まわしを締めたゴリラ3

会場に人間の力士とゴリラの力士が入場した。東に奔王。西にダビデ。

土俵上で並び立つと改めて異様なことであると気づかされる。

日本人横綱力士とまわしを巻いたゴリラが土俵に立ち、これから相撲をとるのだ。ダビデのベテランのような所作、佇まいも野性味溢れる見た目とギャップがありコミカルに見える。


奔王、186㎝149㎏。ダビデ、184㎝160㎏。

並び立てばダビデはやはりゴリラで、体格は大きい。が、大型の力士の範疇という程度だ。

だが、人間にはどんなに鍛えても作ることができない、まさに丸太のような腕は世界トップクラスの力士からしても恐るべき武器だ。

ウィリアムスは200㎏という驚異的握力を持っているが、雄のゴリラはそれを軽く上回る平均400~500㎏の握力を持っており、さらに訓練を積んでいるダビデは、なんと握力700㎏以上を叩き出せる。

人間のトップレベルの力士と身体能力を比較してすべてが上回っているかといえばそうではなく、もちろん一長一短があるのだが、それでもこの握力の数字から予測できる腕力の危険度は計り知れない。


ダビデは塩を手に取り土俵に撒いた。真っ白い粒状の塩がキラキラと光り、弧を描いて土俵に落ちる。

これから戦いが始まる丸い地面が塩によって清められる。


土俵の中央、奔王はダビデの目を見た。ダビデの目は澄んだ深い色をしている。まるで井戸の底に映る空のような色だ。

奔王と対峙した対戦者は通常、興奮、緊張、畏怖、時には怒り、などの感情を持つ者が多く、奔王はそれを読み取ることで初手を予想していた。

しかし、ダビデの目に映るものはそれとは違っていた。ダビデの目の奥に映る色は、ただひたすら喜びと感謝の色に溢れている。

顔の表情による感情表現を持たないゴリラにも関わらず、ダビデは目でそれを語っていた。

奔王はダビデの感情こそわかっていても、土俵の上で何を仕掛けてくるのかはまったく読めなかった。


「仕方がない。先の先を取れなくても後の先を取ればいい」

……と奔王は気持ちを切り替えることにした。

わからない相手に対し闇雲に攻める方が危険だろうと。最初の動きを読み切り、対応することも最強を冠する天才には難しいことではなかった。

そして奔王とダビデの立ち合いの時間がきた。


仕切り線に人間とゴリラが相対する。

ゆっくりと腰を落とし、睨み合う。

やはり奔王の目からも、ダビデの初手は読めない……。


「ジャッジ! ジャッジ! ジャッジ! 発気よ~い……のこった!!」


両者の手が地面につき、肉体は解き放たれた。

「パァン!!」

その時、空気が破裂したような音が両者の間で弾けた。


気がつけば奔王の前にダビデはいなかった。


ダビデは自らの置かれる境遇に対して、今始まった立ち会いに対して、喜びと感謝の心しか見つからなかった。そして、その心を最大限に相撲の中で表すことにした。

感謝と尊敬の念を込め、掌と掌を合わせる。


「合掌」……握力700㎏、両手合わせて1400㎏。その形は超高圧の”猫騙し”を形作った。

両手からはじき出される破裂音が会場に響き渡る。

ダビデはこれをジャングルの中で威嚇として用いた。ゾウやサイ、シマウマ、カバやライオン。どんな動物もこの音の爆弾を炸裂させれば反射的に逃げ出した。動物との無駄な争いを避ける、命を大切にする心からの祈りの念。

威嚇射撃の音に類似することから、ダビデはこの技を「銃声(Gunshot)」と名付けた。


その威力は例え人間であっても、横綱・奔王悟理であっても同じであり、本能に働きかける技であるが故に回避できない。眼前に響く銃声に全身は硬直し瞬きをしてしまう。ダビデはその瞬間に奔王の右から回り込んだ。

