神さま、お願い
雪が払いのけられた庭には、数多の魔法陣が敷かれていた。描かれた陣も文字も見たことがなく、俺には読めない。
「ミランダ、読めるか?」
「いえ、読めません……けど、絵本のお話が本当にあった話だとしたら、これらの魔法陣は葬儀に使用したのは間違いないと思うのですが……」
そう言って、ミランダはちらとレオニートを見た。
レオニートは小さく頷きながら、いくつかの魔法陣の間を歩き回っていた。
「うむ。どうやらこれらは、墓碑の代わりのようだの」
「墓碑ですか? 魔法陣が?」
「我の一族の墓碑ではないぞ? 我より以前の、監督者として死んだ者の墓碑のようなものらしい。よく見てみるとよい。陣に描かれた模様は、どれも我らが一人ひとつ持つ印章よ。歴代の監督者すべての墓碑ではないようだがの」
むふー、と鼻で息をつき、腕を組んだ。久々の新たな知識にご満悦のようだ。
だが、すぐにその顔がわずかに曇った。
「まさか先代たちの墓碑を眺めて茶を飲んでいたとはの。無知は罪とは、よく言ったものよの」
「そうとも言えませんよ」
ミランダが参列者の前で語るときのような慈愛に満ちた声を出した。
「前任の監督者? の方々も、この庭が雪で覆われることは知っていたはずです。なればこそ、墓碑を前に涙を流すよりも、墓碑を隠して、住まう土地を愛せという言葉の代わりにしているのかもしれません」
もっともらしい理屈に聞こえる。しかしそれは、俺が人族だからかもしれない。
魔族にとって命は永遠のものから短命のものまで千差万別だ。長命の種族にとっては自分の死は遺族にとって長く残る。短命の種族ではその逆となる。
長命種族にとってはともかく、短命種族にとって墓碑は重要な個人を思い返すきっかけではないのだろうか。もっとも、短命ゆえに覚えておいてもらってはいくつ墓碑があっても足りないということはおきるかもしれないが――。
それでなくても監督者として選ばれるのは名誉ではないのだろうか。自らの名にか関わる役職ならば、任期中の死は同族の訪れる墓碑を求めるのでは。
「ふむ。つまりは忘れられるように、ということか。それは、我にも分かるの」
レオニートはまるで旧友を懐かしむような目をして、墓碑を眺めた。
ふと思う。不死者にとっての死者は、俺たちにとっての死者とは違うのだろうか。
頭に浮かんだその疑問が、レオニートが死を選んだ理由の一端を教えてくれた。
仮に不死者が旧知の死すべてを記憶しているのなら、その寂寥感は想像を絶する。自ら死を望みたくなるのも頷ける話だ。
逆にすべてを忘れていくのだとしたら、それは孤独という名の拷問だ。周囲を誰かが通り過ぎて行くだけで、誰が横切ったのか覚えてすらいない。世界でただ一人、自分だけが歩いていく。
空白の世界に存在を許された数少ない生き物。それがレオニートだ。死者の列に加わりたい。言い換えれば、彼はみなと同じになりたかっただけなのかもしれない。
俺は首を振って、疑問を払った。本人が語らないのなら、葬儀屋として聞く必要はない。語られたときにだけ応えるのが正道だ。
「――で、ミランダさん。この中にヨーキさまの魔法陣はあるんですかね? レオニート様には改宗してもらわないといけないですし」
「ありませんね」
にべもない。けれどミランダは力強く続けた。
「ですが、ここが墓地なら、墓守の私が魔法陣をつくることもできます」
「墓地って……えっと」
なにをする気なのかと思いつつ、レオニートに了解を求める。
例のごとくの不敵な笑みだ。顔を維持したままゆっくり頷く。許可が出た。
それを伝えようと首を振る。
が、ミランダはすでに凍土に杖を突き、何かを描き始めていた。
