三章

一話 サーシャと文人 (サーシャ)

 リータが学校へ出た時間になってから、ようやくサーシャは身体を起こす。顔も見たくないくらいリータを嫌っているからではなく、今顔を合わせてお互いに気まずい思いをするのがつらいから。

 顔を洗ってダイニングに行くと、なぜか普段着の文人がテーブルに向かって座っていた。テーブルにだらしなく頬杖をついている。


「ようやく起き出したか、お姫様。おはよう」

「……おはよう。どうしたの? あなたなんて呼んでいないわよ?」

「相変わらずの言い草だな。ソフィさんが顔を出せって言ってきたんだよ。双子が酷い喧嘩をやらかしたから慰めてやれとさ」

「お母さんもあなたも余計なお世話だわ……」


 家には誰もいないと思って寝間着のまま下りてきたのは失敗か。顔が赤らみかけているのを悟られないようにしながら、サーシャは毎朝そうしているように、まずはポットに水を入れてガスコンロにかける。


「お前ら、普段べったりだからたまに喧嘩するとメンドくさいよな? その度に俺が仲裁してる気がするぜ」


 ぶつくさとうるさい。だけれど本当に面倒だと思うなら、休みの日にこうして顔を出すことはしないだろう。文人の心遣いに危うく涙が溢れそうになって、サーシャは自分が酷く心を弱らせていることを改めて知った。


「今回は少しばかり深刻なの。聞きたくなかったリータの本音を聞いてしまったのだから」

「リータの本音?」

「そうよ。あの子、いつもうるさく干渉してくる私のことを、ずっと疎ましく思っていたの。自分は家から出ないくせにってね」

「なーんか、お前の僻みが大分入ってそうだなぁ。あいつがサーシャのことを悪く思ってるわけないだろ? そんなの分かりきった話だ」


 サーシャの胸のうずきを、文人はわざとたいした話ではないように扱う。


「そうね、私もそう思いたいわ。だけれど、あの子が私を大事に思っていないことは確実なの」

「だから、それはお前の僻み……」

「あの子のせいで私は家から出られなくなったのよ!」


 叫ぶと同時に沸騰した湯がポットから溢れる。ガスコンロを消しても、サーシャの心のざわつきは収まらなかった。


「信じられない……あの子のせいなのに……けろりと忘れているだなんて……私のことなんて、どうでもいいって思っているからよ……」

「あんまり興奮するなって、心臓に悪いぜ? いいからまず、ご自慢の紅茶を淹れてくれよ」


 文人がぞんざいに優しい言葉をかけてくれる。


「そうね、そうするわ」


 サーシャは平静を取り戻すべく、いつもの通りに紅茶を淹れることにした。今朝は爽やかな渋みを持つヌワラエリヤにしよう。まずはガラス製のティーポットに湯を入れて十分に温める。その湯は捨て、二人分の茶葉を入れから改めて湯を注ぐ。この時勢いよく注ぐと茶葉が湯の中で泳いで具合がいい。それから蓋をして、適切な時間まで蒸らす。自分が使うのはコバルトブルーの模様が入ったお気に入りのティーカップ。そこにできた紅茶を注ぐと、芳香が鼻をくすぐってサーシャの心を落ち着かせた。


「どうぞ、召しあがれ」


 紅茶の入った無地のティーカップを文人に差し出す。


「どうも。で? サーシャが外へ出ていけないのはリータのせいだっていうのか?」

「……そうよ。小さな頃の話だからって、忘れるなんて随分ひどいわ」


 腹が立つというより、悲しかった。あの子は自分を大切に想っていない。そう感じてしまうのだ。


「ふーん、俺も知らない話なのか? 言ってみろよ」

「ごめんなさい。言いたくないわ……」


 サーシャはうなだれて紅茶の水面を見つめる。リータにわだかまりを持つ今の状態では、彼女を非難するだけに終始しそうだ。それはイヤだった。


「お前って普段高飛車なくせに根っこの方はウジウジしてるよな? いいから言ってみろよ。人に話してみたら、思い込んでたほど大げさな話じゃないって分かったりするもんだぜ?」

「そうかもしれないわね……。だけれど、今は話す気になれないの。ごめんなさい」

「そうかい」


 大きくため息をついた後、文人が椅子を引いて立つ。自分の頑なな態度のせいで彼にまで愛想をつかれた。サーシャは強ばった顔を上げて腰を浮かせる。


「待って!」


 一人にしないで!


