備えと憂い

 全ての物事において、俺はあまり自分に都合良く考えることはしないようにしている。

 アユタヤの時のように、不測の事態というのは前触れもなく起こり得るものだし、代替要員は一応確保しているものの、いつ何時もすぐさま来れる、という状況でもないので、常に備えを万全にしておくのは、最早癖になっている。

 ことに、気まぐれかつフリーダムな猫を五匹、日々扱っている立場としては。

 しかし、何もかもがこうも自身に良いように展開してくると、いささか気の緩みも出るというもので。

 「……お前、いったい俺に何の恨みがあるんだよ」

 三月十三日、水曜日。午前十時をやや過ぎた時刻。

 俺はしろくろのカウンター前で、全身の毛を逆立てている白玉と睨み合っていた。元々毛の色が毛の色なので、こうして身を膨らませていると、常の二倍ほどにもなっている。

 今日は、いよいよ中屋さんとの約束の日だ。本来なら明日が当日、ということにはなるのだが、相談の結果、彼女のシフトをこちらの定休日に合わせてくれることになった。

 とはいえ、猫どもにはいつもの如く餌をやらねばならないし、トイレその他の掃除にもそれなりに時間は取られる。そういったわけで、早朝六時から起き出して、自宅及び日置荘の庭を掃き、植木に水をやり、ゴミ置き場のネットをチェックしてから着替え直して、車でここにやってきたのだが、全てを済ませ、いざ出かけようとするとこの有様で。

 しかも、まだ肌寒いので、シャツの上に羽織るつもりのライトグレーのジャケットは、四本の足の下にがっちりと踏まれていて。

 「お前なあ、ちゃんとハンガーに掛けといただろ!なんでわざわざ落としてるんだよ!」

 さすがに苛立ちを隠せずにそう言うと、白玉は悪びれた様子もなく、なーおぅ、と俺を見上げて、まるでカネルに喧嘩を売られた時のような鳴き声を上げてみせた。


 ……こいつ、また白玉センサー発動してるな。


 以前、二度目に中屋さんが来てくれた日、朝から理由もなく興奮していたのだが、丁度こんな状態だった。だが、その時は、俺に対する敵意めいたものを見せはせず、せいぜい爪とぎ用ダンボールが分解され、座布団が一枚犠牲になった程度だったのだが。

 こいつがこういう反応を示すのはもう一人いて、前の飼い主である雲井だが、先週から遠方に出張と聞いているので、まさか来るはずもないし、と考えていると、

 「うわ、もうやばい」

 ポケットに突っ込んでいたスマホがアラームを鳴らすのを、取り出すなり慌てて止める。迎えに出る、と決めていた時間にセットしておいたのだが、多少の余裕があるとはいえ、白玉がこの様子では身動きが取れない。

 ジャケットは諦めて、一度自宅に寄るか、と板の間に足を進めれば、すかさずパンツに飛びついてくるしで、きりがない。無理矢理にはがしても何をしても効き目がないので、途方に暮れているうちに、刻々と時間は過ぎてしまうばかりで。

 ……仕方ない、電話するか。

 服についた毛は後回しにして、俺は手にしたスマホでアプリを起動した。一覧から中屋さんを選ぶと、通話ボタンに触れる。

 ほどなく呼び出し音が鳴り始めたかと思うと、ほんの一秒ほどで応答が返ってきた。

 『も、もしもし、一花です』

 耳元で響いたその声に、一瞬、例えようもなく胸が騒ぐ。

 いきなり何でなんだ、と心中で自らに問い返すと、名前だ、と気付いて。

 『あれ、おかしいな……あの、店長さん、繋がってますか?』

 「あ、すみません、日置です。大丈夫です、聞こえてますよ」

 慌ててそう応じた途端、足元に纏わりついていた白玉が、ぴくり、と身を震わせたかと思うと、にゃあにゃあ、とうるさく鳴き始めた。ことさら大きな声ではないはずなのに、どういった感覚なのか、相手が彼女だと分かっているようだ。