魔法陣の中心にレオニートを立たせ、ミランダは両手を広げ叫んだ。
「偉大なる死の女神ヨーキ=ナハルよ! 生の穢れに耐え忍ぶ我ら……」
唱えられる大仰な祈りの言葉も、ひどく懐かしく感じる。なんぞ、とばかりに顔を歪める依頼人の姿すら、ライト・シハナミへの郷愁を誘う。
俺、葬儀屋の仕事、好きだったっけか。
そんな疑問もどうでもよくなる。
早く仕事を終わらせて帰りたい。ミルをライト・シハナミに連れ帰ってやりたい。というか、離れていた数ヶ月の間にヨーキ=ナハル教への改宗の儀を魔法陣だけで執り行えるようになっているとは。
苦労させて申し訳ない。
とうとつに湧いてきた謝意を口の中でかみ殺す。まだ早い。全てを終えて、皆でライト・シハナミに戻って、それからでも遅くはないのだ。
風が吹いた。そして懐かしい気配を感じた。躰にまとわりつくような恐怖と地の底へ引きずり込もうかという――おかしい。
それほどでもない。首を振るとミルと目が合った。かくん、と小首を傾げた。あいつにとっても、何かがおかしいらしい。
「……この者、レオニートを我ら死を待ち望む者たちの列へ加えたまえ!」
祈りは最後の言葉に達した。魔法陣の中央に立つレオニートの足元から、闇色の手が……伸びない。
「あ、あれ?」
ミランダはわたわたと杖を振り、石突で魔法陣を叩いた。
なにも起きない。
「どうしました? やっぱり神像がないとダメですか?」
「い、いえ! そんなはずはっ」
肩掛けの鞄から小さな手帳を取り出し、パラパラと頁をめくりだす。確認しながら杖を振り振り、地面を叩いて、小さな声で何かを呟く。
レオニートへ手をかざして一言。
「この者を我が同胞へと導かん!」
呪文が違う。続く動作は同じ。例のごとく呪文はオリジナルのカッコつけでしかないらしい。だがそれは問題はではない。
問題は――なにも起きないことだ。
いやしかし、考えてみれば当たり前のことかもしれない。ヨーキ=ナハルは人の神でしかなく、魔族をその信仰の列に加えたりしないのかもしれない――。
『――んなわけないでしょーが! バカ!』
「のわっ」
思わず声をあげてしまった。脳内に直接声が響くのは久々だ。
ミランダが目を丸くしてこちらを見ている。どうやら彼女にはヨーキ=ナハルの声が届いていないらしい。
なぜ、俺。
『ちょっっっとばかし、可愛がってあげるといったでしょ? 神の言葉を忘れた?』
そういや、んなこと言われたな。
俺の足元に闇が広がった。躰が闇に呑まれ、泥のように溶けていく。久しく使っていなかった
おそらく、ヨーキ=ナハルが俺を呼んでいる。意識が遠のいていく……。
……。
…………。
………………。
「はっ」
意識を取り戻した俺を取り囲んでいたのは闇だ。懐かしい。天地も分からず、目を開いているのかも分からない。音もなく、熱くも寒くもなく、頼りになるのは肌感覚だけ。死の女神ヨーキ=ナハルの謁見室とでもいうべき世界だ。
「お久しぶりです」
とりあえず、そう呟いてみる。
「私にとっては久しぶりというほど昔の話じゃないし」
その声は背後からした。
相変わらず耳から入って頭を痺れさせるような声音をしている。
声の主の顔を見ようと、俺は振り向いた。そこにあったのは闇。
「私の顔をこっちだけど?」
言われて首を振る。また闇。からかわれている。
ため息をつきたくなるのをこらえて、口を開いた。
「俺に用があって呼び出したのではないんですか?」
「つまらない反応。まぁいいわ」
その音が聞こえた次の瞬間、鼻先が触れあいそうな距離に女神が姿を現した。
ごくり。
と、喉が鳴った。思わず生唾を飲み込んでいた。
