凪と揺らぎ
走行中の電車の揺れというのは、こうやって座っていると、睡眠中枢に直撃しているんじゃないか、と思うほど、ゆらりとした眠気を誘ってくる。
多少遠出したとはいえ、自宅のある駅までは、六駅。そこは普通しか止まらないから、道中もそれなりに扉は開くし、周囲に動きはあるものの、時々入ってくる冷えた空気に、着いたのか、と慌てて目を覚ます有様で。
付き合いとはいえ、それなりに飲んだから仕方がない。とはいうものの、身体の欲求に素直に従えない状況は、結構きついよね、などと考えていると、
……また、津田くん?
手にしたままだった、白の折り畳み式の携帯、その背面の小さなディスプレイに、彼の名前が光って。
白い文字列が流れて消えていくのをぼうっと見ながら、私はのろのろと側面にあるボタンを押した。かなりの勢いで開いたそれを、指先で操作して、メールを開く。
From:津田くん
Title:今、日置さんと
別れましたー。
俺の家まで、あともうちょっとです。
雲間から月が覗いてきたんで、結構明るいですけど、
本気で、小倉さんは気を付けて帰ってくださいね!
いくら徒歩三分でも、女の子なんですから。
なんかあったら、必ず連絡ください。
ダッシュで駆けつけますから!
あと、今日はすいません。
色々含めて、日置さんにも怒られました……
落ち着いて、周りに迷惑掛けないようにします。
それと、ちょっと思いついたことがあって。
また、暇な時に相談させてもらってもいいですか?
返事は、いつでもいいんで。
まだ、電車の中ですか?
乗り過ごさないように気を付けてくださいね!
「……いや、ダッシュでも無理でしょ」
隣の座席に人がいないのをいいことに、小さく呟くと、揺れで崩れた姿勢を正して。
ああ、でもあの子なら本気でやってきかねないなあ、と考えながら、つい春先のことを思い返していた。
新人が来る、という状況にも、六年目ともなればさすがに慣れるし、指導役に選ばれるのもそろそろ当然、という感覚が身についていたので、さして構えることもなく、当日を迎えて。
「津田周也です!お客様のために誠心誠意頑張りますので、宜しくお願いします!」
真新しい細身のスーツで、ひときわ声を張った挨拶に、元気な大卒だなー、くらいしか思っていなかったわけだけれど、これがまた、なんというかガチャガチャしていて。
接客態度には問題ない。むしろ、いわゆるイケメンの部類に入る容貌だから、女性客の受けがいいし、少しばかり気難しいご年配の方にもファンが出来るほどなのだが、何しろ細かなミスが多くて。
「ご予約の際に電話番号の伺い忘れ、くらいなら、まだフォローのしようもあるけど、発注忘れはほんとにシャレにならないから、気を付けてね?」
「……はい。すいませんでした」
殊勝な面持ちで、深々と頭を下げた津田くんの前で、どうにか処理を終えた安堵もあって、私はため息をついた。
手にした『注文』『新刊予約』と大きくタブのついた台帳を見下ろすと、レジ横のモニタに目をやって、発注リストに『処理済み』の文字を確認する。と、
「大丈夫、奥田様にも連絡は済んでるし、版元にも在庫確保してもらえたから。これでこういう時の処理の仕方も覚えられた、でしょ?」
今回は、常連のお客様が楽しみにしておられた、ある画集の予約についてだった。予約票にも漏れはなく、データ入力も済んでいたのだが、発注時にこの一件だけ完全に連絡が漏れていたのだ。元々小規模な出版社で、取引も多くないのが災いしたようで。
でも、それ故というべきか、最後の数冊というところで確保は出来た。重版の可能性もありかなしか、という本だったから、正直危なかったのだけれど。
