1 なめくじ男と心の声が反対に聞こえるイヤホン その2
校舎に入り廊下を駆け抜けると、たくさんの声がさかさまホンを通して聞えてくる。
『次の体育はしっかりとやろう』
『早く授業がはじまらないかな』
『家に帰りたくない』
これがさかさまホンから聞こえる反対の心の声なのだろう。
本当の心の声に翻訳すると、こんな感じか。
『次の体育はしっかりとやろう』→(次の体育はめんどくさい)
『早く授業がはじまらないかな』→(早く授業を始めるな)
『家に帰りたくない』→(家に帰りたい)
みんな心の中では授業をサボりたくてうずうずしているんだな。
『あ、江久保が歩いてる』→(あ、江久保が走ってる)
となりのクラスの
『いつ見てもイケメン!』
「なにィッ!?」目の前の光景が百八十度、すべてひっくり返る。
今のはいったいなんだったんだ? 本当にオレに向けられた言葉なのか???
「なにやってんの?」上下逆さになった熱川から、あっけに取られたような声をかけられる。
勢いよくすっ転んであお向けになったまま、動けなかった。
この女は今までオレのことをそんなふうに見ていたのか!?
いや、落ち着け。そんなことは、オレがひっくり返ったせいで地球全体がひっくり返って、合計三百六十度ひっくり返って正常に戻るくらい、ありえない。
なにしろ、オレはこいつに一度告白してフラれたのだから。
そうだ。さかさまホンは心の声が反対になって聞こえるんだ。
ということは――。
『いつ見てもイケメン!』→(いつ見てもブサイクだな)
なんだ、そういうことか。オレは立ち上がり、熱川に向き直る。
「いや、なんでもない。自分がブサイクだと思われてると知って驚いただけ」
「今頃、そのことに気づいたのッ!」非難するような眼差しを向けられた。
「それ以上言わないでくれ。少しでもカッコイイと思われてると、かんちがいした自分が恥ずかしい」直ちに、その場から逃げるようにひた走る。
このイヤホンのせいで熱川に告白したときのことを思い出してしまった。中学一年のときの話だから四年も前になるくらい昔のことなのに、未だに覚えてるなんて……。
過去を振り切るようにスピードを上げていく。もう熱川に対して未練なんてないはずだ。あいつを好きになったのは、オレの人生最大の汚点なのだから。
蹴り上げる足に力をこめながら、頭を切り換えることにした。
そういえば、黒井がさかさまホンについてなにか言ってたな。ハートホンと合わせて使うと便利だとか、なんとか。
試しにハートホンを左の耳の穴に入れてみる。これで両方の耳の穴がふさがったわけだが、周りの音が聞えづらくなることはなかった。
つける前と変わらずクリアに聞える。たぶんこれで反対の心の声をいちいち頭の中で翻訳せずに済むのだろう。
耳を澄ませると、端々から『キレイ』→(汚い)とか『カッコいい』→(カッコ悪い)とかの声が聞こえてくる。
なんとなく黒井が「ブサイクなきみにこそふさわしい」と言ったのがわかった気がした。
『いいもの見ちゃった。気持ちいい』→(いやなもの見ちゃった。キモイ)
『あい変わらず美しい!』→(あい変わらずみにくい!)
