嫉妬と焦燥
俺の性格の根っこのところには、マイペース、という単語が居座っている。
そう言われて、ああ、そうかもな、と自分でも思ったし、何より今の生活に関しては、好きなことを好きなように、自分の裁量で何もかもを行える、という点が気に入っている。
だから、それを乱されることは正直な話面倒だし、淡々と波乱なく日々を過ごせれば、さしたる不満もない、とずっと思っていたのだが、最近、それが揺らいできたのを、日々思い知らされているところで。
「はい、今日はこちらの二冊ですね。ご確認宜しいですか?」
「大丈夫です。じゃあ、すいませんがこれで」
木曜日の昼下がり、リーヴル長月の一階フロア。
定期購読の雑誌が入った、出版社の広告が所狭しと載っているクラフトの袋を受け取りつつ、俺はレジカウンターに立っている小倉さんにカードを渡していた。
かしこまりました、とにこやかに応じて、素早くカードリーダーに通し、モニタで決裁内容を確認している姿も、随分見慣れてきた。この店の利用を始めたのは、開店してから早々なのだが、彼女はその当時ここの担当ではなかったそうだし、津田が入ってからは、例の如くうるさく騒いでいたから、なるべく避けていたのだ。
だが、それもひとまず落ち着くところに落ち着いたようで。
手渡されたレシートの署名欄にサインをしながら、俺はふと思い立って尋ねてみた。
「そういえば、今日、津田は来てますか?」
手元に目を落としながらなので、直接の反応は見えない。だが、言った瞬間にぴくりとカウンターに置いた手が震えるのを見て、まずかったかな、と思ったものの、
「……来てます。というか、たぶんご存知ですよね、彼のシフト」
「いや、さすがにシフトまでは把握してませんよ。大抵あいつから連絡が来るだけで」
こちらの営業は、水曜定休プラス都合により不定休、となっているし、状況はブログに随時アップしているから、それを見て、津田が適当にメールなり通話なりしてくるのだ。
そう言いながら顔を上げると、小倉さんは照れているような困った表情でこちらを見てから、ふっと息をついて、
「すみません。予想はお付きだと思うんですけど、もうあちこちで冷やかされまくって」
レシートを受け取りながら、周囲をはばかるように、そう小声で言ってくるのに、俺は苦笑を返すしかなかった。
何しろ、先週の津田ときたら、この世の春としか呼べないような有様だったからだが、
「またあいつ、自ら広めまくったんですか?」
「いえ、今回は私が、力の限り釘を刺したので。でも、なんとなくばれちゃって」
「……でしょうね。浮かれっぷりが半端なかったですし」
津田曰く『運命の日』が過ぎて、その翌日、ようやく落ち着いたのかどうなのか、夜に電話が掛かってきて、何を言ってるのかよく分からないままやたらと礼を言われて。
あの調子なら、小倉さんはともかく、あいつの方がいつもの倍以上に嬉々とした様子でいれば、彼女と何かあったんだろう、としか思われないだろうし。
それに、確かに彼女の雰囲気が変わった気がする。どことなく、としか言えないのだが。
と、その原因のひとつらしきものが目に入って、俺は眉を上げた。
左の耳に光る、小さな銀の雪の結晶。確か、友永さんが持って来たクリスマス用の宣伝ハガキの中に似たものがあった気がして、ひょっとして、と思いつつも尋ねてみた。
「それ、『熊とみつばち』のやつですか?」
その途端、弾かれたように顔を向けてきた小倉さんが、軽く眉を寄せる。と、はい、と短く応じた彼女は、微かに頬を染めて、
「……貰ったので。季節ものだし、付けないと、もったいないですし」
そう言われて、内心でしまった、と呻く。この反応だと、間違いなくあいつが贈ったということだろうし、そうなると、知らず揶揄してしまったような感じで。
