決死

 間近に迫る雲海は重く、分厚く、真昼間とは思えぬ暗さを作りだしていた。

 吹きすさぶ寒風と雪の飛沫は、決戦を控えたレオニートの演出なのだろうか。

 躰が凍える。

 あるいは決戦に備え、人の弱さを利用するための策なのだろうか。

 悴む指でレザーポーチに触れる。毒薬の詰まった小瓶は、たしかにそこにあった。


 レオニートはこちらの指定に従い、庭で一人佇んでいた。身に纏う黒衣が風雨にさらされている。すでに俺たちを守る結界は、その役目を終えたのだろう。

 代わりに、巨大な蛇にのみこまれたかのような息苦しさを感じる。

 微苦笑を浮かべたタラスが、別れ際に「ご武運を」と小さく呟いた。

 どちらに対して言ったのだろうか。

 

 俺たちは左右に散開しつつ、レオニートの背中に接近していった。

 薄く張った雪を踏みしめ、一歩ずつ慎重に足を進める。音を消す意味があるのかは分からない。しかし取れる策は全て取り、一瞬で終わらせなければならない。おそらく不死のレオニートは、そう望めば、永遠に等しく戦い続けられるはずだ。

 ふいにレオニートが振り向いた。


「来たか、人間!」


 叫ぶようにして言って、カカカ、と笑った。


「一度言ってみたかったのだ! これで思い残すことはない!」


 緋色の瞳が光跡を残す。

 ずん、と庭園の空気が重くなった。


「ではレオニートさま。よい旅立ちを」

「うむ。我を死なせてみせよ! 人の子よ!」


 ひときわ風が強まった。俺の白い吐息が背後に流されていく。

 駆ける――。膨れ上がる殺気。風雨に糸のような切れ目が見えた。

 見えない刃が滑ってきている!

 咄嗟にしゃがむと、次の瞬間には大地が鳴動していた。暴力的な風に押しとどめられ、俺は地に伏せてこらえるしかなかった。


 動けない。しかしすでに百の闇色の矢が迫ってきていた。

 ヨーキ=ナハルの力はどうなってんだ!