「庭を散歩しようぜ。今日はいい天気だぞ」


 いつもの軽い調子で言ってくれる。


「散歩……散歩。そうね、悪くないわ」


 ふらつきそうになるのをなんとか堪えながら、サーシャも立ち上がった。文人の思いやりに胸が温かくなる。


「その前に着替えろよな。それ、寝間着だろ?」


 にやりと言われてしまった途端、サーシャは顔が火照ってしまう。






 文人相手に着飾っても仕方がない。それは分かっているが、あまりに雑な格好もどうかと思う。

 結局選んだのはホワイトのミモレ丈スカート。ボーダーシャツの上にデニムのジャケットを合わせる。

 二階から下りていくと、ダイニングのテーブルにだらしなくヒジをついていた文人が大げさにあくびをした。


「いつまで待たせるんだよ、日が暮れるぜ」

「うるさいわね、レディは仕度に時間がかかるものなのよ」

「レディねぇ。いいから早く出ようぜ」


 わざわざ着替えたのに服の感想を寄こさない辺りがしょせん文人だ。

 外は少し肌寒かったが、それがむしろ心地良い。チェスノコフ家の庭はみもろ台の中では一番の広さで、サーシャがマメに手入れをしているのでなかなか立派なものだった。


「どう? 見事なバラでしょう? 今年はうまく咲いてくれたわ」

「庭いじりが趣味とか、年寄りくさいよな」

「そういう言い方をしない。これでなかなか奥深いものなのよ」


 近所のおばさん連中に見せると感嘆の声を聞くことができるのだが、それを文人に期待しても虚しいだけだ。分かっていても内心がっかりするサーシャ。

 交番のお巡りさんたる文人のくだらない日常話を聞きながら庭を回っていくだけで、サーシャは鬱々としていた気分が晴れていくのを感じた。


「で、大騒ぎした挙げ句、家の鍵はカバンの中から出てきたんだ。そもそもなんで鍵屋じゃなくて交番に来るのかがよく分からないんだよな」

「拳銃で鍵を撃ち抜いて欲しかったのね。文人が拳銃もロクに撃てない、特殊部隊を三ヶ月で追い出されたダメ警官だとは知りもしないで」

「へっ! 特殊部隊なんてご立派なもんはうちの県警にはないっての。俺がクビになったのは銃器対策部隊だ」


 などと論点でないところを修正してくる。

 文人はこの精鋭が集まる部隊に晴れて抜擢されたのに、肝心な時に凶悪犯を撃てなくてお役御免になっていた。チェスノコワ姉妹とその母はいつも笑いの種にし、元軍人たるチェススコフ氏は不甲斐ない親戚を時々思い出しては叱責する。