申し訳なく思いながら、ともあれ礼を告げると、既に平静な様子に戻った小倉さんは、何か思いついた、というように、すっと口角を上げると、
「ご利用有難うございます。本日は、二階の担当もお待ちしていることと思いますので、お時間がおありでしたら、是非お立ち寄りくださいませ」
どこか悪戯っぽい響きを含みつつ、要所要所をさりげなく強調するようにそう切り返されて、俺は黙って頭を掻いた。
……それはまあ、傍から見れば、こちらももうあからさまなんだろうな。
それから四階に上がり、津田はあいにくと見当たらなかったものの、こちらも予約していた文庫を受け取って、新刊案内の小冊子を何冊か貰って。
三階のコミックと専門雑誌の売り場を適当に流し見しつつ、当たりがなかったのでそのままスルーして、手近な階段から二階に降りようとしたところで、一瞬躊躇する。
……なんか、挙動不審になりそうな気がするな。
実のところ、バレンタイン以降、中屋さんとはまだ顔を合わせていない。誘ったことについては、時折メールでやりとりをしているものの、それも毎日というわけではなくて。
しかも、次にはっきりと約束をしたのはホワイトデーだ。つまり、一か月も空くわけで、それに関しては津田に、『なんでそんな先に設定しちゃったんですか!?っていうかなんで告白しなかったんですかー!!』と、やかましくしかもいわれのない非難を受けた。
間を開けずすぐ攻めろ、と、自分のことはすっかり棚に上げて、うるさくせっつくのに適当に返しつつも、内心では少しばかり後悔はしていた。
あれ以来、油断すると、あの時の彼女をすぐに思い返してしまうのだ。しろくろでも、家でも、車に乗っていても、ふと思考が途切れた隙に、情景ごと沸いてきて。
そんな状態だから、もし顔を合わせたらどうなるものか、自分でも予想がつかなくて、どうにも情けない限りで。
そんな逡巡の間に、店内の四方に設置されているスピーカーから、三秒前から始まる、例のカウントダウン音がして、午後二時を知らせるアナウンスと音楽が流れてきた。
さすがにまずい、と我に返って階段を駆け下りると、バイトの青年(名札を見たら件の中里くんだった)が親切に纏めてくれた紙のバッグの中で、買った本が派手に跳ねる。
最後の数段でスピードを落とすと、軽く息を吐いて、なるべく何事もなかったように、と自身に暗示を掛けつつ、二階フロアに踏み込む。
と、書架の一番下、深めの引き出しを大きく開けて、ストック本を整理していたらしい女性が近付く気配に気付いたのか、こちらに顔を向けてきた。
「いらっしゃいませー……あ、お客様?」
俺の姿を認めるなり、尋ねるように声を掛けてきたのは、見覚えのあるバイトの女の子だった。確か、先月に、津田から頼まれて訪れた際に遭遇していたはずだ。
流行りなのかどうかは知らないが、二つに分けて結んで、左右に垂らしている明るめに染めた茶色の髪の先はくるくるとしている。相変わらず動きやすそうなニットにパンツ、といった服装のその子は、何故かぱっと人懐こそうな笑みを浮かべてみせると、
「もしかして、中屋にご用件でしょうか?大変申し訳ございません、只今所用で一階に行っておりますのでー。もうじき戻るとは思うんですが」
立ち上がるなり、立て板に水といった感じで一息に言われて、俺はいささか面食らった。とっさに返事が出来ずにいると、女の子は、あ、と声を上げて、
「ごめんなさい、あたしの勘違いでしたか!?すいません、中屋さんは、ってご指名のお客様って、結構たくさんおられるので!」
「あ、いえ、あながち間違いではないんですけど」
とりあえずのフォローを返したものの、何やらえらく恐縮されて、慌てて押しとどめる。
特に急ぎではないので、と伝えておいてから、書架の間を抜けてそのままレジ前を通過し、俺は真っ直ぐに下りのエスカレーターへと向かった。
