上り坂

 運悪くパクられてしまったとしても、この色なら割合に目立って探しやすいだろう、というのが、このチャリの購入を決めた最大のポイントだった。塗装に光沢もなく、まるでベタ塗りしたペンキのようなマットな質感も、他にあまりなさげなのが気に入って。

 そのせいで、もしかしたら中屋さんにも、気付いてもらえたのかもしれない。

 しろくろの営業も終わって、いつもの通り自宅に帰るべく、軽い軋みを上げる自転車のペダルを踏みながら、俺はなんとなくそんなことを考えていた。



 「え、猫アレルギー、ですか?」

 俺のちょっとした笑いの発作がどうにかおさまって、困惑したような様子の中屋さんと、確実にこちらを睨みつけている白玉、それぞれの視線を受けて、さすがに反省して。

 お詫びにとサービスした飲み物(彼女の希望で、また温かい緑茶)を差し出しながら、俺は中屋さんにそう聞き返していた。

 丁寧に礼を言って、俺が目の前のカウンターに置いた湯呑を両手で取り上げた彼女は、小さく頷くと、

 「もちろん、わたしではないんです。父が、ずっと昔からで」

 それは、そうだろう。やっと肩から降りた白玉は、あつかましくも彼女の膝をまだ占拠しているから、アレルギーだとすれば、茶を飲むどころの話ではないからだ。

 こんな話になったのは、前回来ていただいた時に、時間切れで聞き損ねた、中屋さんの目的のことだったのだが、

 「その、最近になって、突然父に頼まれたんです。家に帰るなり、いきなりタブレットを差し出されて、『この猫カフェに行って来てくれ!』って」

 なんでも、犬や猫はもちろん、たいていの毛のある動物に対して何らかの反応が出てしまう、というほどの状態らしいのだが、実は、猫がとても好きなのだそうで、

 「たまたま検索していて、こちらのお店のことを知ったそうなんですけど、地図を見て、わたしの職場に近いことが分かったので……」

 「ああ、それで、あんなに動画とか撮ってらしたんですね」

 「はい。おかげさまで凄く好評だったんですけど、スマホもタブレットも全部こちらの猫たちになってて、暇さえあればずっとテレビに繋いで占拠しちゃって、母に叱られて」

 そう話しながら、中屋さんは膝の上の白玉を見下ろすと、緑の瞳と視線を合わせて、

 「特に、この子が気に入ったみたいで。だから、彼女、懐いてくれたよ、って言ったら、『なんだと!羨ましい!一花、私と体質を変えてくれ!』って、もう無茶苦茶で……」

 「テンション高いなあ……そんな反応だったら、今の様子を見たら大変でしょうね」

 「ブログで、余計にヒートアップしてました。あれだけしか写ってないのに、あっさりバレちゃって」

 ……確かに、あれですぐに特定できるのは、親ならではなんだろうなあ。

 この間、ブログに載せた画像は、中屋さんの背中にびっしりと貼り付いた、白玉だった。こいつは他の猫どもよりも、品種的な要素もあるのかひときわ大きいから、華奢な彼女の上に乗ると、まるで、すっぽりとムートンのマットをかぶせてしまったかのようで。

 もちろん、顔も髪もその他も、ほぼ見えないように気を付けたつもりだった、のだが。

 「もしかすると、ジャージで分かったんですかね」

 なんとなく思いついてそう言ってみると、中屋さんはぴくり、と身を震わせて。

 「……そうでした。きっとあのせいですね……」

 顔を俯けて、何やら沈んだ声でそう言うのに、俺は頭を掻くと、そっと切り出してみた。

 「えーと、なんであの格好だったのかって、聞いてもいいですか?」

 実は、最初に見た時から、その格好にそこはかとない違和感を覚えていたのだ。

 昼間会った時は、職場の制服(確か、白のリボンタイ付きのブラウスとカーディガンにタイトスカート)をきちんと着こなしていて、長い髪も肩で結わえていた。

 ちなみに、今の彼女の服装は、ネイビーのジップアップパーカに黒のジーンズ、というシンプルなもので、コートや他のアイテムも全部、濃い色で纏めているのだが、どうにも『着慣れてない感』が漂っている気がして。

 そんなことを伝えてみると、中屋さんは、はっとしたように目を見張って。

 それから、何か気恥ずかしそうに自身を見下ろすと、見上げてきた白玉を一撫でして、

 「あの、この服、こちらにお伺いする用に買ったんです」

 「え?わざわざ、ですか?」

 さすがに驚いて俺がそう返すと、中屋さんは頷いて、

 「爪が引っ掛かっても平気そう、っていうのもあるんですけど、濃い色なら、猫の毛がついてることが良く分かるかな、って……だけど、黒っぽい服ってあまり持ってなくて」

 特に、毛に反応するというご家族のために、家に入る前に、ハンディタイプのコロコロ(粘着テープのあれだ)で、取り除くのが容易なように、との気遣いらしい。

 最初に来てくれた時も、手持ちの服を探してみたものの、見つかったのはジャージのみで、『ああ、それでいいじゃないか!』と、お父さんに押し切られてしまったそうで。

 「凄く急かされて、勢いに押されて来ちゃったんですけど……良く考えたら、初めからこうやって自分で服を用意してくれば良かったんですよね」

 「いや、いっぱいいっぱいになってる時って、意外と思いつかないもんですよ」

 やはり恥ずかしかったのか、俯いて頬を染めている中屋さんに、俺は宥めるようにそう言った。猫に対する態度ひとつとっても、真面目で、何もかも真剣だなあ、という印象を受けるから、初めての接触に色々考え込んだんだろう、という気がして。