まだうなだれた様子の彼の肩を、軽く叩いて、なるべく明るめの声で言ってみる。何か、自分が新採だった時のことを思い出してしまうから、心配になったのだ。けれど、
「はいっ!間違いなく手順は覚えました、二度と同じミスはしないと誓います!」
「……その意気やよし、なんだけど、声大きいから」
顔を勢いよく上げるなり、フロア全体に響きそうな声で宣言してくれたのはいいけれど、まだ閉店前だから、そこここにいらっしゃるお客様が、何事かとこちらを見つめてきて。
ともかく、なるべく平静さを装って、正面から津田くんを見据えると、
「また明日、チーフに報告はするし、奥田様がいらっしゃった時の対応はまた声掛けてくれたら……」
言葉の途中で、業務用の携帯が軽い着信音を鳴らす。店名の入ったエプロンのポケットからそれを取り出すと、すぐに応答する。
「はい、小倉です」
『あ、千穂ちゃん?あたしでーっす』
「……その言い方は、倉庫ですか?」
通話口からのテンション高めの声は、四階フロア担当の池内さんだ。こんなノリでも、仕事は真面目だから、さすがにお客様の前ではこんな態度は取らない。
『あったりー!ごめん悪いんだけどさー、そっちの新人一瞬でいいから貸してくれない?ちょっと力仕事要員がいるんだよねー』
「ああ、分かりました。すぐ行って貰うようにしますから、じゃあ」
通話を切ると、自分のことだと察したのか、こちらの様子を伺っていた津田くんに私は用件を伝えた。池内さんとは、私と一花も交えて、既に何度か飲みに連れて行って貰っているから、話は早くて。
終わったらこっちに戻るように指示を出すと、バイトの森さんに呼ばれたので、別件を処理している間に、そのまま終業時刻を迎えたのだが、
「え?もう戻ってるはずなんですか?」
『そーだよー、作業終わったの三十分前くらいだもん。千穂ちゃんにお礼言っといてー、って送り出したのに……あ、ちょっと待って』
バイトの中里くんの証言によると、津田くんが『忘れ物した!』と、鍵を持って倉庫に向かったらしい。それからすぐに閉店間際の作業に入ったので、平たく言えば、
『ころっと忘れられてたみたーい、あははは』
「……すいません、とにかく回収に行きますから」
そう言って通話を終えつつも、いっそ館内放送をかけてやろうか、とも思ったけれど、それは最終手段だ。
幸い、うちのフロアの作業は既に全部終わっている。バイトさん達に帰ってもらうよう伝えると、私は急いで四階の倉庫に向かった。
と、その扉の前に所在無げに佇んでいた人物が、ぱっと顔を向けてきて、
「あ、すいません小倉さん。一応、他の場所も探したんですけど見当たらなくて……」
「いいよ、こっちこそごめんね、遅くなるのに」
責任を感じたのか、すまなさそうに頭を下げてきた中里くんに、私はそう言うと、扉のノブに手を掛けた。予想に反して鍵は開いていて、軽い軋みとともにあっさりと開く。
「もう、せっかくマスターキー借りてきたのに。それに真っ暗じゃない」
「そうなんですよ。だから俺、とっくに戻ったのかなって思ってたんですけど」
声掛けても返事ないし、との中里くんの言葉を聞きながら、一歩中に踏み込んで壁際の電源を探る。じきに指先がスイッチを探り当てたところで、私は手を止めた。
「……何、なんか、変な声が」
「ま、マジですね……なんかホラーっぽい」
震え声を上げた中里くんに、勘弁してよ、と言いかけた途端、奥の方から何やらうめき声のようなものが流れてきて、思わず息を呑む。
ああ、もう、霊感とか怪談とか、本の中にしかないから!
