夢と幻
日々、現実的にこなさなければならないことがある、というのは、ある意味救いだ。
自分のことだけなら正直なところどうだっていいが、世話をしないとどうにもならないものがいる以上、身体は染み付いた習慣通りに、機械的に動いていくもので。
けれど、心ばかりは一度軋むと、元に戻そうにも、メンテの方法すら思いつかなくて、気が付けば、ひとりスマホを前にしたまま、ぼんやりと連絡を待っているばかりで。
だから、いきなりのこの状況が、俺にはどうにも腑に落ちないのだが、抵抗するだけの気力もなくて。
「まあ、その様子でしたら、ともかく気付けが必要でしょうから」
「あ、日置さーん、白いのと赤いのとピンクいのとどれがいいっすかー?」
「……何本買ってきたんだよ。あー、もうなんでもいいよ」
土曜日、午後九時半をわずかに過ぎた時刻の、自宅のリビング。
流し台の前に立って、スパークリングワイン(しかもフルボトル)を両手に振り返ってきた津田と、その横で、出された皿に次々と開けた缶の中身をやけに小奇麗に盛っている萩原さんに、俺は呆然としたままそう応じていた。
今日もどうにかしろくろから帰ってきて、ほぼ間を置かずに津田からの連絡があって、今から遊びに行きます、と申し出てきたのを、そんな気になれるわけもなく即座に断って。
ところが、それで済ませるつもりがないように、すぐさま家にやってきたかと思うと、性質の悪いセールス並みにピンポン連打をしてきたので、渋々ながら扉を開けてみれば、何故か、萩原さんまで並んで立っていて。
津田に続いて、お邪魔します、とするりと入ってくるなり、さっさと手にした紙袋から、やけに高そうな雰囲気のワインを取り出したかと思うと、
『池内から、どうやら私のせいもあるらしい、と聞かされたので。お詫びです』
あっけに取られている俺の手の中に、無理矢理それを押し込んでしまうと、言葉を挟む余地もないまま、家に上がられてしまったのだが、
「取り急ぎ、こんなものでいいですかね」
ソファ前のテーブルの周りに、適当に持って来たクッションと座布団にあぐらを組んで、なんとなく三人で車座になって。
まるでウェイターのような手つきで、萩原さんが黒の四角いトレイをテーブルに置いてしまうと、有無を言わせぬ感じで白のボトルを差し出して来た。
「……有難うございます」
手にしたタンブラーに、勢いに押されるままに注がれつつも、俺はまだ困惑していた。
普段に使うことがまずないので、存在すら忘れていたそれに並んだいくつもの皿には、オリーブ、生ハム、ムール貝と牡蠣の燻製、タコのオイル漬けなどが盛られている。
ご丁寧に、どうやらわざわざ持って来たらしいプラ製のピックと、取り皿まできちんと添えられていて、酒飲みの食卓だな、などとふと思っていると、
「乾杯、という雰囲気でもないので、早速本題に入りますが」
津田が注ごうとするのを手で制して、残り二つのタンブラーに無造作にボトルを傾けた萩原さんは、そう言って俺に目を向けてくると、
「言うまでもなく、中屋が、見る影もなく落ち込んでいます。それで池内が見かねて、なんとかしてやってくれ、と頼まれたもので」
「……彼女からは、どこまで聞かれたんですか」
低く尋ね返すと、萩原さんは小さくため息をついて、
「私は、直接は聞いていないんですよ。ただ、池内から伝言は預かっています」
そう言うと、スーツの内ポケットからスマホを取り出すと、しばらく操作したのちに、俺に画面を見せてきた。
差出人:
宛先:
Re3:有難うございます
無理にお願いして、申し訳ありません。
それと、店長さんにこれだけ伝えておいてください。
一花ちゃん、あの日よりは随分落ち着いてはきたのですが、
やはり、どこか沈みがちです。
彼女は頑として、あなたのことを悪くは言わないし、
かといって、どうしていいか分からなくなっているみたいで。
あと、ブログのこともとても気に掛けていました。
出来れば、彼女と一度ゆっくり話してあげてください。
お節介で、本当にごめんなさい。
あの日、というのは、俺が彼女を泣かせてしまった日のことだった。
しろくろを出ていったあと、どこをどう動いたのか、彼女は北町の商店街を歩いていたらしい。あのエプロンに腕カバーのままで、悄然と俯いていたところを、たまたま飲みに向かっていた、萩原さんと池内さんが見かけたそうで、そのまま予約していた店に連れて行ってくれたというのだ。