 俺は心中で叫んだ。口を開けば潜り込んでくる冷気に躰をやられる。

 百の矢が分かれて千になる。飛びかかる千の矢は瞬く間もなく万を超えた。

 闇色の矢は雲霞となった。


 絶死を感じたその瞬間、硝子の砕けるような音がした。

 闇色の矢が霧散する。

 見れば、ミランダが杖を床に突きたてていた。


「死の庭は我が神の庭! 神の命は我が言葉!」


 なんだそりゃ。

 レオニートの宣言に感化でもされたのか、ミランダはノリノリだった。


「我ら死を知る者也! 死を知らぬ者に、我が神の鉄槌を!」


 しかし、その言葉と力は本物だ。杖で地面を打つと同時に、レオニートの足元から紫色の光が溢れた。天まで伸びる光は魔法陣が発する光だ。


「なんとっ、これは!?」


 レオニートの紅眼が驚愕と歓喜を見せた。

 死の庭の番犬たるミランダの命に従い、神の御業が不死者の操る力を封じる。すべてを押し流すかのような凍てつく風が弱まり――、

 消えた。


「エステル・オーガスタ・ツヴァンツヒ・グラーフィン・フォン・ケンプフェル!!」


 雪と混じって半ば保護色と化した白銀の鎧を身に纏い、小さな騎士が飛び出した。


「推参つかまつりますわ!」


 名乗るのか。奇襲で飛び出るはずじゃなかったか。というか話は通ってるから押し入ってはいないぞ。

 そう思っている間にもエステルはレオニートに肉薄し、身の丈を超える大剣ツヴァイ・ヘンダーの『ミルクちゃん』が横薙ぎに振られた。


「どっせぇぇぇぇぇぇい!」


 裂帛というにはいささか豪快な気合いと共に、長大な白銀が閃いた。

 しかし。


「なっ……!」

「その意気やよし――だが、足らんの」


 振り抜かれるはずだった刀身を、レオニートが指先がつまんで止めた。空いた手が引かれている。


 ――やばい。

「ちょいやぁぁぁぁッスぅ!」


 お間抜けな喊声。レオニートの背後から放たれる中空三回転からの蹴り。引かれていた腕が立ち受け止めた。


「騒がしくなってきおったの!」


 レオニートは爛々と目を光らせ、ミルの足を掴んだ。


「ふぉっ!? は、放し――」

「うむ。放そう」


 言って、エステルの躰に叩きつけるかのように投げつける。二人の躰は悲鳴を残して転がっていく。舞い上げられた雪が煙となって、俺とレオニートを分かつ――その瞬間。

 俺は彼の手が妖しげな光を放つのを見た。


死霊忌避術ターン・アンデッド!」


 ジークバカの声。間を置かず光が満ちた。途端。泣き女バンシーの金切り声にも似た擦過音が響いた。光の力が破砕されてしまった音だ。

 想定通り。というか、ようやく作戦通りにコトが運びつつある。


「シャドウ・ステップ!」


 躰が溶ける。轟音。暗闇と同化してなお目が眩むほどの緋色の光線。俺の躰が影に引きずり込まれる。影を渡る最中さなかにも感じる、躰が引き裂かれるような痛み。服毒の苦しみだ。

 俺は詠唱を終えた直後に毒薬を飲み下していた。

 躰が液体のように流れ、外界へと押し出されていく――。


 ――ずぐり。


 俺の躰に何かがめり込んだ。目が光を取り戻す。細い腕だ。


「影を渡る術は我も知っておっての」


 不死者の瞳が紅い光跡を残して笑った。腕が勢いよく引き抜かれ、俺の胸から血の塊が吹き出した。零れ落ちる赤々とした血液。狙い通り。

 あまりの痛みに躰はすでに痛覚を遮断している。苦しみは直に終わる。


「……っ、あっ、かっ……」

 ――しくじった。


 声が出ない。詠唱しねぇとダメなのに。声だけが、どうしても出てくれない。肺から空気が抜けてしまっているらしい。膝に力が入らない。

 遠のく意識が俺の目を霞ませる。死ぬ。しくじって、死ぬ。

 視野が唐突に復活する。足元に血だまりが見えた。流したばかりの毒入りの血だ。顔をあげると、レオニートは背を向けていた。腕にはべっとりと俺の血が付着している。これ以上の状況把握は時間の無駄だ。


「ブラッド・ミスト!」


 足元でヨーキ=ナハルの魔法陣が輝く。猛毒混じりの血が腐臭漂う霧と化す。  

 毒を使う案は真っ先に考えた。切り札になるとも思っていた。しかし、問題は毒を躰に入れる方法だ。服毒させるのも毒を塗布したダガーで肌を傷つけるのも、俺たちには不可能に思えた。だからこそ、皆の反対を押し切り、以前アンブロジアがやってみせた使い方を蘇生魔法交じりで模倣したのだ。


「おおっ!? やりおるの!」


 レオニートの楽しげな声は、真っ黒い血の霧の中から聞こえた。霧の中で一呼吸でもすれば、毒は躰に入る。咳き込む声が聞こえた。成功だ。苦悶の声に変わる。間違いなく効果が出ている――のだが、

 この時点で俺が生きているのはマズい。

 本来の作戦では、俺がくたばる前に霧を作る手はずだったのだ。


 術者が死んでも霧はしばらく残る。レオニートが霧に巻かれて死んだ後、蘇生魔法で起こしてもらう予定だったのだ。

 ジークは、蘇生は一回か二回が限度だと言っていた。この時点で一回。周囲には霧が残っている。止めていた息が続く無くなりそうだ。呼吸すれば俺はもう一度死ぬ。その時点で二度目になる。


 目の奥がチカチカと明滅する。蘇生魔法が誕生して以来、久しく忘れていた感情が蘇る。本物の、死への恐怖だ。決死の作戦を立てたのは俺だが、本当に死にたくはない。叫びたい。だが何を叫べばいいってんだ。叫べば死ぬだけだ。

 そのとき、腐臭が吹き飛んだ。

 赤熱する感情を乗せ、熱風が吹いたのだ。


「ルルォォォォォォォァァァアア!!」


 レオニートの獣のような咆哮があった。全身を押しつぶすかのような圧力を感じ、俺は思わず瞼を開けた。

 そこには、苦しみながらも未だに死ねぬ怒りに満ちた、魔王の姿があった。俺は怒れる王の双肩に、朧に輝く悪魔の翼を幻視した。


「まだ我は死ねぬようだの、ネイト!」


 自ら望んだ決戦のはずだというのに。長く続けば魔族の本性が表に出るのか。

 あるいは、またしても死ねないという絶望を、ぶつけられているのか。

 レオニートの血にまみれた右腕が上がり、引かれた。

 そして、まるで大地を抉り取るかのように――、


「シャドウ・ステップ!」


 振り抜かれた。

 影を抜け出た俺が見たのは、結界ごと天空を裂く、巨大な刃だった。

 勝てない。

 そう直感した。

 そしてまた、俺は、心の底から、立てた作戦を後悔した。


 レオニートは、毒薬で意識が朦朧としていた。

 普段の彼ならこの時点で戦いを止めてくれただろう。しかし今は、その魔人の痩躯を揺らめかし、瞳には狂気すら漂っている。諦念を超えた先に立つ魔族の王は、何もかもを飲み込もうとしているかに思えた。

