九話 狂気を前にして(リータ)

 突如、闇の男が笑い声を上げる。


「ええもん、見せてもぉたわ!」


 手下が倒されたのに喜んでる? リータには想像もできない思考回路をしているようだ。

 もうひとりの手下がリータと戦った男を抱え起こす。


「おい、高橋!」


 リータの後ろ回し蹴りを食らった男は、気を失った訳ではないがフラフラとまともに立てない有様だ。


「高橋はもうちょい精進せぇや。のお?」


 と、闇の男がリータに笑いかけてくる。喜んでいるように見せかけて、その目は相変わらず闇の中で気味が悪い。リータは愛想笑いすらできなかった。


「ほな、引き上げるわ」


 あっさりとそう言い、闇の男は手下を従えて部屋の出口の方へと歩きだす。とはいえ油断できない。三人とも部屋を出るまで、リータは気を張り続けた。


「リータ!」


 サーシャのその声でリータの緊張が解ける。これで後は帰るだけ。後ろにいる愛おしい姉の方を向く。


「まだ終わりじゃないよ」


 榎本だ。サーシャの真後ろにいて、首筋に片腕を回している。そしてもう片方の手にあるのは……拳銃?


「何してるの?」


 リータはすぐに事態が把握できず、間抜けな問いかけをしてしまった。よく見ろ、リータ。榎本はサーシャを拘束して銃を突き付けている。


「ようやく邪魔者がいなくなったね。じゃあ、これからのことについて、みんなで話し合おうじゃないか」

「やめな。サーシャを今すぐ離しな」


 リータが鋭く言っても榎本は薄ら笑いをするだけ。リータとサーシャは四メートルも離れている。榎本が反応する前に銃を奪い取るなんてできない。どうしたらいい? どうしたら?


「その子を離せ! 余計な罪を犯すんじゃない!」


 声を出した文人を見る。銃を構えているが、十メートルは離れていた。そもそも、文人は犯人を銃で撃てなくて警察の特殊部隊をクビになったはず。文人は撃てない。


「やめろ! やめてくれ、榎本!」


 宗作が叫ぶ。両手を挙げながら、ゆっくりと榎本に近付いている。


「危ない! 宗作!」


 リータの声に宗作の動きが止まった。今度はリータに話しかけてくる。


「でも、全部俺が悪いんだ……。俺のせいで、リータさんもサーシャさんも危険な目に……」

「そうだ! お前が悪いんだよ、高杉! 今すぐ変な細工を解除したまえ!」


 榎本の甲高い声に苛立ってしまう。リータは衝動的に行動しかねない自分を精いっぱい抑え込む。

 今度はサーシャが口を開いた。


「リータ! 宗作! ふたりは余計なことをしないで! 文人! 早くこの男を撃ってしまいなさい!」


 リータが何か言う前に、榎本がまた甲高い声を出す。


「な、何を言うんだ! キ、キミに当たるかもしれないんだぞ?」

「構わないわ! あなたみたいなゴミ虫に撃たれるくらいなら、文人に撃たれた方がいくらかマシよ!」


 サーシャがリータには理解できないことを言っている。どうしたらいいのかまるで分からない。


<リータ。リータ、聞こえてる?>

<サーシャ! 大丈夫、聞こえてるよ>


 サーシャが『接続』で話しかけてきた。このテレパシーはふたりにしか聞こえない。


<ちょっと面倒なことになったわね>

<どうしよう? どうしたらいい、サーシャ?>

<リータは何もしなくていいわ。こんな男、私の舌先三寸でいくらでも丸め込んでしまえるから。私がどれだけ口が達者か、よく知っているでしょう?>

<でも……でも、榎本が持ってるのは銃だよね? 失敗したら……>

<大丈夫。これはチャチなモデルガンよ。人を殺すなんてできないから>

<そうなの?>

<そうよ。なんの心配もいらないの。だから、あなたと宗作は早くこのオフィスから出てしまって。敵対する人数が多いほど、榎本は混乱してロクでもないことをしでかしかねないの>

<そうなんだ……サーシャがそう言うなら……>


 そこへ文人が割り込んできた。


「おい、リータ! なんで黙り込んでる? サーシャが何か言ってるんじゃないのか?」

「ええっと……余計なことはしなくていいって言われてる」

「そうだ! キミは余計なことをするな! 高杉! 早く小細工を解除しろ!」

「いや……解除するにはパソコンが……」


 宗作が途方に暮れている。今の状況をなんとかするには罠を解除するしかないの? でも、宗作は榎本に復讐がしたいはず。ここで榎本に屈していいの?


