半になっていた。ついさっきまで、皆さんと一緒にご飯を食べていたからだ。

 本当なら打ち上げという流れになるはずが、わたしが明日は早番なので、皆さんが気を遣ってくださったのだ。その代わりに、近々ね、と敦子さんに飲み会には誘われたけれど。

 それに、この状況は、本来の目標を達成するに当たっては、大変好都合で。

 「中屋さん、出ちゃって大丈夫ですか?」

 「は、はい!準備万端です!」

 わざわざ店長さんが声を掛けてくれたのに、思わずびくりと身体が跳ねる。

 ……我ながら、変な反応で、恥ずかしい。意識してしまうのは、もうどうしようもないけれど。

 じゃあ、出しますねー、と、気にした様子もなく、ハンドルを操作しているその横顔を、そっと窺いながら、わたしは自身のふがいなさを反省していた。

 というのは、あの状況だというのに、単なる客として訪れたところで、いったいどこにチョコを渡す隙などがあっただろうか、ということなのだ。

 おまけに、初対面の吉野さんにまでばれてしまって、身の置き所もないというか。

 そんなことを考えていたせいか、ついため息が漏れてしまって、

 「疲れさせて、すみません。俺の見通しが甘かったせいで」

 信号待ちのタイミングで、申し訳なさそうに言った店長さんに、わたしは顔を上げると、慌てて謝った。

 「ごめんなさい、そうじゃないんです。楽しかったですし、でも、あの、今のはひとり反省会状態というか」

 つい、津田くんがたまに言うフレーズを使ってしまうと、店長さんは眉を寄せて、

 「中屋さんが反省するところなんて、どこにもないですよ。おかげさまで、去年よりもずっと、お客様に喜んで帰っていただけたし、それに……」

 言葉を切ったところで、信号が青に変わる。時間が遅いから、幹線道路も混んでおらず、流れはスムーズで、後続の車も数台しかない。

 なんとなくサイドミラーを気にしながら、途切れた言葉の続きを待つようにしていると、間を置かず、見慣れた最寄駅が近付いてきた。藤宮までは三駅しか離れてはいないから、さすがに早い。

 踏切を越え、店長さんの家の方、つまりわたしの家に向かう道路でもあるのだけれど、傾斜のきつい坂を上り始めたところで、いつ、どう切り出そうか、と考える。

 やっぱり、降りる間際しかないよね、と、膝の上に置いたアイボリーのバッグに、確かめるように触れてみたものの、でも、なんて言えばいいのか、とぐるぐるしているうちに、最後の角を左折してしまって。

 もう着いてしまう、とうろたえかけた時、車がすうっとスピードを落とした。

 そのまま、家まではおよそ十メートルほどになる路肩に、静かに止まって。

 「あ、あの、有難うございます、店長さん」

 右手がエンジンを切ったのを見て、シートベルトを外しながらそう声を掛ける。

 と、何故か運転席に座ったまま、じっと前を向いている店長さんに、どうしたのかな、と視線を向けると、ハンドルに置いていた左の手が上がって、ぐしゃっと髪を掻き回して。

 「えーと……さっき言いかけたこと、なんですけど」

 「……はい」

 一拍置いて、そうだった、と思い出す。それに、の続きだ。

 どこか落ち着かなげに身じろぎしてから、思い出したようにシートベルトを外した店長さんは、もう一度ええと、と零すと、姿勢を正して、

 「その、無理矢理引き込んでおいて、何なんだって感じではあるんですが……滅茶苦茶楽しかったんです。皆、テンポ良くお客様を誘導してくれて、店全体にいい空気が出来て、おかげで猫どもも終始機嫌が良くて、だから」

 一息に言ってしまうと、ようやく、こちらに顔を向けてきて、

 「あれは、きっと中屋さんがいなかったら、出来なかっただろうな、って思ったんです」

 わたしの目を真っ直ぐに見据えて、告げてくれた言葉が耳に沁み込むまで、しばし。

 言い表せないほどに、嬉しいことを言ってくださったのだ、と腑に落ちるなり、何故かとても気恥ずかしくなってしまって。

 「あの、ただ、出来ることなら、お役に立てたらいいなって、しろくろも、猫たちも、店長さんもわたしには、凄く大事なので……」

 しどろもどろに言いながら、目を合わせるのに耐えられなくなって俯いてしまう。

 と、手元のバッグに手が触れて、今しかない、と思考が走って。

 深いそれの、一番奥にしまっておいた包みを取り出すと、勢いのままに渡してしまおうとしたところで、何かふと、とんでもないことを言ってしまった気がして、手を止める。


 ……今のって、好きです、って言ってしまったようなものなんじゃ。


 いやでも、池内さんが決定的じゃなければ確信できないかもって言ってたし、などと、ひとりおろおろとしていると、すっと目の前に、店長さんの両の手が伸びてきて。

 わたしの手にした包みごと、くるむようにして握り込んでしまうと、

 「……これ、俺にですか?」

 息がかかるほどの距離で、短く尋ねられても、何も返すことも出来なくて。

 促すように、指先が手の甲をなぞるようにしてくるのに、びくりとして頷きを返す。と、

 「中屋さん、手、緩めてください」

 宥めるような、どこか優しい声とともに、触れていた手が離れていって。

 自由になった自分の手を見下ろすと、言われた通りに、包みに巻き付けていた指を解く。途端に、店長さんがそれを取り上げてしまったかと思うと、その代わりだというように、小さなクリームイエローの包みが、ぽん、と手の中に落とされた。

 赤とオレンジの細くカールしたリボンで、可愛らしく飾られた巾着型のそれを目にして、戸惑いながらも視線を上げると、店長さんはすぐに目を合わせてきて、

 「むき出しですみません。これ、ずっと渡したかったんですけど、タイミングが悪くて。それと」

 ひょい、と、チョコの包みを目の高さまで持ち上げてしまうと、小さく笑って、

 「頂いてしまったので、ホワイトデー、お返しします。何倍でもいいですから、どこに行きたいか考えといてください」

 「え、あの、でも我が社では三倍返しは厳禁なので、ええと」

 「いや、俺が誘うのは社外ですから」

 「……そうでした」

 いきなりの展開に、思わず妙なことを返してしまうと、店長さんに即座に切り返されてしまった。……やっぱり、だめだ、混乱してる。



 その後、どうやって家まで帰ったのかも、なんだかふわふわとしていて、記憶が曖昧で。

 翌日、よくあれで出勤できたものだ、と思い返して、あることに気付いた。

 ……わたし、ちゃんともろもろのお礼とか、店長さんに伝えられてただろうか。

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