二人にさせてくれ、と言うので個室に篭り、萩原さんはカウンターで時間を潰しつつ、取り急ぎ俺に連絡をくれて、それから、今日に至るわけだが、
「そういうわけで、詳細は不明なんですが……翌日、彼女から話を聞いた小倉に、容赦なく叱られまして」
その折を思い返したのか、珍しく疲れたような笑みを浮かべた萩原さんに、津田が声をひそめると、
「なんか、凄かったですよ……『店長さんも酷いって思いますけど、萩原さんが余計なちょっかい出すからこじれたんじゃないですか!?』ってもー集中砲火でー」
「それで、池内が宥めてくれたんですが……お前は、本当に盾にもならなかったな」
「盾どころかあおり食らって蜂の巣ですよ!あとで千穂さんにはすげえ泣かれるしー!」
「いや、悪い、元はと言えば俺のせいだから。萩原さんにも、ご迷惑をお掛けして」
すみません、と二人に向けて頭を下げると、津田は途端に慌てだして、
「迷惑じゃないっすよ!いつも俺ばっかお世話になってますし、むしろ役得っていうか泣いちゃったのも彼女めちゃくちゃ可愛かったですし!」
「……あのな、こっちは真面目に謝ってるんだけど」
気の抜けるような返しにうなだれていると、萩原さんがタンブラーの中身を軽く呷って、悪くない、と呟いてから、俺にも飲むように勧めてきた。
「おそらく、お互い様、というところなんでしょうが、どうしてこうなったのかだけは聞かせてもらっても宜しいですか?」
「……馬鹿みたいな話なんですけど、それでもよければ」
そう前置きをしてから、俺は勢いづけのために、手にしたワインで喉を湿らせた。
甘さより酸味が勝っていて、さらりと飲みやすい。黄味がかった色合いの中を、無数の細かな泡が動きにつれて立ち昇るのを見ながら、口を開く。
「夢を、見たんです」
うっかり、気恥ずかしくなるような台詞を零してしまって、その場から逃げ出して。
心の内をどう伝えたものか、奥の倉庫でさんざんに悩んでいるうちに、気付けば彼女が猫どもと一緒になって、部屋の隅で眠ってしまっていて。
あどけない寝顔に、ふっと触れたくなって、近付いてみたものの、そんな度胸もなくて、隣に座り込んで見入っているうちに、俺まで寝落ちしてしまって。
そんな状況だというのに、見た夢ときたら、最悪だった。
思い返して、苛立ったように髪を掻き回すと、吐き出すように続ける。
「……萩原さんに、彼女が言い寄られてて。中屋さんも、何かまんざらでもなさそうで、それで……目が覚めても、夢の続きだと思って」
おそらく、車でのやりとりが、ずっとどこかに引っ掛かっていたんだろう。
だから、ありえないほどの嫉妬にかられて、彼女に、あんな形で。
怖がらせて、泣かせてしまったことに気付いてからは、さらに酷かった。
彼女を追い掛けようとして白玉に手加減のない一撃を食らい、それでも揉み合いながら追おうとすれば、眼鏡を外していたせいでちゃぶ台につまづき、派手に転んで。
足にしがみついて離れない白玉をどうにか振りほどき、ようやく表に出てみれば、既に彼女の姿はどこにも見えなくて。
あてどもなく探しながら、必死でメッセージを送っても、何の返事もなくて。
そんな経過を話すと、萩原さんは納得したように頷いて、
「なるほど……それは、仕方ないですね」
「とばっちりで、すみません。中屋さんにも、余計に怯えさせるような真似をして」
無理に手を出しかけた男から連絡を取られるなど、恐怖以外の何物でもないはずなのに、相手の気持ちすら計れないほど、取り乱していて。
ふさがりかけた傷口が再び開いたような思いで俯いていると、そろそろと気遣うように、津田が声を掛けてきた。
「でも、中屋さん、日置さんからのメールとか、気が付くと見てるみたいっすよ」
あんまりバラすとみんなに怒られるんですけど、と言い置いて、顔を上げた俺に苦笑を向けて、さらに続ける。
「昼休みとか、元気ないし心配なんで、誰かしらが一緒に飯食ったりするんですけど、ちょっと席外して戻って来たりすると、じっとスマホ見てて、なんか悩んでて」
送ろうかどうしようか、というように、メッセージ欄にカーソルを置いたままだったり、何度も同じメールを読み返していたり、しろくろのブログを見ていたり。
指折り数えながら、色々と挙げてきた津田は、最後に、にっ、と笑ってみせると、