 本当のところ、文人の優しすぎる性格が徒になったのだと、サーシャたちはちゃんと分かっていた。


「そんなことだから、合コンに出ても悲惨なことになるんだわ。さ、パーゴラよ。ひと休みしましょう」

「おい、ちょっと待て! なんで合コンのこと知ってるんだ?」

「地域のオバサマの間では有名な話よ。心を読むまでもなく、あなたのみっともない話は瞬くうちに知れ渡るの」


 ゆったりとした動作で藤棚の下のベンチに腰かける。


「なんてこった」


 文人も座り、テーブルの上にバスケットを置く。バスケットの中にはサーシャが用意した魔法瓶とスコーンが入れてあった。

 それらでひと息入れる。


「外で飲むお茶もなかなかのものだわ」

「お前どんだけ紅茶が好きなんだよ」


 ぶつくさ言いながら付き合う文人。リータの場合だと、紅茶に飽きたらきっぱりと断って牛乳を飲んだりした。

 リータのことが頭に浮かんだ途端に気分が沈んでしまう。


「このままどうなるのだろう、私たち」

「どうって、サーシャは仲直りしたいんだろ?」


 愚痴をこぼしてしまったと気付いてサーシャは恥ずかしくなったが、ここは思い切って文人に話を聞いてもらおうと決意する。


「だけれど、私はあの子を許せるのかしら? 酷いことを言われたし、大事なことを忘れていたのよ?」

「忘れてたら教えてやったらいいだろ? 間抜けなあいつのことだから、ちょっとド忘れしてるだけだって」

「ちょっと忘れているだけだなんて……」


 文人は大儀そうに立ち上がると、サーシャの後ろに回り込んできた。そして両肩に手を置くとぐいっと力を入れて掴んでくる。すぐに力を緩めて、また握って。

 そうやって肩を揉まれると身体全体が解れていくのを感じる。リータがいない不安だけで随分と身体を強ばらせていたようだ。


「ふぅ……」

「細かいことにこだわるな。何より大事なのはあいつだろ? ちょっとした行き違いは話し合えばすぐに正せるって」

「そうね……そうかもね……」

「お前にも反省するところはあるんじゃないのか? それはちゃんと謝っとけよ?」

「そうねぇ……私は謝らずに済ますことはできないかしら?」

「お前なぁ……」


 文人が指先に力を入れてサーシャの肩にめり込ませてきた。


「痛い痛い! 分かった! 分かっているわ! 私はもっとあの子の意志を尊重すべきだったっ!」

「分かればいいんだ」


 また普通に揉んでくる。


「だけれど、私はあの子のことを考えて助言をしていたのよ? 僻んでいるからだとか、そんなのじゃないんだから……」

「そう言われたのか?」

「ええ、おためごかしだとまで」


 リータを悪く言うような愚痴をこぼした失敗に気付いたサーシャだが、言ってしまったことは引っ込められない。


「あいつがそれだけ言うんだから、よっぽど怒ってるってことだ。やっぱりちゃんと謝っとけよな?」

「そうね……あの子にあんなセリフを言わせてしまった私が悪いのよね……」

「よし、ちゃんと分かってるな」


 文人がぽんと肩を叩く。

 愚痴を聞いてもらっただけで、自分が何をしないといけないのかよく分かってきた。ちゃんと謝らないと……。


「なぁサーシャ、外へ出てみないか?」

「もうここは外よ?」


 不思議に思って後ろにいる文人を見上げるサーシャ。


「違う。屋敷の敷地の外だ」

「それは無理よ。知っているでしょう?」


 また前を向いてうなだれてしまう。


「お前が頑張る姿を見せてやれば、リータも心を動かされる。宗作氏の方に気を取られているあいつも、お前の方をまた向いてくれるさ」

「そうかしら? そうかもね……」


 今のリータは自分より宗作の方に関心が向いている。サーシャにしてみれば考えるだけで身体が震えてしまう恐ろしい話だが、今の状況を考えると頭から否定しきれない……。

 いいや、リータは常にサーシャのことを第一に考えてくれていたはず。今はほんの少しボタンを掛け違えてしまっているけれど、サーシャが素直に謝れば、今までどおりにすぐ戻れるはずだ。

 その、自分の誠意を見せる為にも、今まで避けていた家の外へと踏み出してみるべき?


「分かったわ。やってみましょう」


 強く決意し、サーシャは立ち上がる。






 サーシャの背よりずっと高いところまである鉄格子の扉。黒くて太い鉄の棒はいつ見ても強い圧迫感を与えてくる。他の家族は気軽に触れているのに……。

 この扉がチェスノコフ家の敷地とその外とを隔てていた。まずはこれを開かなくては。

 鉄格子を握っただけで手に汗がにじむ。力を入れてゆっくり引くと、まるで地獄から響いてくるような耳障りな音を立てて扉は開いていった。


「よし、いいぞ」


 少し離れた後ろから、文人が見守ってくれている。それだけでサーシャは心強かった。


「じ、じぁあ、行くわね」


 境界線の内側に立った途端、身体中からぶわりと冷たい汗が噴き出す。この後すぐにシャワーをしなくては。そんな場違いなことが頭をよぎる。

 右足を上げ、前へ出す。

 途端に獣の恐るべき怒号が耳をつんざいた。私を狙っている! 喉元に食い付いてくる! いや、そんなわけがない。この辺りにそんな獣はいない。幻だ、私の心が聴かせる幻聴だ……。どうにかして心を落ち着けないと。

 眼前に広がる森がざわついた。ゆったりと揺れる木々が、覆い被さるようにして私を挑発する。早くこっちへ来い。おいしくおいしく喰ってやる。これも幻だ、幻だ……。

 幻だと分かっているのに、次から次へと襲いかかる悪意を拭い捨てることができない。身体がどうしようもなく強ばって私のものじゃなくなっている。

 どうすればいい? どうすればの、リータ? でもリータの愛らしい声は聞こえてこない。今はあの子と心が繋がっていないんだ。あの子を振り向かせるためにも、私は前へ進んでみせないといけない。分かってる、分かってる! でも、身体が動かないの! リータ、助けてリータ!