 『その声、白玉ですよね?もしかして、また何か緊急事態だとか……』

 「いえ、違う、というかなんというか……実は」

 心配そうな彼女の声を受けて、俺は現状を素直に話すことにした。その間にも鳴き声はおさまるどころか、気付けば他の全猫どもまで、何事かとこちらを見上げてきている。

 五対の瞳と、ひとつだというのにやけに声高な鳴き声に責められながら、手短に事情を話し終えると、

 「そういうわけで、ちょっと出るのが遅くなりそうなんです」

 『……分かりました。じゃあ、今からわたし、そちらにお伺いします』

 「え!?いや、そういうわけには」

 『なんとか、彼女にお願いしてみます。もしかしたら、会ったら落ち着いてくれるかもしれないですし、時間はまだ余裕ありますし、ね?白玉』

 呼びかけるように彼女が言うと、声が聞き取れたのか、白く長い尻尾をぴん、と立ててうろうろと俺の周りを歩き回り始める。……確かに、効果は覿面だ。

 試しにスマホを近付けて、呼びかけてもらうように頼んでみると、喉まで鳴らし始めて。

 「それじゃ、飼い主としては情けない限りなんですが、お願いできますか?」

 『……はい、待っててくださいね!』

 実にあっさりと負けを認めた俺の言葉に、こちらが気恥ずかしくなるほど、嬉しそうに返してくれて。

 なるべく急いで出ますね、という彼女の声に、すっかり白玉が気を取られている間に、俺はさりげなく足先を使って、その身体の下からジャケットを取り返していた。

 ……毛は取れるとして、皺は、もうそういった加工なのだ、ということにしておこう。



 それから、数十分あまり経って。

 「中屋さんに、もう『白玉マスター』の称号進呈しますよ」

 テナントの駐車場に置いていたグリーンの車に乗り込みながら、俺が苦笑しつつもそう言うと、既に助手席についていた彼女は、えっ、と小さく声を上げた。

 「あの、でも、わたしも、正直なところ、彼女がどうしてあんなに懐いてくれるのかは分からないんですけど……もちろん、大好きではあるんですが」

 照れたように頬を染めてそう言う姿に、なんとなく色々とくすぐられつつも、シートに腰を下ろすと、シートベルトを締めつつ、俺はあらためて彼女の方を見やった。

 今日、ほっそりとしたその身に纏っているのは、アイボリーのワンピースだった。

 とはいえ、一見それとは分かりにくいもので、上は、胸元に淡いイエローとピンクの花モチーフの施されたニット、下半分は、上とはまた異なる生地に、何かふんわりとした、レースのような布を重ねてあるスカートになっている。それに、カーキ色の、少しばかりミリタリーテイストなコートを合わせていて、まあ、要するに、とても可愛かった。

 しかも、しろくろに来た時は、それ以外に何故かネイビーの裾の長いエプロンを持って来ていて、三和土に入ってくるなり着け始めたので、何をするのかと思いきや、

 『今日は、さすがに爪が怖いので。引っかかったら、大変なことになります』

 そう言って、さらには肘までもある腕カバー(お母さんの部屋から借りて来たそうだ)まで装着してしまうと、飛んできた白玉を、見る間に宥めすかし、大人しくさせて。

 そのまま抱き上げ、和室ゾーンに連れて行くと、他の猫どももぞろぞろとついて行って、しばらく五匹相手に、内緒話をするように小声で、何事か言い聞かせていたかと思うと、彼女を見上げた白玉が、んなっ、と短く鳴いて。