 「……そうでしょうか」

 「ですね。それに、服装に関しては、めちゃくちゃ正解だったと思いますよ」

 瞳を向けてきた彼女に、つとめて軽く返すと、俺はその膝にいつまでも陣取っている、白い毛玉をひょい、と抱え上げた。にゃっ、と一声不満そうな声は上げたものの、暴れることはなく、そのまま肩の上までのしのしとよじ登ってくる。

 少し首を前に傾けると、まるでマフラーのようにくるりと巻きついて、ふん、と鼻息を漏らした白玉を、目を丸くして見つめている中屋さんに、俺は手で示すと、

 「ほら、申し訳ないくらい、真っ白ですし」

 まだ脱げずに着たままだったコートも、パーカも、ジーンズも、白くて細い毛に、一面まみれていて、確かにものすごく分かりやすい。しかも、なるべく毛が飛ばないように、毎朝欠かさずブラッシングはしているというのに、それでもこの有り様で。

 きょとん、としたように俺を一瞬見てから、中屋さんは腕をそっと上げてみて。

 首を巡らせて、全身をまじまじと見回すと、納得したようにこくりと頷いて、

 「あ、でも、クロエの毛だったら分からないかもしれません」

 ふと思い至ったのか、慌てて顔を上げてくるのに、俺はまた笑みを誘われてしまって。

 「だったら、あとで順番に試してみましょうか。うちの全猫どもで」

 普段なら、あまり個人的にサービスしない主義だけど、そんなことを提案してみた。とはいえ、他のお客様のこともある(今日は、どの方も延長気味だった)から、実験を終えるまで、なんだかんだと閉店までかかってしまったのだが。



 家に向かう最終コーナーを回り、ちょっとばかりきつく長い勾配にかかると、俺は立ち漕ぎモードに入った。なんといってもただのママチャリだから、変速などできる訳もなく、かなり気合を入れないとてっぺんまでは到達できない。

 劣化気味の黒い舗装に、ところどころ入ったクラックに地味に悩まされつつもペダルを踏んでいると、ふいに背中に半ば背負った鞄から短い着信音が響いた。メールだ。

 この間、スマホに変えたばかりだから、落としでもすればひどいことになるので、行き帰りはこうして放り込んである。ともかく、散りそうになる気をなんとかひと纏めにし、一気に家に通じる脇道まで駆け上がると、その勢いのままに車体を傾け、庭兼ガレージに突っ込んで、玄関の前に自転車を止めてしまう。と、

 「……なんだ、津田か」

 昼間に中屋さんの件を知らせてきた他に、どういう経緯かは知らないけど、小倉さんと約束が出来た旨も聞いていたので、そのへんのことかな、と思いつつも開いてみたのだが、



 From:津田周也つだしゅうや

 Sub:ありがとうございます!

 本文:

 いやー、日置さんのおかげで俺めっちゃ幸せです!

 帰りまでずーっと小倉さんと二人っきりとかマジ快挙なんすよ!

 あ、もちろん駅まで送って行きました!

 ほんとは家まで送りたかったんですけど、そこは断られて……

 でも、あんまり焦っちゃダメっすよね!未来は明るいですし!

 日置さんにも、早く春が来るといいっすね!それじゃ!



 「……なんだこれ、本気で意味分からん」

 俺のおかげって、別になんにもしてないし。ていうか、いちいちデートの結果報告とかどんだけ頭沸いてるんだ、あいつ。

 極めて率直な感想を脳裏に展開していると、さらに着信音が鳴った。また津田だ。



 From:津田周也

 Sub:それと

 本文:

 中屋さん、フリーらしいっすよ!

 小倉さん情報だから、確実です!



 「……だから、なんだよ」

 自分が色惚け気味だからって、なんで他人にまで伝染させようとするんだか……

 軽く息をつきながら、疲れたので返信ははしょろうと決めて、スマホをポケットに突っ込むと、入れ違いに鍵を取り出しながら、ふっと帰り際の中屋さんの様子を思い出した。


 『これがいっぱいになったら、どうなるんですか?』


 そう聞かれて、まだいっぱいになったお客様がいないんです、とは言えず、とりあえず本当のことを伝えつつも、またのご来店を誘うようなことを言ったわけだが。

 ぱっと顔を上げて、何か瞳をきらきらさせて、お伺いします、と返されてしまって。


 いや、違う違う。

 あれは、猫どもに向けられたものであって、俺にじゃないから。


 何か言い訳めいてるな、と自覚しつつも、そういや、また今日も、笑ったところは見てないな、とあらためて気が付いて、俺はなんとなくひとり頭を掻いた。

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