「罠は、私が解除できるわ」


 サーシャが落ち着いた声で言う。


「え、そうなのかい?」

「さっきの藤田の話を聞いていなかったの? 今、私が背負っているリュックの中にあるノートパソコン。これで罠が解除できるのよ」

「じゃあ解除しろ! 今すぐ解除しろっ!」


 榎本がサーシャのこめかみに銃口を押し付ける。それが痛むのかサーシャは顔をしかめた。


「解除するには条件があるわ。極めて簡単なものよ」

「なんだと……また条件か……?」

「極めて簡単よ。リータと宗作を部屋の外へ出したいの。あなたは何もしないでふたりを見過ごして頂戴」

「ま、また何か企んでるんだろう? 例のプランは作り話だって、藤田も言ってたじゃないか!」

「確かに例のプランは作り話よ。けれど、今は状況が違うの。あなたは酷く取り乱していて、いつ発砲するか分からない。この状況で、博打を打つ度胸なんて私にはないわ」

「む、むむむ……」


 榎本が真っ青な顔でうめいている。今は下手に刺激しない方がいい? リータは状況を見定めようと必死に神経を集中させる。


「待て! やっぱり俺が!」

「うるさいっ!」


 パンと、乾いた音がした。不吉な音だ。それが銃の発砲音だと気付くのに、リータは随分と時間がかかってしまった。


「サーシャ!」

「私は無事! それより宗作!」


 見ると、宗作が床に倒れている。床は何かで濡れていた。赤い……血?


「宗作!」

「お前!」

「動くな!」

「熱いっ!」


 榎本がまたサーシャのこめかみに銃口を突き付けた。途中まで駆けた文人はまた動けなくなる。リータも動けない。煙を吐く銃口を押し当てられて、サーシャが苦しんでいる。

 サーシャはモデルガンだと言ってたけど、あいつが手にしているのは本物の銃だ。


「文人! 撃って! 早く撃ちなさいよ!」


 サーシャがわめくも文人は唇を噛むのみ。サーシャは舌打ちをし、今度はリータに言う。


「リータ! 早く宗作の止血を!」

「う、うん!」

「動くな、女!」


 榎本の甲高い声。銃口は相変わらずサーシャのこめかみにある。リータは動けない。


「早くリータ! 間に合わない!」

「で、でも……サーシャが……」

「私より宗作でしょ!」

「え?」


 サーシャの言葉に、リータの心臓がどきりと大きな音を出す。


「私より、宗作でしょ? あなたにとって一番大切なのは、私ではなく宗作なのよ!」

「え? でも……サーシャ……?」

「いいから、急いで! 私は死んでも構わないのよ!」

「死んでも? 何それ?」


 リータの胸の鼓動がどんどん大きくなる。サーシャは死んでもいい? 私はサーシャより宗作を優先すべき?

 動揺するリータの耳に文人の声が飛び込んでくる。


「くそっ! 宗作さんは俺が見る!」

「ダメ、文人!」


 文人が銃を下ろすと同時に、また発砲音。


「ちっ! 外した!」


 榎本の忌々しげな声。その榎本をサーシャが怒鳴りつける。


「あなたね! 警官殺しなんてするつもりなの!」

「うるさい! ひとり殺すもふたり殺すも一緒だよ! 僕にはもう、怖いものなんて何もない! 破滅だ! 破滅なんだよ!」


 金属を擦り合わせたみたいな声で笑い続ける榎本。銃口はまたサーシャの方を向いていた。


「文人! 早く撃って! 私に構わず! リータはぼさっとしてないで宗作!」


 かすれた声でサーシャが叫び続ける。

 サーシャ? 宗作? 私はどっちを選べばいいの? リータはいつまでも迷いから脱せずにいた。


「リータ! あなたは宗作を選ぶのよ!」


 リータは弾かれたように駆け出す。目指すは宗作の側。


「俺はいいから、サーシャさんを……」

「サーシャより、宗作なの!」


 リータはただ宗作の止血だけを考える。弾は右の二の腕に当たって突き抜けていた。鉄砲で撃たれた時、弾丸が貫通している方が身体のダメージは少ない。前に父が言っていた言葉を思い出す。大丈夫。きっと大丈夫。止血の方法も聞いている。布で心臓に近い側を縛るのだ。ジャージは伸縮性がありすぎる。下に着ている長袖シャツの方がいいに違いない。躊躇いなく脱ぎ、割いてから腕に巻き付け、近くにあったペンを軸にして絞る。そして余りの布を傷口に当て、手で直接圧迫した。


「宗作……大丈夫だからね……きっと大丈夫……」


 宗作を安心させるように言い続ける。自分に向けて言ってるのかもしれない。


「おい! 何そこで勝手なことしてる!」

「やめなさい! 撃つなら私を!」


 何やってるの、サーシャ? そんな……銃を持つ相手に掴みかかったりしたら……撃たれちゃうよ……? ダメだよ、そんなの……。

 また発砲音。


「サーシャ!」


 思わず腰を浮かせて叫ぶ。


「大丈夫! 当たってない! リータはそのまま宗作を! 文人は早く撃ってっ!」


 また発砲音。

 音が違う。


「ぎゃあああっ!」


 聞き飽きた耳障りな声。


「やっと撃ったわね! このノロマ!」


 元気そうなサーシャの罵倒が聞こえる。

 文人は何も言わずにサーシャの方へと駆け寄った。


「ちょっと! 私はいいから早くこの男を拘束……」


 文人に抱き締められたサーシャが黙り込む。ふたりとも無言で抱き合った。

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