第1話 文部科学省のとある別室

 東京都千代田区霞が関ときょうと ちよだく かすみがせき


 我が国の中枢がこの地域に集中している。


 三年坂さんねんざかを挟むよう

に建つ、財務省と文部科学省の建物。

 文部科学省は教育、学習を中心に学術、スポーツ、文化の振興を行うとともに、科学技術の総合的な振興、そして宗教に関する行政を行う組織である。中央合同庁舎第七号館に所在している。


 午後九時過ぎという時間帯から言えば、大部分の勤め人は帰宅している。

 庁舎の各階には明かりの灯った部屋がいくつもみられる。やはり中央の役所は常に多忙なのである。地方の行政機関との差であろうか。


 地下鉄虎の門駅は行きかう人々が多い。役人はむろん、経済の先端を行くビジネスマンたちだ。


 地味なチャコールグレーの半袖ワンピースを着た初老の女性が、六番出入り口から上がってきた。

 六十歳前後であろうか、髪はショートで白髪まじり。化粧気のない丸顔である。


 布製の巾着袋きんちゃくぶくろをハンドバッグ代わりに手首からぶら下げていた。


 虎の門よりも、巣鴨すがものほうが似合いそうな女性は、ややがに股気味で歩きながら文部科学省のある第七号館へ入っていった。


 一般のドアはすでに閉ざされており、女性は職員専用の出入り口で守衛にIDカードを提示する。そのままエレベーターホールへ進んでいく。


 庁舎は官庁塔と呼ばれる東館で地上三十三階、地下二階の構造になっている。


 エレベーターホールには待つ人はいなかった。女性は階下行きのボタンを押す。低いモーターの音がして一番端のエレベーターのドアが開いた。


 乗り込むと目を細めて操作盤をながめ、B2のボタンを押す。降下する浮遊感がすぐに収まり、チンという音とともにエレベーターのドアが開く。


 女性はすたすたと廊下を歩いていく。左手側に『関係者以外立ち入り禁止』のプレートが貼られた鉄製のドアがあり、その前に立ち止まると女性は巾着からIDカードを取り出した。


 ドアノブ上部にあるセキュリティシステムにかざし、暗証番号を入力する。ロックが解除される音が無人の廊下に響いた。


 ちらりと女性は左右を確認しドアを開け入室する。


 部屋は資料室に使われているのかスチール棚が並んでおり、無記名の段ボール箱が整然と陳列されていた。その棚の間を通り抜け、さらに奥へ進む。突き当りには入口と同じドアがあった。


 ドアノブに設置されたセキュリティシステムは指紋認証式であり、女性は小さな手のひらをかざした。


 ピーンと電子音が聞こえる。


 ドアの奥はリノリウムではなく、落ち着いたえんじ色の絨毯じゅうたんが敷かれた十五メートル四方のフロアであった。


 そこは執務室のようで、木製の重厚感のある机と革張りのオフィスチェア、その前には四人掛けの応接セットが配置されている。壁側にはスチール棚が置かれ書類がびっしりと埋まっていた。


 机上にはデスクトップのPC、電話器、テーブルライト、まとめられた書類が置かれている。


 女性はオフィスチェアに、腰を叩きながら座った。


「いやだねえ、年をとるってのは。すぐに腰が痛むわ」


 眉間にしわをよせ、独りごちる。

 目の前の受話器を取ると、ボタンを押した。


「ああ、佐々波さざなみくんかい。あたしだ。今、部屋についたよ」


 そう言うと静かに受話器をおろした。


「コーヒーを買ってくるのを忘れちまったよ。やれやれ」


 つぶやいた直後、壁側のドアがノックされた。このドアは別の部屋につながっているようだ。セキュリティシステムも鍵もついてはいない。


「はーい、どうぞ」


 ドアが開き、コーヒーの濃い香りが漂ってくる。


「失礼します」


 低いがよく通る声が先に聞こえ、トレイにコーヒーのプラスチックカップを乗せた男が入室してきた。


 長身である。長めの髪を無造作に耳にかけ、細く鋭い切れ長の目は武士を想像させる。


 三十歳代半ばくらいであろうか、紺地のスーツに白のシャツ、品のよい小豆あずき色のネクタイをきっちりとはめている。スーツの生地を内部から押し上げるような肉体は、ここが文部科学省内であることを失念させる。

 鍛え上げた身体にはスーツよりも軍服が似合いそうだ。


「あれー、コーヒーを淹れてきてくれたのかい。こりゃ、嬉しいねえ」


 佐々波と呼ばれた男は机の上にカップを置いた。


合羅ごうら長官はブラックでよろしかったですよね」


 女性は顔をほころばせながらカップを手に取った。


「ありがたいよう、佐々波くん」


「それよりも長官。いつも進言しておりますが、公用車をお使いいただけませんか」


「ああ、お迎えのかい? いらない、いらない。あたしは公共機関が好きなんだよ。特に電車は大好きさあ。なんでも鉄道ファンの女性を、鉄子テツコなあんて呼ぶらしいじゃないか」


 合羅は熱いコーヒーをすすった。


「それで」


 カップを口元からはずし、佐々波を見上げる。


「動きがあったてえじゃあないの。ここしばらく、全国どこからもそんな報告がなかったからね。何年ぶりかい?」


「私が防衛省から、長官にお呼びいただいてこの部署へ異動したのが八年前。それから五年後に副長の職務を拝命いたしましたが、その時に島根県で例の事案が発生いたしましたから」


「ああ、あれね。覚えてるよ、神無月かんなづきだったねえ。じゃあ三年ぶりってことかねえ」


「はい。私が初めて陣頭指揮を執らしていただきました」


 佐々波は背筋を伸ばし後ろ手に立ったまま、首肯する。


「あれも大変だったよう、後始末がさ。当時の首相は誰だっけか。まったくお話にならなかったからからね。根回しに走り回ったさ。

 それで外務省には確認済みなんだね。となると、ここから」


「はい。ここから先、いつ事態が進展しても対応できますように、長官の許可及び」


「タモッちゃんに話を通して関係各省庁への対応と、いざってえ時には全指揮権をこちらにまわすように、ってことだろ」


「はい。内閣総理大臣へのご報告をお願いしたいと思います」


 合羅はニヤリと口元を上げた。


「あのタモッちゃんが総理大臣なんてねえ」


我琉保がりゅう たもつ総理とは、たしか大学で同期だったと以前におうかがいいたしました」


 佐々波は姿勢を崩さずに言う。


「そうさね。もう四十年近くも前の話。あたしたちの青春時代よ。タモッちゃんはあの頃から、俺はこの国のために生涯をかける、なあんて熱血漢でさ。

 あいよ、承知した。何年ぶりかの発令だから、みんな驚くだろうねえ。うふふっ」


 合羅は電話の受話器を取り上げた。


つづく

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