1 なめくじ男と心の声が反対に聞こえるイヤホン その3
空が夕焼けに染まると、この場所はオレともうひとり以外はだれもいなくなった。放課後の教室に取り残されたオレと、もうひとり。
「どうだった、江久保? さかさかホンを初めてつけてみた感じは」
もうひとりがなにか言ってる。まったく、大きなひとり言だ。
「訊くまでもないか。その死んだ魚みたいな目を見れば」
もうひとりが、なぜかオレの目をのぞきこんでくる。
「なにかよっぽどショックなことがあったみたいだね」
今気づいた。もうひとりは黒井だ。じゃ、オレはなんで他のみんなが帰るまで自分の席に座りっぱなしだったのだろう。
耳たぶがヒリヒリする。ふいによみがえる。授業中にさかさまホンのせいで泣いた記憶が。
そうだ。あのあと、自分を憎悪する声が聞こえないように、さかさまホンを何度もはずそうとしたんだ。それなのに、どうしてもはずれなかった。耳たぶがヒリヒリするのはそのせいか。
「いったいなにがあったのさ。なにがあったとしても聞いておきたいんだけど、なにか言え。と言っても『なにか』と言うのはなしだぞ。『なにか』以外のなにかを言え」
「えっ、ごめん。今までオレに話しかけてたことに気づかなかった」
「よかった。さっきぼくはとんでもないミスを犯してしまったよ。もしきみが、ぼくの問いに『なにか以外のなにか』と答えてしまったら、ぼくはあやうく無限ループしてしまうところだった」
ほっとしたような、あきれたような、ため息がオレの口からひとりでにもれる。
まったく、人の気も知らないで。
「いや、黒井が思っているよりも、さかさまホンをつけてよかったよ。みんなから『イケメン』と言われるのも、たまにはいい」なんでもないように、平気な顔をしてみせる。
「そうか。それなら、もう少しさかさまホンをつけたままにするか?」
「いや、それはやめとく」すかさず断る。
「どうした? 遠慮するなよ。なんなら一生そのままにしてやってもいいんだぜ」
満面の笑みを浮かべながら、とんでもない要求をしてくる。さすがに本当のことを口にしないと、納得してくれないみたいだ。お前なんか人間じゃない。この鬼、悪魔、なめくじ宇宙人め。
「みんなから『イケメン』と言われるたび、うれしいんだけど、少しせつなくもなるんだ」
声が涙ぐむのが自分でもわかる。
「最初はさ、自分のことカッコいいかもって浮かれちゃったよ。けど何回も『イケメン』と聞くと、イヤでも気づく。それだけみんなから、ブサイクだと思われるんだなって」
「意外だな。きみなら自分がブサイクなことにとっくの間に気づいていたと思ってた」
「そりゃあ、オレだって気づいてたよ。でも、これほどまでとは思わなかった。だれかと擦れ違うたび『イケメン』や『気持ちいい』と言われる。それに名前も顔も知らないヤツまで『キレイ』と言われる。終いには、クラスの女子のほとんどから『好き』と言われるんだぜ。オレにはたえられないよ」
『生きろ』とまで言われたことは口にできない。
「なに言ってんだ。ちゃんと本当の心の声に翻訳してくれないとわからないよ」
「それをお前はオレの口から言わせるのかッ!?」
「またまた、なに怒ってるんだよ。江久保はいつも『ブサイク』とはっきり言われてるじゃないか」
あまりの言い草にカチンときた。机から立ち上がり、思いっきり拳を振り上げる。
「遠まわしに言われる方が傷つくんだよッ! 結局、このさかさまホンは自分をなぐさめる現実逃避のために作られた道具なんだぁッ!!」
壁に思い切りたたきつけた拳が痛かった。
「なんでぼくを殴らないんだよ」
「だってお前殴ると、ヌルヌルとして気持ち悪いんだもん」お茶目な声を出して、その場を取り繕うような苦笑いをついしてしまった。
黒井の口からため息がもれる。そんな冷めたい目でオレを見ないでくれ。
「きみの笑顔はホントカッコ悪いな。それだから、みんなから(ブサイク)や(キモイ)や(キタナイ)や(キライ)と言われるんだ」
「わざわざ翻訳して言うなッ!」
「現実から目を背けるなよ。きみが言った通り、さかさまホンは現実逃避のための道具だ。もうはずすか?」
「今すぐにはずせ! そして無理やりこれを取りつけたお詫びをしろ」
「わかったよ。はずしてやるよ。ちぇっ、もっといいデータを取りたかったのに」
こいつ、授業が終わって泣き疲れたオレをずっとニヤニヤしながら見てたな。完全に楽しんでやがった。
「冷たっ、なにするんだよ?」右耳に湿った感触を感じる。
「なにって、さっきトイレで濡らしてきたハンカチをさかさまホンにつけてるんだよ。ほらはずれた」黒いイヤホンが黒井の手のひらに載ってる。
「水をかけるとふやけて簡単にはずれるんだ」
「はずすのに、どうしてそんな手間がかかるんだ?」
「そういうふうにしないと、はずれないようにロックをかけておいたんだ。その証拠にハートホンの方は取りはずし自由だったろう」
「なんでそんな機能がついてるんだよ?」
「そりゃ、もちろん簡単にはずれないためだよ。決してイヤがる実験体が勝手にはずさないためなんかではない」
「ま、いい。はずしたんなら、ささっと謝れ」
「ハイハイ、スミマセン、ゴメンナサイデシタ」
「今さら宇宙人らしく片言でしゃべりやがって、お前、謝る気ゼロだな」