 カァと一声鳴った。見上げると烏が一羽、羽音を立てながら旋回している。不吉そのものの黒いヤツは、悠然と空から滑り降りてくると、私の行き先を遮るように翼を大きくばたつかせながら、不敵な様子でほんの数歩先に降り立った。

 こっちを見ている! 黒い残酷な眼で私を見ている! 首を傾げたのは、哀れな獲物を品定めしているから。軽く跳んで一歩近付く。嘲笑するように跳ね、いたぶるように少しずつ迫ってくる。

 サーシャは烏が近寄るたびに後ろへ下がった。情けなく地面に腰を落とす。胸元から不快なものが込み上げる。身をひねって何もかもに背を向けた直後、涙に塗れながらみじめに嘔吐した。






 サーシャは湯船から出られないまま、ひたすら落ち込んでいく。

 なんて弱虫なんだろう。いつもあれだけ偉そうにしているのに、はるか昔の呪縛を未だに振り切れずにいるだなんて。

 でもどうしようもなかった。恐ろしかった。

 かえってリータに顔向けできなくなったのでは? 自分は相変わらず家から出ずに妹を嫉み続けるだけの女なのだ。サーシャはそう思わずにはいられなかった。


「おい、サーシャ。大丈夫か?」

「えっ!」


 浴室の磨りガラスの向こうに文人が立っている。脱衣所に入ってきたのだ。


「悪かったな、無理させて」

「え? その……いいえ。私が望んだことよ」


 その脱衣所にはサーシャの汚れ物と着替えがある。かといって、心配してくれているのに出ていけとは言いづらい。どうしたものか、サーシャの頭は混乱してしまう。


「なぁ、サーシャ」


 文人の手が磨りガラスに触れた。大きな手のひらが透けて見える。


「ちょっと待ちなさい! 何する気!」


 湯船の中で身を丸めて自分の身体を隠した。入ってくるんじゃないかと焦ってしまう。


「そうか、俺のせいだもんな……あんな酷いことに……」

「い、いや、そんなことないわ。全部私が悪いのよ、臆病な私が」


 あんなみっともないところを文人に見られてしまって、サーシャは恥ずかしくって仕方がない。

 でもちょっとおかしいのでは? サーシャは自分が越えないといけない壁を越えられなかった。みじめに傷付いていないとおかしいのに、ヘンに文人を意識しすぎている。まるで恋する乙女のような反応だ。

 絶対におかしい。

 サーシャはバスタブの中ですっくと立ち上がって文人の方へ身体を向ける。両手を腰に当て、両足を踏ん張って。


「さっきのは全部私が悪いのよ。臆病者の私が悪い」

「でも、あんなことになるなんて……」


 そう言われるとサーシャはいっそう恥ずかしくなる。吐いた後、声をかけてくれた文人をすがるように見上げてしまったのだ。あんなのはサーシャではない。


「文人にはむしろ感謝しているの、私に挑戦するきっかけを与えてくれたのだから」

「そうだな、お前は挑戦した。今日は失敗したけど、またいつか挑戦してくれよ。お前ならいつか乗り越えられるって思うんだ」


 文人の優しい言葉はいつもサーシャを力付けてくれる。


「そうね、そのとおりだわ。今日のことは、きっと私の励みになってくれると思うの。いつかきっと、私は外へ出ていける。リータと外で遊ぶのよ」

「うん、その意気だ。今日のことはリータにも伝えろよ。お前が頑張ったって知ったら、あいつも喜ぶからな」

「え? うーん、でも……私、吐いちゃったしねぇ」


 無二の姉妹とはいえ、文人の前でみっともない姿を晒したことを言うのは恥ずかしい。


「あいつ相手に隠しごとはなしだろ?」

「そうね、そのとおりだわ。リータにはちゃんと伝える。私にも、外へ出ていく気があるということを」

「うん、そうしろ。お前がただ僻んでるだけだなんて、そんなセリフはもうあいつに言わせるな」


 随分と酷い目に遭ったと思ったけれど、文人に励まされているうちにちゃんとした意味のある行為だったのだと思えてきた。

 そうやって自分を支えてくれる彼の思いやりに、サーシャは胸の内がじんわりと温かくなる。


「じゃあ文人、そこから出ていきなさい? それとも私の滑らかな裸体を拝みたいのかしら?」

「お、おう悪かった。じゃあ、俺はいったん帰るわ」


 慌ただしく出ていく。奴はしょせんヘタレだと、サーシャは再確認。

 ともあれ気分も晴れた。浴室を出たサーシャは、脱衣所に見慣れたものが置いてあるのに気付く。


「ペンダント……」


 いつも付けていたペンダント。リータが持っているものとペアになっていて、二つを合わせると双頭の鷲の意匠が見て取れるようになる。チェーンもちゃんと直されてあった。

 ほんの数日見なかっただけなのに、とても懐かしいもののように思える。


「ありがとう、文人。でもね……でも……」


 ワナワナと震えてしまう。


「下着の上に置くことないじゃないっ!」


 サーシャの身体が真っ赤なのは、お風呂上がりのせいだけではない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る