眼鏡と裸眼

 眼鏡を掛けていると、貴方は掛けている方が良い、とか、コンタクトにした方が感じがいいよ、などと、見る人によって真っ向異なることを言われ続けてきたのだが、どちらの意見も関係なく、高一の時に次第に視力が落ちてきて以降、俺は眼鏡をずっと使ってきた。

 理由は色々あるのだが、大きいものとしては、一重ゆえなのか元からの顔立ちのせいか、時々きついと見られる目つきを、穏やかに緩和出来るアイテムとしての位置付け。

 そして最も重要なのは、猫どもの怪我など、とっさの時にすぐさまそれを掛けるだけで行動に移れる、ということだ。これがコンタクトなら、専用のケースから出して洗って、というような手間暇が掛かってくるから、どうしても初動が遅れてしまう。

 そういうわけで、自分にとっては『なくてはならないもの』として、ごく慣れ親しんだ代物でしかなかったのだが、

 「うわ……やっぱり、視界がくらくらします」

 まさか人が掛けているのを目にして、得も言われぬ感情を抱くとは、思いも寄らなくて。

 自宅のリビング、既に休日の習いとなったように、グレーの長いソファに並んで座って、のんびりとコーヒーを飲んでいた時。

 掛けてみます、というその申し出に、どうぞと軽く請け負って、一花さんに貸し出した、そこまではいいのだが、黒縁の眼鏡、というアイテムが、なんというか、これほどまでにまた違う可愛さを引き出してくれるとは。

 ごく普通に、視力のいい彼女だから、俺のかなり度のきついそれが合うはずなどなく、きゅっと眉を顰めている姿に、妙に刺激されてしまって。

 おそらく、『俺のものを身に着けてくれている』ということへの追加効果もあるんだろう、などと、変に冷静に頭の隅で分析をしながら、俺はやけに乱れる感情を必死で抑えていた。



 彼女と何気なくそんな話になったそもそもの発端は、つい二日ほど前の、津田との会話からだった。

 「ところで日置さん、眼鏡っていいアイテムっすよねー……」

 「なんだよ、いきなり気持ち悪い。だいたいお前、そんなものが必要ないくらいの視力キープしてるんだろうが」

 月曜日、リーヴル長月の四階、文芸書コーナー。

 商品の入ったクラフトの袋をこちらに渡しながら、妙にうっとりとしたように、台詞を投げてきた津田に、俺は反射的に切り返していた。

 今日は、およそ五年ぶりほどに出た、作家は有名だがマイナーなシリーズの新刊を購入しに来たのだが、大抵はまるでネジを巻かれたかのように動き回っている津田が、レジに大人しく入っていると思ったら、終わるなりこの妙な発言で。

 すると、津田は何やらしみじみとため息をついてみせたかと思うと、わざとらしく肩をすくめて、

 「まだ日置さんは目覚めてないんっすねー眼鏡女子の可愛さに!っていうか俺の場合はもちろん千穂さん限定なんですけど!」

 「は?……小倉さん、そんなに目が悪かったか?」

 俺の知る限りでは、眼鏡を掛けているところなど無論見たこともないし、コンタクトという話も聞いたことがない。第一、そういう面で不自由している様子は、さっぱり見えなかったのだが。

 「いえ、それは全然なんですけどー、ほら、パソコン用の眼鏡ってあるじゃないっすか。なんか物品の前年度予算余ったらしくて、こないだあれが職員に配られたんっすよー」

 当該の眼鏡、というのは、モニタから発する光をカットして、目の疲れを軽減する、というものらしく、俺も行きつけの眼鏡屋で勧められたことがある。今のものが気に入っているので、とりあえず購入はスルーしているのだが。

 津田の話によれば、余った予算分で何を購入するか、という希望を各部で募ったところ、経理や総務など、事務方からの圧倒的多数意見で決まったらしい。販売部でも在庫確認や発注で終始使うというし、特に文句は出なかったというのだが、

 「それで、俺割と目がいい方ですし、そんなに疲れるほどモニタ見続けてないから別にいらないかなーって思ってたんですけどー……ほら、これ見てください」

 そう言って、店のエプロンに半ば隠すようなこそこそとした動きで(一応、仕事中だという意識はあるらしい)スマホを見せてきたのに目をやれば、待ち受けに設定された小倉さんの姿があった。しかも、背景から仕事中らしい姿だというのに、かなりなアップで。

 ……毎度のことだけど、いつもいつも、どうやって撮ってるんだか。

 掛けているのは、よく見るタイプの、少し横に長めなオーバルのセルフレームで、色は黒に見えるほどの深い青。大きめの瞳を軽く細めているタイミングで写っているそれは、なかなかに知的な印象を与えてきて、確かに悪くない。