「あいにく、俺は見てないんですけど、千穂さんが、『あの子、店長さんの写真、見てた』って」
その言葉に、完全に不意を打たれて、俺は目を見開いた。
少しでも、姿を見せることすらためらわれて、もう、彼女に近付くことさえ敵わないんじゃないか、とまで考えていたのに、どうして。
にわかに沸き上がる様々な感情に振り回されて、何も言えないでいると、津田はそれを悪い方へと誤解したのか、焦ったように言ってきた。
「あー、違うんです!俺もみんなもチラ見しただけで、中屋さんのプライバシー侵害は絶対にしてないですからー!!写真がすっげえラブラブだったって聞いたくらい、で……」
「……ちょっと待て。それ、俺にはさっぱり心当たりないんだけど」
どんな写真だ、と思わず声を低めて聞いてみると、津田はえー、などと口を濁していたが、しつこく睨み続ける俺の視線に、ほどなく折れて、
「そのー、たぶん、バレンタインの時のやつじゃないかって」
なんかハートいっぱいだったみたいですし、と続けられて、力が抜ける。そういうことなら、間違いなく吉野さんか敦子さんの仕業だ。
「俺には、彼女の写真なんてくれてないくせに、何やってんだよ……」
「ああ、ご夫婦ともに、かなり彼女が気に入ったみたいですからね」
「……何か、聞いたんですか?」
いつの間にか干したタンブラーに、手酌でワインを注いでいる萩原さんに、俺は尋ねた。
そういえば、この人が水曜日に、あの宣伝ブースにいた理由も聞いていない。この際、ついでに追及してみると、
「いえ、特に目新しいことは。ブースにいたのは、単純に仕事の話です」
……目新しくないことは、聞いてたってことか。
やや引っ掛かる物言いはともかくとして、今度、吉野さんが撮り溜めた写真を元にして、個展を開くらしい。前々から話は進めてたんです、と、あっさり返してくると、
「それと、中屋は大変感じのいい女性だとは思いますが、私は池内に惚れているので、どうぞご安心のほどを」
にこやかにさらにとんでもない追撃を加えられて、俺は絶句し、津田は盛大にワインを吹いて、一瞬で混乱させられてしまって。
「ちょっ、チーフマジ惚れだったんすか!?ていうか絶対仕事絡みだと思ってー!!」
「最初はそうだったからな。その点は、彼女に疑われても仕方がないんだが」
そんなやりとりを耳の端にしながら、俺はとりあえず台布巾を取りに、流し台へと立ち上がっていた。スーツに酒を零して放置していれば、間違いなく酷いことになるからだ。
マジでどこがいいんですか!?などと、仮にも上司に対して、相当失礼な追及を続けている津田を放っておいて、吊戸棚に挟んである布巾掛けから、青のチェックのそれを取り、濡らして固く絞って、としていると、
「……だから、そういうところが、惚れた理由のひとつなんだ」
半ば諦めたような調子で、津田に言っているんだろう台詞が、耳に届いて。
それが呼び水になったように、彼女の姿が、脳裏に次々と浮かんできて。
そう簡単に、消せるわけがない。
だから、あの手をまた取れるのなら、何度だって。
余分に、もう一枚イエローの布巾を同じようにしてから、俺はテーブル近くに戻ると、津田にそれらを渡してしまって、サイドテーブルに放置していたスマホを取り上げた。
と、やろうとしていることを察したのか、萩原さんは薄く笑って、
「そろそろ、締めのパスタでも作りましょうか。津田、拭いてからでいいから、悪いが手伝ってくれ」
「あ、はい!日置さん、適当に鍋とか借りてますから!」
気を利かせてくれた二人に礼を言って、ソファに腰を下ろすと、壁の時計を見上げる。
幸いというか、日が変わるにはまだ当分ある。
伝えたいことは、山ほどあるような気がしたものの、じっと液晶を見つめているうちに、結局、ごく短いものになった。
To:中屋さん
Sub:日置です。
本文:
先日のことは、本当にすみません。
どうしても、中屋さんにお話したいことがあります。
出来れば、直接会って。
いつでもいいので、連絡をください。
彼女に会ってしまったら、抑えきれるのかどうか、正直なところ自信はない。
けれど、声だけでも、文字だけでも、きっと足りないから。
随分勝手な話だな、と自嘲しながら、それでも俺は彼女に向けて、メールを送信した。
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