注意喚起の黄色のラインに囲まれた、灰色のステップに足を下ろすと、軽い音と振動が伝わってくる。その駆動音を聞くともなしに聞きながら、先程の言葉を反芻していると、当たり前だが、さっさと一階に着いてしまって。
……だから、何をいちいち動揺してるんだ。
れっきとした社員である以上、顧客に頼られるのは当然のことだし、その数が多ければ多いほど、信頼もされている証左になる、それだけのことだ。加えて、売り場の性質上、女性や子供が多いはずだし、と考えたところで、引っ掛かっている最大の点は何なのか、ということにあっさりと思い至って、思わず顔をしかめる。
苛立ちめいた妙な気分に、帰った方がよさそうだ、と判断して、自動ドアに足を進めかけた時、どこか見覚えのあるスーツの背中が目に入って、俺はそちらに視線を向けた。
先日も利用させてもらった、宣伝ブースに立っていたのは、萩原さんだった。
ブースは表の通りに向けて、丁度、分度器を思わせる半円形になっていて、その直線の真ん中には、プレーンな白壁を背にミニ舞台が据えられ、両端には左右対称に入口が設けられている。そして、弧を描いている部分は透明なガラスなので、イベントに使用しても、出店や宣伝にしてもかなり有効なのは、バレンタインイベントが証明しているところだ。
お礼には伺ったけど、また挨拶くらいしておくか、と近付くと、彼の口元が動いたのを見て、誰かいるのか、とその先を追ったところで、俺は眉を上げた。中屋さんだ。
萩原さんを見上げて、しきりに頭を下げているその手には、細く丸めた紙の筒を持っていて、長さと巻いた様子からして、どう見ても大判のポスターらしかった。
しかも何やら酷く大事そうに、胸元で抱くようにしているのを認めて、なんだろうな、と疑問に思っていると、彼女がふいにぱっと顔を上げた。
それから、何か言おうとして口を開きかけたけれど、まるで声にならないかのように、ぱくぱくと唇を動かして、さあっと頬が朱に染まって。
それを目にするなり、ひとりでに足が動いていた。無言でブースに踏み込むと、足音に即座に反応した二人が、ほぼ同時に俺の方を向いて、
「……店長、さん」
「日置様?これは、どうも……」
お世話に、と続けかけた萩原さんの表情が、怪訝そうに変わるのを視界の端にしながら、とにかく中屋さんの視線を捉えようと顔を向ける。
と、目が合うなり、彼女はびくりと身体を強張らせて、
「あ、あの、わたし、早急に持ち場に戻らなければなりませんので!失礼いたします!」
そう言うなり、ほとんどバネ仕掛けの人形のような動きで、勢いよくお辞儀をしたかと思うと、くるりと踵を返して、反対側の入口から足早に出ていってしまった。
「ちょ……待ってください、中屋さん!」
とっさにそう呼ばわると、その後を追うべくブースを突っ切ろうとして、すぐさま腕をきつく掴まれる。
反射的に振り向くと、萩原さんが表情を消したまま、俺の目を正面から見据えてきて、
「日置様、失礼ながら、ここはどこだとお思いですか?あなたは、それが理解できないような方ではないでしょう」
厳しい口調で、はっきりと咎めるように言われて、俺は動きを止めた。
無論のこと、ここは彼女の職場であり、職務中にも関わらず、俺は完全な私用で。
「……申し訳ありません。軽率な真似を」
本当に、何やってんだ。
感情のままに、彼女を振り回すようなことをしかねなかったことに今更ながら気付いて、ひたすらにうなだれていると、萩原さんは掴んでいた手を離して、
「いえ、お分かり頂ければ、私としてはそれで……まあ、逃げれば追いたくなるのは、個人的に分からないでもないですけどね」
至って穏やかな声音で、さらりと吐かれた台詞に、一瞬耳を疑う。
さっと顔を上げると、目尻に皺を寄せた萩原さんは、少しばかり面白がっているように口元を緩めると、
「それと、お帰りになる前に種明かしをと思いますが、いかがでしょうか?いささか、私のせいと言えなくもないようですし」