吸い込まれそうな黒曜石より深い黒を湛える瞳がこちらを見ている。
ヨーキ=ナハルは満足そうに微笑み、俺の胸に手を添え、押してきた。たいして力は込められていなかったのだが、足に力が入らず腑抜けたように尻餅をついた。
久しくその姿をみせた死の女神は――胸元がガバっと開きやたらと短いスカートでを着ていた。趣味の悪いことに、大きなサイドスリットに通された数本の紐で、それら申し訳程度の布は服としての機能をかろうじて保っている。
つまりは、
「……またデーハーの服に戻したんですか?」
「考え方を変えたかんね」
「はい?」
「神が流行に従うなんてダサいしょ? だから、私が流行を作ることにしたの」
「そ、そうですか……」
人族のごく局所的な世界ではすでに流行を作ってますけどね。
口の中だけで呟き、俺は本題に入った。
「それで、えぇと、なぜレオニート様の改宗は――」
「レオニート、様ぁ?」
ヨーキ=ナハルは眉間に皺を刻み込み、鋭い目をして俺を見下ろした。背筋を撫で上げる指先の甘い感触は、這い回る毒蟲の足へと変わる。痺れの意味がまるで違う。
俺は慌てて尋ね返した。声が上ずっていた。
「も、もちろん俺の信仰の対象はヨーキ様だけですよ! ただ、彼は依頼人で――」
「んなことは分かってるっつの!」
怒号は雷鳴の如く。
これが普通の相手なら、俺だって対策を考えてから口を開くだろう。
しかし相手は怒りで双眸燃え上がらせる死の女神である。こちらの浅知恵など読もうと思えば顔に出ているどころか耳から直接聞き取るのとそう違いはない。
となれば、これはもうヤケクソである。潔く、自分の考えをぶつけるしかない。
「ヨーキ=ナハル様は人族の神であらせられますから、やはり魔族が加護を望んだとしても与えられはしないのでしょうか?」
「なに? 改まって。バカにしないでくんない? 私は死の女神ヨーキ=ナハル様よ? 断じて、あんたら、人族の神なんかじゃないっつの」
死は全ての命に等しく平等に、ということか。
「ならばなぜ」
「不死者はなぜ死をもたないか。私が与えなかったからに決まってるでしょ?」
「なるほど……はぁ!? 与えなかった!? つまり、レオニートはヨーキ様が不死者にしたってことですか!?」
「ギャンギャン怒鳴るな下僕ぅ!」
再び飛んだ雷鳴じみた怒声。身が縮み込む。
ヨーキ=ナハルは両手を腰に、前かがみになって俺の目を覗き込んだ。
「レオニートなんて小僧は知らないわ。私が呪ったのは、そのもっと前の男よ」
「ど、どういうことなんです? 死を奪った?」
「まぁ、色々あったわけよ。ずぅぅぅっっっと、昔。まさか呪いを知ったうえで子孫を残すことに執着するとは、思ってもみなかったけど」
「……どういう御関係だったのか、聞いてみてもよろしいですか?」
「もう聞いてるじゃない。まぁ、答える気はないわ」
ヨーキ=ナハルは俺に手を差し出した。その手を掴むと、すぐに引っ張り起こされた。足元がふわふわとして心許ない。
レオニートが、というより、彼の遠い祖先が神の怒りに触れて不死者になったのだとしたら。そして先の言葉が真実ならば。
不死は一族に課せられた呪いなのだ。言い換えれば、ミランダの蘇生封印の解釈は間違って――、
「どうしてあんたは直線的に物事を繋げようとすんの」
「はっ? えっ?」
「私は一族郎党を呪ったわけじゃないし、あの墓守の解釈もそう間違っちゃいない」
「……いよいよ分からなくなってきたんですが」
「言った通りよ。私が死を奪ったのはあの呪われた子の祖先だけだっての。ただルールをつけた。子を成せばその子も死を持たぬまま生まれるってルールをね。それでもあいつは子を成した。その子もまた子を作り、呪われた子が生まれた。親の因果が子に報い、ってやつ。まさにね」