用意周到なことにダビデは前日の試合で跳躍からのドロップキックという奇襲を見せ、意識を上空に誘導している。銃声から感覚が戻ってもつい頭上に注意がゆくところだ。

しかし相手は奔王悟理、銃声に視覚と聴覚、反射運動による筋肉の緊張に支配されていても、右側からすり抜ける何かを感知していた。


「後ろだ!」

銃声からの奇襲、そこから導きだされる答えは、背後を取ることだった。

歴戦を勝ち抜いてきた奔王だが、背後を取られないよう鍛錬はしていても、もし背後を取られた場合、戦法は無いと言ってもいいだろう。


奔王は危機を感じ、後ろを振り返った。

だが、そこにもダビデはいなかった。直後、前みつを掴まれる感覚が襲った。

真後ろから伸びるダビデの腕だった。


ダビデは奔王が一瞬遅れて対応してくることも予想していた。つまり、奔王をぐるりと一周した。

100%の効力を持つ奇襲技を使い、わざわざ360度一周して戻る。奔王を心から尊敬し、ある種の信頼がなければできない行動だ。

結果的にダビデの読みは当たり、奔王の背後を奪った。


奔王と言えども背後を取られた場合、切り返すことは困難を極める。

さらに相手はダビデだ。たとえ厳血顕現で振り解こうともがいたり、指を剥がそうとしても逃げることは不可能だろう。

この形は相撲の形の中でも最悪と言ってよかった。もちろんSUMOUであっても同じだ。


とは言え奔王も諦めるわけにはいかない。天才的な体重移動で腰を落とし、不動の形で隙ができるまで「籠城」する。

それに対するダビデの狙いはひとつ。ジャーマンスープレックスさながらの裏うっちゃり。もしくは吊り落としなどを、奔王が集中力を切らした僅かな隙に決めることだ。


状況を例えで表すなら釣りに似ていた。

奔王は釣り針にかかった大魚。一方的にスタミナを使い続けるのは奔王だ。下手にあがけば糸を巻き上げられるように体勢は悪くなり、疲労は蓄積してゆく。

魚はほんの僅かなミスの可能性を探し、その隙に糸を切って逃げるしかない。


しかし、ダビデはその針にかかった魚の大きさを痛感しているところだった。

奔王を持ち上げようと両腕に力を込めるが、まったく持ち上げることができない。奔王の全身がまるで土俵と一体化しているかのような手応えだ。

怪力の大男が、床にあぐらをかいて座る古武術の達人を全力で押そうが引こうがびくともしない。そんな現象に似ていた。

だがそのために奔王はとてつもない集中力とスタミナを使っていた。噴き出す大量の汗がそれを物語っている。


動きのない静かな持久戦のさなか、突然奔王が全力で左右に腰を振った。諦めていない意思を表すように脱出の隙を探す。

しかし奔王の動きに呼応するように、ダビデの吊り上げが入る。この瞬間、奔王の籠城が甘くなる。わずかに奔王の体が浮き上がり、投げられぬよう踏ん張ることで再び土俵と一体化する。