そう続けた声の響きが、何故とはなしに、この事態を楽しんでいるように聞こえた気がしたものの、いずれにせよ、俺は素直に頷くより他はなかった。
そして、同じ日の夜。
戸締りも何もかもを終えて、後は寝るだけ、という体になった俺は、自宅の二階にある寝室のベッドの上で、壁に背をもたせかけて座っていた。
暖房は入れているもののまだまだ冷えるので、伸ばした足は布団と毛布の下に突っ込み、パジャマの上にはフリースのジャケットを羽織って、まさしく完全防備、といった格好で、手にしたスマホをじっと見つめる。
ほどなくして、液晶が光を放ち、着信音とともにメールの到着を知らせる。促すようにアイコンが明滅し終わるのを待たず、俺は素早くそれを開いた。
From:中屋さん
Sub:ごめんなさい
本文:
本当に慌てていて、不躾なことをしてすみませんでした。
おっしゃる通り、あのポスターはしろくろのものです。
萩原チーフに、処分される前に頂けないか、と打診したら、
片付ける際に取っておくので、と言ってくださったので。
幸い、両面テープで掲示していたので、綺麗なままです。
ですので、お店にあるものはそのままになさってください。
ご親切にお申し出いただいて、有難うございます。
それと、お誘いいただいた件については、もう少しだけ
お待ちいただけますか?
あと三軒にまで絞れたので、決まり次第必ずご連絡します。
それでは、またお店で。
丁寧な本文に添付されていた画像は、宣伝のために用意した、あのポスターだった。
彼女の部屋なんだろう、ごく淡いイエローの壁紙を背景に、わざわざ用意をしたのか、白い枠のパネルにきちんと入れられたそれが、そっと立て掛けられていて。
「……こんなことしなくても、いくらでもあげるのに」
そう呟きながら、萩原さんから告げられたことを思い返して頭をのけぞらせると、壁にぶつかって鈍い音を立てるのにも構わず、目を閉じる。
『そうして熱心に見ていたのは、猫たちだけじゃないんですね、と。私が言ったのは、それだけですから』
苛立ちも焦りも、原因はこれだ。
さんざん周囲に冷やかされ、匂わされはしても、彼女の心はまだ確かめられていない。
しかも、そんな状況にしているのは自分だというのに、身勝手な感情すら抑えることも出来なくて。
とはいえ、もう言ってしまったことは動かしがたいし、どうしたものか、と息をつくと、また、スマホが短く音を立てて、俺は何事かと身を起こした。
From:中屋さん
Sub:忘れていました!
本文:
店長さんが使っていらっしゃると聞いたので、
無料通話アプリ、わたしも入れてみました。
まだ、使い方が良く分からないので、
取り急ぎIDだけお送りします。
それで、大変申し訳ないのですが、
お忙しくない時でいいので、やりとりの練習にお付き合い
いただいてもいいでしょうか?
ちなみに、千穂のガラケーはアプリに対応していないので、
だめなんだそうです。
おかげで、津田くんが凄く嘆いていました。
遅くなのに、何度もごめんなさい。
ご迷惑なら、このメールごと見なかったことにしてください!
それでは、おやすみなさい。
一度全文に目を通してから、もう一度読み返して、俺はどうしようもなく頬が緩むのを感じて、気付けば喉を鳴らしていた。
しかも、IDが猫どもの名前、とか。
文字数に制限があるから、きっと滅茶苦茶悩んだんだろうな、とか、書き忘れたことにまたあわあわとしていたんじゃないか、とか、ついその様子を想像してしまって。
思いがけず、彼女から差し出された繋がりに、有難く乗せさせてもらおう、とスマホを操作しながら、俺は何から話したものか、と、最初の一言を考えていた。
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