神童

世界スモウサミットが終わり、奔王と御角山親方は国技館を出て、帰路へ着くために足を運んでいた。その後ろにはもう一人の力士がいた。前頭・獅桜武流斗しおうたけるとだ。


「将の海親方もさすがに大慌てでしたね。やれやれ、マイペースな奔王関といっしょにいると冷や冷やしますよ」

獅桜は他人ごとのように飄々とした態度で言った。

この獅桜は奔王のひとつ年下の後輩力士で、体格も奔王とよく似ており、奔王の信頼する練習相手でもある。奔王の付き人でもあり、このような外出に同行するのは常だった。


「そうか? おまえほど冷静沈着な力士もそうはいないと思うがな。取り組みで多少熱くなれればもっと成績は良いのだろうが」

「ははは、買いかぶりですよ。あれでも本気なんですから」

と、奔王の皮肉を獅桜は受け流した。




奔王が相撲取りとして初めて世に出たのは2196年、当時小学四年生。本名、鷲尾悟理。10歳の時であった。

その年、少年は全国子供相撲大会を優勝した。体格の大きい子供であれば小学四年生の優勝もまったくありえないことではないのだが、鷲尾少年は類稀な体格の良さに加え、恐ろしく練習熱心な子供で、その気迫が普通の子供力士とは違っていた。


全国子供相撲大会には大会後に恒例のイベントがあった。

その時の一番人気の力士が登場し、優勝者と相撲を取るという、優勝した子供に対するちょっとした副賞、というよりは交流会のようなものがあった。

相手をする力士はわざと負けてみたり、しばらく遊ばせてからひょいと掴み上げ、土俵の外に出すことが多かった。相撲の取組というよりは、言わばエキシビジョンのようなものだ。

その年は当時全盛期の横綱、将の海部屋の玉竜鬼ぎょくりゅうきが優勝者の相手をすることになった。


玉竜鬼に対し羨望の眼差しを向ける鷲尾少年であったが、土俵に上がってから眼光鋭く、相手が横綱であろうと飲んでやろうという表情に変貌した。

しかし、たとえ体格が著しく抜きん出て大きかろうが、才能に溢れていようが、子供離れした気迫を纏っていようが、少年はまだ齢10の子供だ。玉竜鬼は鷲尾少年を持ち上げると土俵の外に吊り出した。

ワーッと笑いと拍手が起きる中、ただ一人、鷲尾少年だけが不満そうな顔をして歯ぎしりをしていた。

奔王はその時のことを「ただ自分の弱さが悔しかった」と語っている。


それから一年が経ち、次の年の全国子供相撲大会。再び優勝者になった鷲尾少年がそこにいた。

一年で前年を上回る体格に成長し、遠目で見る分には大人と変りない体躯。そして、その中に鍛えあげられた強靭でしなやかな筋肉を作り上げていた。


表彰式の後、玉竜鬼は「こんなに優秀な少年力士、明日の横綱がいれば、相撲界は安泰です。みなさんこれからも頑張ってください」とにこやかにスピーチをした。

その時まで玉竜鬼は思っていなかった、これからおのれの相撲人生を左右する戦いが始まることを。


スピーチが終わり、恒例の横綱と優勝した子供の相撲が待っていた。

去年と比べて著しく成長したとはいえ、まだ中身は十一歳の子供……と、玉竜鬼は思っていた。いや、それよりも横綱としての余裕が深層心理にあったのかもしれない。玉竜鬼は土俵に上がるその時まで子供にお菓子をあげるかのような感覚でいた。

「去年は悔しそうな顔していたからわざと負けてやろうか。それよりも大人の意地悪で追い詰められたフリをしていきなり転がしてあげたほうが良い思い出になるかも」そんなことを考えていた。