逃げようとすればするほど奔王のスタミナは奪われていく。ダビデは自ら攻勢に転じることなく、じっくりと奔王の燃料切れを待てばいい。


再度、再々度、奔王が脱出を狙うが、700㎏の握力は絶対的だ。絶対に逃げることを許さない。 奔王の体が浮き上がり、ギリギリ指先で踏ん張り留まった。

大量の汗がぼたぼたと土俵に落ち、大銀杏もざんばらに乱れる。奔王がここまで追い詰められている場面も珍しかった。

こんな状況に置かれても奔王の目は死んでなかった。逆転を狙う絶対横綱の目は輝いていた。

そして、同じくダビデも貪欲に勝利を求め、目を輝かせていた。勝利のために絶対に油断しない野生動物の目だ。


再び、振り絞る力で脱出をはかる奔王。

並の力士なら引きずり倒されるような渾身の力で左右に振る。それでもダビデは動じない。

かかとがわずかに浮いた瞬間にダビデの吊りが始まる。重機のような力で奔王を持ち上げる。それに抗うように奔王は重心を沈ませる。

土俵についた足の指先に残った力を込め、土俵に喰い込ませた。

もはや満身創痍にしか見えない奔王。それに対し体力を温存しているダビデ。


歴然とした差が見える両者だったが、ダビデ以外、すべての人間がもうひとつの事実に気がついていた。

直後、ダビデもそれに気がついた。


ダビデは足の裏に違和感を感じた。踵にぶつかる感触ですぐにそれが勝負俵であることに気がついた。

いつの間にか土俵の円ギリギリの位置にまで移動しているのだ。


その時、何が起こったのか理解できなかったが、次第に状況を飲み込んだ。

吊り上げで奔王の体力を削っていたそのせめぎ合いの間、奔王は全力で後退してた。つまり後ろ向きに押し込んでいたのだ。

奔王は必死でもがいて逃げようとしたわけではなかった。全てを囮にして土俵際まで押し込みをかけ続けていたのだ。


もはや最後のあがきと思わせる渾身の逃げ、吊り上げを狙わせる陽動、絶妙なバランスを要する僅かに吊り上げきれない体重移動、そしてそこに巧みに紛れ込んだ背面押し、全てが奔王悟理という人物を体現した窮地からの怒涛の攻めであった。