 手始めに、俺から。


 ゆらり、とレオニートが近づいてきた。明確に感じる怒りと殺意。俺からすれば八つ当たりを受けるも同然だ。

 しかし彼にとっては、夢現の中の出来事なのかもしれない。

 俺とレオニートを分かつように、白銀が閃いた。


「どっせぇぇぇい!」


 しかし白銀の刃はあっさり両断され、刃先だけがどこかへ飛んで行ってしまった。


「あ、えっ、ミ、ミルク――」


 響く打音。白銀の鎧がひしゃげた音だ。エステルの躰は大地で二度跳ね転がった。

 新たに一歩、絶望に暮れる魔王が近づいてきた。

 緋色の瞳が俺を見下ろす。顔中に青黒い血管が浮き立っていた。毒が回っているはずなのに、未だ死ねずにいる。痛みと苦しみが彼の足を支えているのだろう。


 地鳴り。


 俺はレオニートが立てた音だと思った。すぐに違うと気付いた。魔王は俺の頭を越して、何かを見ていた。

 つられて、俺も振り向いた。


「――ふぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」


 瞑目したミルが、真っ赤な手甲を身につけ、呼気を整えていた。いつもよりもずっと深い呼吸。防寒着を脱ぎ捨てた躰が、薄っすらと翡翠色に輝いていた。


「ぉぉぉぉぉぉぉぉおおおお!」


 その呼気は竜の咆哮に等しい。震脚。大地が押しつぶされた。右の拳がゆっくりと引かれる。開かれた左の手が、狙いをつけるかのようにこちら伸びた。

 ミルの碧眼が魔王と同じく光跡の尾を引いた。


「受けてみろぉぉぉぉぉぉ!」


 喊声。再びの震脚――違う。踏み込んだのだ。

 突きだされたミルの拳が、光を放った。

 無音。

 翠色の光は一瞬で消えた。遅れて大地がまっすぐに引き裂かれ、舞い散る雪と風が渦を巻く。どしゃり、と背後で音がした。


 黒衣の魔王は両膝をついていた。胸には拳大の穴が穿たれている。青黒い血に赤が混じる。俺の毒交じりの血液なのだろうか。

 レオニートの目が正気を取り戻す。その小さな手が、胸の傷に触れた。


「これは、なんと……」


 俺はダガーを引き抜き、告げた。


「良い旅を」


 首筋に刃をあてがうと、魔王が安堵の微笑みを浮かべた。


「うむ。我は満足である」


 俺は刃を真横に滑らせた。

 崩れかけたヨーキ=ナハルの魔法陣が妖しく輝く。這い出るように細腕が伸び、魔王の躰に絡みついていく。

 

 俺は魔法陣の中心にレオニートの躰を横たえた。

 死の女神ヨーキ=ナハルの声はなかった。ただ、魔族の監督者たるレオニートの魂を、地の底へと引きずり込んでいった。

 終わった。

 そう思った瞬間、全身から一気に力が抜けた。


「よくやったぞ、ミル!」


 膝に手をつき振り向くと、ミルもフラフラとした足取りになっていた。今までにも何度か『全力ぱんちッス』を使うのを見たが、今日のは一段と凄かった。

 その分体力の消耗も凄いのか、ミルは俺の前で体勢を崩した。


「っと! おい、大丈夫か? お手柄だったぞミル! 街に戻ったらプリム・ローズで好きなだけパンを――」


 返事がなかった。呼吸も酷く荒い。躰も異常に冷たい。


 ――冗談じゃねぇ。

「おい! ミル! ミル!? しっかりしろ!」

「センパァイ……」


 ようやく聞こえた声は力なく、上げられた顔は青白くなっていた。


「センパイが無事で、良かったッスよぉ……」

「おい!? なに言ってんだ!?」

「センパイ……ボク、ちょっと――」

「おい! バカ! 待て待て待て! なに言って――」

「眠くなっちゃったっス……」


 ミルの手は、俺の頬を一撫でして、ぱたりと落ちた。

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