うん、今聞いている賞賛が反対の意味だと知っても、悪い気はしない。それどころか、オレはちょっとカッコいいかも、とつい思ってしまう。
それにしても、このふたつのイヤホンは実によくできているな。
ちゃんと反対の心の声が終わったあとに、本当の心の声が聞えるので、ふたつの声が同時に聞えて、聞えづらくなるなんてことはない。
だが、ふたつの心の声を聞き比べてみると、気になる点がいくつも見つかった。
文章全部が反対の意味の言葉に変換されるわけではなく、一部の単語しか変換されないのだ。
たとえば、先ほどさかさまホンから聞えた『いいもの見ちゃった』をハートホンで聞くと(いやなもの見ちゃった)になる。しかし文章全部を反対の意味にすると(いやなもの見てない)だ。『見ちゃった』の部分だけ変換されていない。『あい変わらず美しい』も(あい変わらずみにくい)になっていた。これも『あい変わらず』だけ変換されてない。
宇宙人が造ったものだから、日本語に対応できてないところがあるのかもしれない。そもそも日本語の文章自体が完璧な反対の意味に変換できるように作られていないのだ。
さきほどの(いやなもの見てない)だって、無理やり変換した文章だ。その証拠に、見てないのにどうしていやなものだとわかるんだ、という矛盾のある文章になってる。
それに『あい変わらず美しい』を『あい変わらず』も含めて反対の意味に変換すると(今までと変わってみにくい)になる。
これではまるで、今までオレがみにくい顔じゃなかったことになる。あいにくオレは生まれたときから、みにくいままなのだ。
なんて細々したことを考えてると、自分の教室が見えてきた。
「セーフ!」教室の戸を勢いよく開けると、
「残念、アウトッ!」教師に明るく叱責された。
なにも言わずに教卓の近く通ると、数学担当の女性教師から心の声が聞えた。
『よしよしちゃんと謝ってるな、えらい!』→(おいおい少しも悪びれないの、バカッ!)
おおっ! 先生に怒られたというのに、褒められたような気分になる。これが噂に聞くツンデレというものなのだろうか!?
そのとき、女性教師の顔に刻まれたしわが目に入った。
いや、このオバサンが単に怒りっぽいだけだ。
教室を見渡すと、口元に軽くほほ笑みをたたえた黒井が、オレよりも先に席に着いていた。
こいつ……あとで覚えてろ。
心の中で黒井に毒づきながら、渋々自分の机まで移動して着席する。数学の授業が開始されると、さかさまホンからいろんな声が聞こえてくる。
教室にいるみんなの心の声だ。
『授業おもしろい』→(授業つまんねぇー)
『話短い。もう終わるの』→(話長い。まだつづくの)
『目が覚めるくらいスッキリする』→(眠たくなるくらいウトウトする)
みんなやさしいな。ひょっとして退屈なの、オレだけ?
『わかるわかる』→(わかんないわかんない)
『とっても簡単だね』→(すごく難しいよ)
『この問題、わたしをなめてるでしょ』→(この問題、わたしを買いかぶってる)
みんな頭いいな。ひょっとしてこの問題、解けないのオレだけ? オレってそんなに頭悪かったけ?
なんてな。このイヤホン、案外おもしろいな。
さかさまホンをつけることで普段は体験できない、ふしぎな気分になれる。
世界が少しだけちがって見えるんだ。
ためしにオレはハートホンを左耳からはずしてみる。これで、さかさまホンをつけた状態をもっと楽しめるはずだ。
すると、雑多な声に混じって、他とは異なる気配を含む声が聞えた。
『憎い』
ん、なんだ!? このどす黒い気配がつまった女の声は?
『憎い! 憎い!! 憎い!!!』謎の声はだんだん大きくなる。なんとなく声の大きさは、声の主の気持ちの大きさに比例してるような気がした。
『憎い』
ん、また同じ……いや、さっきとはちがう女の声だ。
『憎くてたまらない』
これまた別の女の声。ひとつだけじゃないんだ。
どす黒い気配に満ちた声が重なり合い蔓延していく。たちまち至る所からクラス中の女子のほとんどから、その声が聞こえるようになった。
やめろ、耳がはち切れそうだ。反吐が出る。いったいだれに向けた感情なんだ?
『憎い!』『憎い!!』『憎い!!!』『憎たらしい!! シロくん』
あれ? 今最後の方に別の単語が聞こえたような。でも、まさかありえない。聞き間違いだ。
思わずとなりの席にいる間城に目を向ける。
男のオレから見ても、かわいい顔をしてるのだ。間城に限って、それはないだろう。
『シロ憎い』『シロくん憎すぎ~』『シロちゃん超憎い~』
聞きまちがいなんかじゃない。憎悪の対象は全部、間城だ。でもなんで?
そうか!