一方の鷲尾少年は昨年とは違い、ギラギラとした眼光の鋭さはなかった。

かわりに歴戦の力士のような表情で遠くを見たり足元を気にしたりしていた。

「小学生も高学年になると随分大人になるものだな」そんな風に玉竜鬼は関心していたのだが、立ち合いの直前になって少年の末恐ろしい本性を目の当たりにした。

大人ぶってスカしているのではなく、ギリギリまでポーカーフェイスで感情を押し殺している目だった。

「何かを狙っている! こいつは危険だ!」

そう気づいた時に鷲尾少年は仕切り線に手をつき飛びかかった。玉竜鬼としては最悪のタイミングだった。

マズイと思って立ち上がった時には目の前に少年はいなかった。この時少年は2、3のフェイントの罠を張り、レスリングの胴タックルの要領で後ろに回り込んでいた。

しかし、後ろに回り込まれようと、相手は大人であり力士であり横綱である。そのまま引っペ返して正面に向き直るぐらいのことはできる。

だが待ち構えていたかのように少年は玉竜鬼の懐に潜り込んできた。

気がつくと玉竜鬼は尻餅をついて倒れていた。鷲尾少年の奇策、内掛けの三所攻めで倒されたのだ。


概ね計算通りだった。

少年は実に一年の歳月をかけ、玉竜鬼落としを研究していた。

映像資料を大量に集め、毎日繰り返し見ては自分の技を研鑽し、玉竜鬼の癖を調べ抜いた。

一番遊びたい盛りだというにも関わらず、遊びより相撲。すでに少年の生きるすべてが相撲だったのだ。


「負けた! いや、わざと負けたんだよな?」そんな声がオーディエンスから聞こえてくる。

これがパフォーマンスなのか、本気の相撲なのか、誰もわからない妙な空気がそこに流れていた。


「いやぁ、すごい少年横綱ですね。黒星がついてしまいましたよ。はははは……」

そう玉竜鬼が尻の土を払いながら笑うと、会場も同様に笑いに包まれた。


適当に付き合ってあげたんだだろうな。皆がそう思う中、玉竜鬼は戸惑っていた。

当の鷲尾少年本人は軽く会釈をし、特に大きな喜びを表すでもない。すでに自分は力士であるという自覚があるような振る舞いなのだ。


玉竜鬼の心の中に、自分だけが奇妙な世界に取り残された感覚があった。

相撲界の中心人物であったはずの自分の前に、高みの上、天空から見下ろす精神世界の生物のような子供がそこにいて、さもあたりまえのような顔をしている。

もちろん、もう一度普通に相撲をすれば自分が勝つということを玉竜鬼はわかっている。だがこの日、この一瞬にかけるメンタリティ、研ぎ澄まされた感覚、堅牢に創り上げられた心、相撲道のなんたるかを生まれながらにして熟知しているかのようなたたずまい。

なんなのだろうかあの少年は? そして自分はなんなのか……?


それから玉竜鬼にしばらく眠れない日々が続いた。


そして、また一年が過ぎた。

3年目、3度目の対決の時が当然のように訪れた。


当たり前のように鷲尾少年は全国子供相撲で優勝し、同じく玉竜鬼は最も人気のある力士であり横綱であった。

それだけではない。玉竜鬼は丸一年以上黒星が無く、取り組みは83連勝。大相撲の連勝記録を更新していた。もっとも、玉竜鬼本人は鷲尾少年からの黒星から数えて79連勝と考えていた。

玉竜鬼の意識はあの一戦を境に大きく変化していた。

自分が一番人気の横綱であること。他を寄せ付けぬ強さであること。人に慕われていること。羨望の眼差しを集める存在であること。自分の今いる地位に甘んじ、胡坐をかいていること……。一年前のあの後、緩慢に志が低くなっていく自分に気がついたのだ。

ただ負けたからではない。齢11の少年が全国優勝という称号を手に入れた、その瞬間にも、油断することない向上心を漲らせている。それを目の当たりにして自分がいかに横綱として、闘う者として軟弱だったかを思い知ったのだ。


3度目の対決は、本来の力量通り玉竜鬼が圧勝した。

外から見たら大人気ないほどの一方的な取組であったが、二人の間には通じる何かがあった。

鷲尾少年は嬉しいのか悔しいのかわからない表情を押し殺し、一礼した。

「確信に近い感覚がある。こいつは歴史に名を残す大横綱になるだろう。この少年が力士になり、再び会いまみえるその時まで、第一線の横綱でいることが最大の目標になる」

そう玉竜鬼は思い、誓った。



……10年後、玉竜鬼38歳。

当時の大相撲界は22歳の奔王と、将の海部屋所属、24歳の猛龍、ふたりの若き横綱の対決で話題を席巻していた。

ふたりは異常な次元の天才であり、このふたりが同じ時代に存在することを奇跡だと言う者もいれば悲劇だと言う者もいた。


玉竜鬼はこの争いに付いていくことができず、引退を決めた。

ふたりには敵わないだけで、実力は他の力士より抜きん出ていたのだが、それでも横綱としてのプライドが現役を続けることを許さなかった。

自分は引退し、後輩の猛龍に全てを託すことにした。


玉竜鬼の引退式の後、インタビューを受けた奔王は号泣した。

「私が子供の頃から見続け、相撲の理想として追いかけたのは玉竜鬼関でした。少年時代、その立ち姿を必死で真似しました。私の相撲の基礎を作った全てです。本当に、本当にありがとうございました!」

いつもは職人気質で感情を表に出さない奔王が感情をむき出しにして泣いた瞬間だった。


玉竜鬼はそれを見て複雑な感情を抱いた。

力士として最大限に尊敬する、が、人間としては心底憎たらしい男だと。清々しすぎる人間性が鼻につく。玉竜鬼自身は奔王が強すぎるが故に引退することになったのだ。年下とはいえ憧れる。だが結局、好敵手にもなれず、その才能に嫉妬すらしてしまう。


そして、猛龍も玉竜鬼と同様の心境だった。

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