この釣りはただの釣りではない。釣り船を転覆させるほどの大魚との一騎打ちであることにダビデは気がついた。


体力切れの奔王を見るに、あと勝負俵一本分を押しこまれていたら、気づかないまま背面からの押し出しで敗北していたであろうことにダビデはゾッとした。


土俵際まで追い込まれたものの、勝負俵をがっちりホールドできるゴリラ特有の足もあり、土俵際からのダビデが本領発揮のようなもの。

さらに満身創痍の奔王にダビデを押し切る力は残っているとは思えない。

形勢はダビデが有利な条件であることには変わりない。


しかし、どんな場面に置かれてもその人物は奔王悟理。数時間の猛練習に汗を流し、疲弊しきっているかのような肉体だが、その背中は凄まじいほどの気炎を放っていた。


ダビデにとってはあとは全力で吊り上げるだけのことなのだが、それまでにない重さで奔王は土俵にかじりついていた。

背中から気が満ちていることが伝わり、何かが起こる予感が肌を伝わる。


奔王の顔面に真っ赤な流線。鬼のような激情の顔に変化する。

厳血顕現による最後の攻めだ。


顔は見えなかったがダビデもその凄まじさで厳血を察知した。


厳血のタイムリミットは5秒程度。わずか5秒。だが凌ぎ切った者がいない絶対的重厚さの5秒間。

だがこの5秒間を過ぎれば奔王には文字通り何も残っていない。全ての体力を使い果たし、死体のように土俵に崩れ落ちることだろう。


厳血顕現と同時に奔王の右手がダビデのまわしを、左手がダビデの首の裏を掴んだ。狙いは勝負俵一本分を吊り上げての押し出し。数センチの攻防だ。

ダビデを背負うようにひたすら吊り上げる。だがこの形勢と温存した体力の分ダビデの有利であり、死ぬ気でこれを耐え切る覚悟。


万力のような圧力で奔王の全身の筋肉が唸りを上げる。肉体が人知を超えた人外の能力へと至る状態。それが厳血顕現であり、相撲の歴史の究極がもたらした秘術でもある。

全身の筋繊維がはち切れんばかりに収縮し隆起している。肌は赤く紅潮し、今にも血が吹き出しそうに血管が腫れ上がっている。


対するダビデも全身の毛が逆立ち、牙を剥き出しにして奔王を押さえつけている。

腕が脱臼しようが折れようが、肉を引き裂き丸ごともげようが構わない覚悟すら感じられる。


1秒が過ぎ、2秒が過ぎ、それでも力は互角のまま動かない。ふたりの底力は拮抗していた。


「うおおおおおお!」

奔王が唸りを上げた。


「ウォーーーーゥォォウ!」

それに続くようにダビデも声を上げた。


それでもふたりは動かない。

緊迫した重い空気だけが会場を包んだ。

3秒経過、変化のないように見えた中、ダビデの体がじりじりと動き出した。

奔王の吊り上げがダビデの防御の型をこじ開ける。


「ウォォ!!」

もう一度ダビデが声を上げる。

ダビデがゴリラであり猛獣であることを確認するかのような唸り声だ。


4秒経過。絶対にあと1秒逃げ切ってみせるという覚悟。ダビデの毛がさらに逆立ち、目を大きく見開いた。


奔王ももう駄目かと思われたその時、奔王の体、全身の筋肉が一瞬膨らんだかのように動いた。

「フンッ!」

空気がビリビリと震えた。奔王は荒い鼻息を吹き出し、体が硬直した。

その直後、奔王の厳血は消え去り、糸が切れたように脱力して土俵に倒れた。


5秒経過。ダビデは厳血の猛攻を凌ぎ切り、最強横綱、奔王悟理からの勝利に腕を振り上げ歓喜した。


だが、レフェリーの手は奔王を指していた。


ダビデは何が起きたかわからずレフェリーと奔王を交互に見た。

そして、足元に目を向けて気がついた。奔王の猛攻により、ダビデの左足は勝負俵の外へ追い出されていた。


激闘の末、奔王は勝利した。

ダビデは様々な思いが混じり合う中、棒立ちで倒れた奔王を見つめている。


「獅桜! 栄養剤だ!! 急げ!!」

御角山親方が叫んだ。厳血でエネルギーを使い果たした者は緊急に水分と栄養を摂取させる必要があった。


「奔王関、口を開けてください! これ、高い栄養剤なんでこぼさないように……!」

倒れて意識朦朧としている奔王の口に栄養剤が流し込まれる。数秒で意識がはっきりし、ゆっくりと体を起こした。


決まり手がはっきりしなかったので、立体ホログラム映像で判定が行われた。

ダビデの足が土俵の外に出る瞬間、奔王は首とまわしを掴み、腰にのせることでほんのわずかながら吊りを成功させている。同時に腰で押し込むことでダビデを土俵の外に押し出している。

吊ることができているので吊り出しの可能性もあったが、片足が土俵に付いていたために「後ろもたれ」が決まり手になった。


「奔王、ありがとうございました。一切油断はしなかったのだけれど、あそこから負けるとは……。完敗です!」

翻訳機を受け取るとダビデは手話を使って土俵に座り込んでいる奔王に語りかけた。

奔王のあの形は誰から見ても揺るぎ無い「死に体」だった。だが奔王は活路を見出した。いや、元から奔王に死に体など無かったかのようだった。


「いや、あの猫騙しをくらった時。背後を取られた時。私は敗北している。あの瞬間あなたは全ての霊長類を超越していたことだろう……」

取組のひとつひとつを確認するように奔王がつぶやく。

少し足元がふらつく様子ではあるがゆっくりと立ち上がり話を続ける。


「だが、確実性を狙ってすぐに仕掛けてこなかったことが結果的に敗因に繋がったんじゃないだろうか……。即座にあなたの獣性を持って力任せにでも投げにこられたら私はすぐに対応できなかっただろう……」


「私は……。相撲として美しく勝ちたいんだ。ゴリラとして生まれ持ったものがあっても、なるべく相撲の技術をのせて……、尊敬の念を込め、人智を優先させて相撲がしたいんだ」

ダビデの指がせわしなく動き、相撲への気持ちを語った。 その言葉を聞き入っていた奔王が目を見開いた。


「あなたはゴリラだ。全ての相撲の歴史に囚われず、誇りを持って、ゴリラとして新たな相撲の歴史を切り開くことができるだろう! あなたの存在が相撲の歴史に、相撲そのものになる権利があるのだ!」

奔王が一喝するように声を上げた。騒がしかった会場が静まり返り、ふたりに視線が集まった。


「私が相撲に……? そんなことができるのだろうか……」

「あたりまえだ! そのために土俵に立っているのだ!」

土俵に声が響いた。

ダビデは誰に認められても相撲と自分の存在にズレを感じていた。しかし今、初めてすべてがひとつになり、力士になれた感覚があった。ダビデの心に澄み渡る蒼天が広がった。


「私は……」

ダビデが指を動かしはじめたところに奔王が横入りし、手を止めた。


「自分の本当の声で言ってみてはどうだ。その方が伝わることもある」

奔王はダビデの翻訳機を受け取った。ふたりの意志は言語を離れ、目で通じ合った。


「ゥゥゥオオオオオオオオオオ!」


ダビデは観客席を見渡し、ありったけの肺活量と相撲への想いをのせて咆哮した。

ドラミングで胸を叩き、人間達にその存在を誇示した。

奔王の頬にひとすじ、涙がつたった。

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