そう心の中で叫びつつも、動かなくなりそうな指を無理矢理に動かして、一息に照明を点ける。瞬時に黒から白に変化した部屋に、さっと首を巡らせて津田くんを探すと、
「……何してんの」
整然と並んだスチール製の頑丈なラテラルが作る通路のひとつ、その一番奥に、へたり込んでいるスーツ姿があって。
私の声に反応して、思い切り勢いよく上げられた顔は、もう子供みたいな半泣き状態で。
「小倉さあああああん!助けに来てくれたんですねー!!」
と、耳をつんざくような声で叫ぶ割には、座り込んだまま動かない。おかしいと感じて、足早に彼に駆け寄ってみると、原因はあっさりと分かった。
「足、挫いてるの!?大丈夫!?」
「それなりに痛いですけど平気っす!問題は立てないってことなんですけど!」
「馬鹿、全然大丈夫じゃないじゃない!」
慌てて屈み込み、ひねったらしい右足をそっと持ち上げてあらためる。靴は転んだ時に脱げてしまったようで、結構離れた場所に落ちていたから、相当な転び方だったらしい。
薄い靴下越しにも分かるほど、目に見えて足首は腫れ始めている。これは絶対に歩かせてはだめだ、と判断して、中里くんを振り返ると、
「お願い、廊下の一番大きい台車持って来て!あれで運ぶから!」
「わ、分かりました!」
踵を返してばたばたと走っていく姿を見送ってから、津田くんに向き直り、とりあえず立たせておくべきか、と片膝をついて、
「いきなり怒鳴って、ごめん。力入る?肩貸そうか?」
そう声を掛けたところで初めて、やけにきらきらとした瞳で(滲んでいた涙のせいだ)私を見つめている彼の様子に気付いて、やばい、と本能的に身を引きかけたけれど、
「小倉さん!俺、あなたに惚れました!」
耳を疑う台詞とともに、ぬっと伸びてきた両の腕に、驚くほどの力で抱き締められて。
あまりな展開に、とっさに声も出ないのをいいことに、人の肩に顔を埋めて、好きです、付き合って下さい、などと言い始めて。
「……もう、何考えてるの!放しなさい、馬鹿!」
ようやく衝撃から立ち直った私は、津田くんの両の耳を掴んで思うさま引っ張ってやり、さらにひるんだところを、力の限り頭をはたいてやった。
その後、一部始終を目の当たりにした中里くんと、津田くん自らの証言もあって、瞬く間に社内に事の次第が広がってしまった。おかげで七十五日どころか、冬になってもまだネタにされ続けているのは、ひとえに懲りずに迫り続けてくる、彼のせいだ。
念のために付け加えると、中里くんは池内さんに状況報告したのみで、あとは津田くん自身が嬉々として広めてくれた。……ほんとに、何考えてるんだか。
しかも、転んだ顛末がもう、呆れるばかりで。
忘れたスマホを棚から回収→振り向きざまにラテラルにぶつかる→よろめいて奥の照明スイッチに体当たり→照明消える→真っ暗でパニくる→走り出すなり滑って転ぶ、というコンボだったそうで、結局全治二週間だった。
その間、総務からの通達でデスクワークに回されて、かなり絞られてたけど。
あれから、周りの指導もあって、随分仕事的には落ち着いてきたと思うし、根は悪い子じゃない、とは思う。最近二人で飲んでても、あからさまな態度は控えるようになったし。
でも、なんていうか、付き合うとか、そういうことにはなれない気がして。
頼られるのは慣れてるし、それが嫌だという訳じゃない。
だけどたまには、こっちから頼ったり、甘えてみたりしてみたいんだけど。
なんてことを、うかつに零そうものなら、『それじゃあ俺の膝で存分に甘えてください!』などと素で言われそうな気がするし、そんな場面も想像しがたい。
それに、やり方わかんないし。何でも自分でやらなきゃいけなかったし、その方が安心出来たから、仕方ないのかもしれないけど。
だから、一花には悪いけど、もうちょっとこのまま、が、気楽かもしれない。
まあ、単純に、あの鈍い子がいつ気付くのかな、とか、面白がって見ていたい気もあるわけだけど。津田くん、妙にこういう観察眼は鋭いから、店長さんの動向も気になるし。
そんなことを考えているうちに、最寄駅が近付いてきた。車窓に流れる街灯の光を目でしばらく追ってから、また携帯に目を落とすと、短く返事を打ってしまう。
To:津田くん
Re:もうすぐ駅。
相談の件、分かった。
でも今日は眠いから、話はまた明日、でお願い。
あと、心配してくれて、ありがと。
おやすみ。
これだけあっさり気味にしても、きっとすぐに返事、来るんだろうなあ……
そう思いながら、送信を完了して、到着を知らせるアナウンスに席を立ち、開いた扉をくぐる。パンプスの踵がホームを踏みしめるなり、鞄から聞き慣れた着信音が響いて。
「……ほんとに、なんでなんだろ」
再び表示された名前に、妙な安心感を覚えながら、私は携帯をじっと見つめていた。
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