 「へえ、結構イメージ変わるな」

 「でっしょー!?可愛いに加えて格好いい感じもプラスされてすげえ萌えるんですよ!なんかちょっとセンセイっぽくてそこも俺好みなんですけどー!!」

 「いや、お前の萌えポイントを大々的に披露してもらわなくていいから……っていうか、じゃあ、一花さんもこれ貰ったのか」

 「そうですよー。色は何色かあったんですけど、中屋さんは普通に黒だったかな」

 ちなみに俺はグレーっす!と、聞いてもいない情報を与えてくれた津田に適当に返事を返すと、俺は早々に話を切り上げて、自らの欲望に忠実に、さっさと二階へと向かった。

 しかし、その日は間が悪く、一花さんは常の通りにレジに詰めていたものの、あいにく接客中だったため、遠くから手を振って視線を交わす、だけに留まってしまって。



 そんな経過で、家に来てくれた一花さんに、津田がやたらとうるさかったことを含めて、眼鏡のことを話して、正直に『掛けたところを見てみたい』と告げてみたところ、

 『あれは職場に置いてきちゃったので……でも、それなら、航さんのを貸していただく、というのではどうですか?』

 実は、それと色が似てるのを選んじゃったんです、と、はにかんでみせた彼女の言葉に嬉しさを噛み締めつつ、それでは、と装着してもらったわけなのだが、

 「……やっぱり、だめです!ごめんなさい、もう外します!」

 視界の揺らぎがよほどのものだったのか、一生懸命に目を開いていようと頑張っていた一花さんは、そう声を上げると、さっとそれを外してしまった。

 それから、返してくれようとして、そっと俺の方に顔を向けてきたかと思うと、何故か驚いたように、わずかに目を見開いて。

 うろたえた様子ながらも、小さく唇を動かして、何か言おうとするものの、声になって出ては来なくて、おろおろと顔をそらしてしまうと、

 「わ、航さん、お願いですから、これ、掛けてください」

 消え入りそうな声で、両の手のひらに乗せた眼鏡を、俺におずおずと差し出して来た。

 「え、いや、それはお願いされるまでもないんだけど。一花さん、どうしたの」

 「な、なんでもないです!ないので、早くこれを」

 ……その言い分を、どうやってすんなり納得しろって言うんだろうか、この人は。

 何やら可愛い仕草で、あからさまに動揺しているのを誤魔化すこともできないその姿に、色々とくすぐられながらも、取り急ぎ眼鏡を受け取ってしまう。

 途端に、ほっと安心したように息をついた一花さんに、俺は手の中のものをテーブルに置いてしまうと、すかさず一歩身を寄せ、完全に油断しているその肩を掴んで、ぐい、とこちらに顔を向けさせた。

 と、瞬時に真っ赤になったその表情は、可愛らしい、どころの話ではなくて。

 許容量をオーバーしました、とでもいうように、微かに唇を震わせて、ものも言えない様子が、色々なものを呼び起こさせそうで、やばい、と内心でブレーキを掛ける。と、

 「……だめ、って、言えば良かった……」

 細く、泣き出しそうな声でそう零すと、力が抜けてしまったかのように、俺の胸に倒れ込んでくる。慌てて受け止めると、一花さんはしがみつくように腕を回してきて、

 「まだ、無理……」

 「無理って……何が?」

 弱り果てたような呟きに、髪をそっと撫でながら、宥めるようにそう尋ねる。

 こうして、しっかりと抱きついてくれているところを見れば、拒絶されているというのではないことは分かるが、ここまで瞬時に狼狽されてしまうと、こちらも甚だ困る。

 何かしたか、といえば、常ならず俺が眼鏡を掛けていない、それだけのことで。

 「思い出しちゃって……前に、しろくろで、航さん、眼鏡外してた時の」

 そう言われて、すぐに『その時』に思い当たって、俺は思わず眉を寄せた。

 忘れるわけがない。俺のせいで彼女を怖がらせて、泣かせてしまったのだから。

 「……ごめん。怖かったんなら、もうしないから」


 今なら、あの時の自分が、どんな目で彼女を見ていたのかを、心底分かっているから。


 我知らず、苛めるような真似をしてしまったことを後悔しながら、もう一度ごめん、と声を掛けると、一花さんはふるふるとかぶりを振って、

 「違うんです、怖いんじゃ、なくて」

 焦ったように俺を見上げてくると、目を合わせるなりさっと頬を染めて、俯いて。

 「今は……心臓が、もたなさそうで」

 俺の服をきゅっと掴んで、そう言葉を紡ぐと、こらえるように唇を引き結んだ。

 その表情にも、声にも、指先の仕草にまでも全て、身体の奥底にあるゲージを、瞬時に最高値にまで引き上げられる心地で、反射的に目をきつく閉じる。

 これ以上の刺激が与えられでもしたら、もう、あらゆる意味で止めを刺されそうで。

 「……一旦、真面目にクールダウンしよう。俺も、正直、限界」

 口から零れる言葉とは裏腹に、すがるように彼女の身体を抱き締めた俺は、ふんわりと髪から香る、甘い匂いに身を浸すように、白い首筋にじっと顔を埋めた。



 それから、どうにかお互いに落ち着いてから、二人で善後策を話し合って。

 「とりあえず、慣れてもらえないと俺も困るから……写真撮ってもらって、待ち受けにしとくとかでどうかな」

 「ま、待ち受けはわたしがたびたび大変になりそうです!あの、すぐに見られるようにしますから、それだけは!」

 というような方針がひとまず決定して、徐々に馴染んでいって貰うことになって。

 そして、引き換えに一花さんの眼鏡姿(俺のではなく、パソコン用)の画像も、近々に撮らせてくれる、ということになった。

 ……結果として、俺だけが一方的に得をしている気がするんだけど、いいんだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

しろいねことくろいねこ 冬野ふゆぎり @fuyugiri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