言って、ヨーキ=ナハルは寂しげな眼差しを虚空に向けた。戻れぬ遠い昔を懐かしむような目だ。
相手が人間の女なら迷わず慰めの言葉をかける。だがヨーキ=ナハルは死の女神。信徒に慰められるなど、よほどこたえるかもしれない。
「神といっても女は女。慰めの言葉が欲しい時もあるんだけど?」
「……だったら、なおさら言わない方がよさそうですね」
「どうして?」
「昔、盗賊ギルドの先達に教わりましたよ。女に頼みごとをする前は、必ず慰めてやってからにしろって言っていました。彼はジゴロで、詐欺師だった」
「……あんたは私の信徒だかんね」
ふん、と鼻を鳴らして、ヨーキ=ナハルは言った。
「神が地を這う者との
「……昔なにがあったのかは敢えて尋ねません。けれど、子孫のレオニートが死を望んでいるというのに成せないとあれば、それは不幸なことでは?」
「私の話、意味が分からなかった?」
「そうではなく、レオニートに死を与えたとしても、かつての祖先に負けたことにはならないのではないか。そう言っているんです。親の因果とは言ってもはるか遠い先祖の話でしょう。いまのレオニートには関係がないはずだ」
死の女神が了承しなければ、レオニートは死ねない。躰が崩壊しようと魂だけになろうと、消して滅びはしないのだろう。どれほどの時間が必要なのかは知らないが、いずれは躰を取り戻し、再び生き続けることを強いられるのだろう。
命ある者にとっては拷問以外の何物でもない。
いくら先祖とヨーキ=ナハルの間になにがあったのだとしても、それを子にも強いるとあれば、悪神と蔑まれるのも仕方ない。
「それがあんたの本心ってことでいいわけ? 私を侮辱してる?」
「侮辱なんて。真実みたいなもんでしょう」
「いまこの場であんたの魂、砕いてやってもいいんだけど?」
「そんなことのために俺をこの場に呼んだんですか? それこそ、今回の件で何か俺に伝えたいことがあったから、俺を呼んでくれたのではないんですか?」
ヨーキ=ナハルは小さく舌打ちした。
「まったく、腹の立つ子だわ。傍系のくせに。まぁ、そういう生意気なところが気に入っているんだけど」
「そう言って頂ければ幸いですよ。で、なにを俺に伝えたいのですか?」
「ミランダに伝えなさい。改宗は不要よ。あの呪われた子は、呪いをもって私の信徒も同じ。彼女の解釈通りでいいの。蘇生封印を施して、あとは殺せばいいだけ。死体は焼いて骨にし、私の与えた骨壺に収めて砕きなさい。それで呪われた子は死ねる」
「骨壺を、与えたんですか」
「えぇ」
短く答えて、ヨーキ=ナハルは再び漆黒の空間に目をやった。
それは死の女神なりの、最大限の妥協だったのだろう。本人を許せずとも、その子孫については抜け道を用意してやる。
もしかすると、ユーツの騒動でヨーキ様が激高したのも……。
「それは考え過ぎよ。人間はいつだってそうだけど」
微苦笑を浮かべてヨーキは言った。
「さぁ、地上に戻り伝えなさい。これ以上の手は貸せないわ。それは神が地を這う者に屈したことになるだろうからね」
「えっ、あの、俺たちの力だけでレオニートを倒せと!?」
意識が遠のき、混濁していく。躰が泥のように溶けていく。
滲む視界の中で、ヨーキ=ナハルはサディステックに唇の両端を吊り上げていた。
「魔王を倒すのは人族の使命っしょ? 私はンなことどうでもいいし、死者は多けりゃ多いほど、ありがたいのよ」
ざけんな。
俺の意識はぷつりと途切れた。
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