『憎い』の反対の意味は(かわいい)だ。
それを念頭に置いて周りの声に耳をかたむける。
『憎らしい』→(かわいらしい)
『憎くてたまらない』→(かわいくてたまらない)
『憎すぎ~』→(かわいすぎ~)
『超憎い~』→(超かわいい~)
タネがわかれば、どうってことない。間城がかわいがられてるのは、いつものことじゃないか。騒いで損した。
あんなにも不快だった声が、ただうるさいだけの雑音に変わり果てた。どうやら得体の知れない気味の悪さが深く関係していたらしい。
『カッコ悪い!』→(カッコいい!)
『キタナイ!!』→(キレイ!!)
『ブサイク!!!』→(イケメン!!!)
でも、この間城に向けられたセリフ、どこかで聞いたような……どこだっけ?
オレはややこしくならないように、ハートホンを左耳につけた。自動的に本当の心の声に翻訳された声が遅れて聞えてくる。
『キライ』→(好き)
『キライキライ大キライ』→(好き好き大好き)
『恨むぞッ』→(愛してます)
なんだなんだ。みんな心の中では間城のこと好きなのか?
これは予想以上に間城のファンは多いかもしれない。
『好き』→(キライ)
だれだ? 間城のことを嫌ってるヤツがいる!?
『大好き』→(大キライ)
『だいだいだーい好き』→(だいだいだーいキライ)
しかもひとりじゃない。これは十人近くはいるぞ。相当嫌われてるな。
『邪魔じゃない』→(邪魔だ)
『シロくんのとなりから現われろ!』→(シロくんのとなりから消えろ!)
おい、待てよ。嫌われてるのは間城のとなりのヤツじゃないか。間城の席は窓側だから、となりといえば、ひとりしかいない。
『江久保好き』→(江久保キライ)
オレだ! 嫌われてるのは間城じゃなくてオレ。
『江久保カッコいい!』『江久保キレイ!!』『江久保様イケメン!!!』
『シロくんカッコ悪い!』『シロちゃんキタナイ!!』『シロやろうブサイク!!!』
見事に真逆だった。
思い出した。間城に向けられたセリフ、どこかで聞いたことがあると思ったんだ。
「カッコ悪い」「キタナイ」「ブサイク」
いつもオレがみんなに言われてることじゃないか。
みんなに罵倒されている間城の顔に自分の顔をあてはめてみる。すると、びっくりするくらい違和感を感じなかった。
これが現実だ。本当のオレはブサイクなままなのだ。
『江久保好き』→(江久保キライ)
『江久保大好き』→(江久保大キライ)
『江久保だいだいだーい好き』→(江久保だいだいだーいキライ)
なんでもない顔してるけど、心の中ではみんなオレを嫌ってるんだ。
クソォッ。そんなにブサイクが悪いのか!?
『江久保生きろ』→(江久保死ね)
本気だ。冗談なくリアルにオレの死を願ってる。
『生きて』→(死んで)
『生きてちょうだい』→(死んでちょうだい)
みんなオレが死んだ方がいいと思ってるんだ。オレがブサイクだから。
「ウッ、ウウッ……」聞こえないように両耳を覆い隠す。そこで初めて気づく。自分の頬がぬれていることに。
『頼むから生きろ』→(頼むから死ね)
逃げられない。耳をふさいだって無駄なんだ。頭の中に響きわたる声をどうにかしてくれッ!
何度も鼻をすすり上げてなんとかこらえようとする。目頭のあまりの熱さに顔がゆがむ。それでも涙がこみ上げてくる。
『江久保怒ってない?』→(江久保泣いてない?)
『なに怒ってるんだろ』→(なに泣いてるんだろ)
『気楽そう』→(かわいそう)
次から次へとにじみ出る涙をぬぐい、ごまかそうとした。でも指の間を抜けて、止め処なくしたたり落ちる。涙が噴き出していた。
『でも泣くと、もっとイケメンだな』→(でも泣くと、もっとブサイクだな)
あれ、泣いてるのに、こめかみがピクピクしてきたよ、ハハハッ。
結局、泣き止んだのは、授業終了の鐘が鳴り響いたあとだった。
それでも、みじめな気持ちは洗い落とされず、まだ心の奥底にこびりついてる。ぬぐいきれない汚れみたいに。
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