 遠巻きにその様子を窺っていた俺の足元に、のしのしとやってくると、緑の瞳をじっと向けて、ふん、と偉そうに鼻を鳴らしてきた。どうやら、お許しが出た、というわけだ。

 「朝から、ほんとに不機嫌極まりなくて。あんなにあっさり送り出してくれるとか……中屋さん、あいつに何て言ったんですか?」

 エンジンのスタートボタンを押しながらそう尋ねてみると、彼女は大きく目を見開いて、

 「ええと、ひ、秘密です」

 それだけを言って、珍しいことにふい、と顔をそらしてしまった。その動きにつれて、後ろで高く結い上げた髪の先が、跳ねるように揺れるのに、俺は眉を上げた。

 ブラウンのそれを飾っているのは、俺が贈った、白のシュシュだった。

 どういう構造かはよく分からないが、いわゆるポニーテールの結び目になるあたりに、ふわっとした感じのお団子が作られていて、その周りを上手くシュシュが囲っている。

 そして、いつもとは違いくるくると巻いた毛先が、首元に自然に垂らされていて。

 尻尾みたいだ、と思いながら、アイドリングのまま、俺がぼうっと車を動かせずにいるのに気付いたのか、そっと顔を戻してきた中屋さんは、困ったような表情を向けてくると、

 「あの、ほんとに、お願いしただけなんです。店長さんもわたしもちゃんと戻ってくるから、って」

 「あ、いや、無理に聞こうとしてたわけじゃなくて……それ、使ってくださってるので」

 自身の頭に手をやって、そう示してみると、彼女はまたさっと頬を染めて、俯いて。


 「……今日は、特別なので」


 耳に届くか届かないかの小さな声で、ぽつりとそう零すと、膝に置いた鞄の持ち手を、細い指が、きゅっと握りしめる。

 その仕草に、身体の奥底から言いようのない感情が沸き上がって、反射的にまずい、とストッパーがかかる。どうしようもないほどの嬉しさや、とても似合っていることを伝えたくても、一言でも口にすれば、他のもろもろまでが出てきてしまいそうで。

 「あー……その、有難うございます」

 結局、どうとでも取れる曖昧な言葉に逃げてしまうと、俺はそのまま車を出した。

 慣れた道で助かった、と思いながらウィンカーを出し、対向車が来ないことを確認して、さっと右折する。未だ、微妙な雰囲気が続いているのを感じながらも、万が一にも事故るわけにはいかない。集中集中、と呪文のように内心で唱えながら、駅前通りに出る。

 そこそこの込み具合の道を進みながら、前方の交差点の信号が赤に変わるのを認めて、前の車両に合わせて、緩やかに速度を落とす。

 と、停止すると同時に、何気なく外に目をやっていた中屋さんが、あ、と声を上げた。

 「どうしました?何かあったんですか?」

 「あ、えっと、あそこに……」

 うろたえながらもそう応じた彼女が、指先で示した先を見てみれば、なんともふざけた光景が待ち受けていた。

 リーヴル長月の一階の宣伝ブース、その湾曲したガラス面に張り付くようにして並んでいるのは、四人。中心が吉野さん、その右に敦子さん、左には友永さんと、バレンタインメンバーが揃ってこちらを見下ろしていて。

 さらに業腹なことに、いったいどういう連携なのか、萩原さんまでちゃっかり並んで、相変わらずの食えない笑みを浮かべている。

 残る男二人のにやにや笑いも、大概ダメージがきついが、敦子さんなどは、やけににこにこと嬉しそうに手を振っていて、中屋さんもおずおずと、手を上げて振り返していて。


 ……やっぱり、別に車借りればよかった。


 まさか、この前を通るまでずっと待ってたわけじゃないだろうな、などと思いながら、思わず口元を歪める。

 いくらなんでも、出掛けるのに猫ステッカーまみれのこの車ではあまりにも締まらないだろう、ということで、行き先相談の折に、借りる車種はどんなタイプがいいですか、ともちろん彼女に打診はしたのだが、お店の車がいいです、と即答されてしまったのだ。

 気に入ってくれているのは素直に嬉しいが、それが災いしたことを心中で呪いながら、頼むから今すぐ青になってくれ、と、俺は念じるように眉を寄せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る