「うるせえな。最初に言っただろ。こちらの道徳事情には通じてないんだ。だから、こんなときにどうやって謝ったらいいか、わからないんだ!」
「あ、開き直りやがった」
「地球にいる宇宙人は礼儀知らずばかりだよ。最近マナーを知らない人が増えたというけど、あれ全部宇宙人だから」
「どさくさに紛れて、もっともらしいウソつくな!」
「とにかくこれでいいだろう。これからクラブ見学でもして、もっと地球人ライフを楽しむことにするよ」
立ち去ろうとする黒井の腕をわしづかむ。
「待てよ。これでオレの気が済むと思ってるのか?」
「充分悪態はついたろう。そんなにぼくが地面に這いつくばって土下座しながらきみの靴の裏をなめる姿が見たいのか!?」
「人を極悪人みたいに言いやがって、悪いのはお前じゃないか」
つかんだ手が黒井の右手によって冷たく振り払われる。
「悪いけど、これ以上、謝ってるひまなんてないんだ」
「だれが謝れなんて言った?」
「へ?」黒井の動きが止まる。
「お前はオレと一緒にクラブ見学よりも、もっとおもしろいことをやってもらう」
「なんだ? ふたりでなめくじ男となめくじ宇宙人の夫婦漫才クラブでも作るのか?」
「お前、夫婦の意味わかってて言ってるのかッ!?」
「もちろんわかってて言ってみたんだ。結婚なんてぼくが女の戸籍を偽造して、婚姻届に判を押せば済む話だろう。きみなら、やりかねないじゃないか」
「勝手にオレをなめくじ宇宙人と結婚したいような変態にするな!!」
「じゃなかったら、どんなクラブなんだ?」
「そうだな。あえて名づけるなら『間城千広観察クラブ』なんてどうだ?」
「きみはどこまで変態なんだ?」
「誤解するな。間城にさかさまホンを渡して観察するだけさ」
「そんなことして、なんになる? きみは間城に個人的なうらみでもあるのか?」
「間城はお人よしだから、人生を甘く見てるところがあると思うんだ。だからさかさまホンで、それをたたき直してやる!」
「きみとちがって容姿に恵まれてるところがあるから、そう思うのもしかたない。けれど、間城にだって悩みのひとつぐらいはあるだろう。きみが思ってるよりも彼は人生を甘く見てはいないんじゃないか?」
「お前は会って間もないから、そう思うのもしかたない。けれど、間城は一度も悩んだり苦労したことがないんだよ。だから、これをつけて間城に人生のきびしさを教えてやる」
さかさまホンをつけた間城が『カッコ悪い』『キタナイ』『ブサイク』『憎い』『キライ』とけなされてる姿が目に浮かぶ。
「くだらない。きみがやろうとしてることは、ただの八つ当たりじゃないか」
「宇宙人のクセに結構まともなこというんだな。かなりグサッときたよ」
「わかったら、そんなみっともないことはやめろッ!」
「まあまあ、オレの言い分も聞けよ。間城は本当にお人よしなんだ。この前だって、ストーカーにつけまとわれてるのに、そのストーカーに個人情報を訊かれるままにしゃべっちゃたんだぜ。それだけじゃない。間城のなくなったジャージがネットオークションにかけられたときも、自分のジャージを自分で入札したんだ。しかも一万円まで払って、それなのに間城は運が悪かっただけだと言ってるんだ。あれはお人好し通り越して、ただのバカだ」
「それは……たしかにひどいな」
こいつまんまとだまされやがった! いくらなんでもそんなことが起こるわけないだろう。
ただ間城がストーカーにつけまとわれていたのと、盗まれたジャージが女子生徒の間で売買されていたのは、本当の話だが。
だけど、あのときだって間城は屈託のない顔でケロッとしてたんだ。それにオレから見れば、ぜいたくな悩みにしか過ぎない。
「でも間城がさかさまホンをつけて悪口を言われたとしても、それは反対になった言葉であって本当じゃないんだから、たいして効かないんじゃないか?」
「おいおい見くびってもらっては困る。間城にはさかさまホンを本当の心の声が聞こえるイヤホンとウソをついて渡すんだ。つまり、さかさまホンから聞こえる、血も涙もない悪口を真実だと思いこみ、間城は人間不信におちいるんだあぁッ!」
間城にはオレと同じ、嫌われ者の気持ちをたっぷりと味あわせてやる!
「それは……最高におもしろいな。まったく新しい実験データが取れるかもしれん」
ついに化けの皮がはがれたな、なめくじ宇宙人。
「でも、間城に普通に渡したとしても、信じてくれないじゃないか?」
「それは大丈夫だ。なにせ相手は世界一のお人好しといっていいくらいのバカだからな!」
「よし、入部するよ」
「じゃお前は副部長だ。もちろん部長はオレ。ここに間城千広観察クラブ、略してMKCの設立を宣言する!」
「「おうッ!」」
教室になめくじ宇宙人となめくじ男の声がこだまする。
それは奇しくも、地球人と宇宙人が初めて手と手を取り合った、奇跡的な瞬間だった。たぶん。
「目指せ、間城千広、人格破壊! 今までブサイクを見下した報いだッ!!」
「おうッ! 一度地球人の人格が破壊されるところを見てみたかったんだ」
でもオレたちの目的は地球や宇宙にはなんの影響も与えない、とても個人的なことだった。
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