六話 チェスノコフ家の夜 (サーシャ)

 サーシャはリータとの『接続』を切って大きく伸びをする。

 サーシャからすればリータは真面目に考えすぎで、どうでもいいことに首を突っ込んでいるように見えた。

 後でたしなめようと決めてから、サーシャは最後のマフィンにナイフを入れる。


「あ、また全部食べやがった。太るぞ」


 母がいきなり毒づいてきた。そう言う母こそ最近肉が付いてきたと愚痴ばかりこぼしている。彼女は日本人とロシア人のハーフで、見た目は日本人に近いが昔はリータと同じくらいスタイルがよかったらしい。


「別にいいでしょ? 私には甘いものを食べるくらいしか楽しみがないの」

「ウソつきなさいよ。リータをこき使って好き放題してるでしょうに」


 言いながら、母はキッチンに向かう。そこのシンクには今日一日分の食器が洗わずに置かれたままになっている。サーシャは気を利かせて洗っておくような出来た娘ではない。


「あれは地域の平和のためよ。時にはやりたくないこともしているの。今日だって薄汚いニートの相手をしていたんだから」

「自分だってニートのくせに。それに、直接相手をするのはリータでしょ? あの子は誰かさんとは違って人の好き嫌いがないけど、その分、無防備すぎて心配なとこもあるんだよね。そのニートは大丈夫そう?」

「うーん、まぁ、害はなさそうだけれど……」


 あごに指を添えて首を傾げる。


「ん?」


 洗い物をしながら母がサーシャの方へ顔を向けた。


「明日、二人で遊びにいくらしいの。リータの方から誘ってね。相手はいかにもモテなさそうだし、ヘンな勘違いをしないか心配だわ」

「へぇ、デートか。いいじゃん、うまい具合にそそのかしてくっつけちゃおうよ。リータもそろそろ恋をしなくっちゃ」

「またお母さんはそういうタチの悪いことを言うでしょ? 相手は一回り年上の、ゲームオタクの、ニートなのよ?」


 洗い物を終えた母が冷蔵庫を開ける。夕飯の準備だ。


「年上の方がいいんだよ。リータは華やかすぎるからフツーの高校生じゃ釣り合わないでしょ? かといってヤルことしか考えてないチャラいのとかヘンタイとかは論外だし」

「論外よ。そういう奴を粉砕するのに私がどれだけ苦労しているか」


 強くうなずくサーシャ。リータは異性に対して隙だらけなので、サーシャが気を付けてやらないと大変なことになってしまう。


「苦労ねぇ。そんなに心配なら、ずっと隣にいて守ってやらないと。テレパシーなんかに頼ってないでね」

「そんなのムリに決まってるじゃない。私はここを出られないんだから」

「まだそんなことを言うか」


 いきなり母がデコピンをしてきた。


「サーシャ、あんたは外に出られないんじゃない。前に踏み出すのを怖がってるだけなんだ。でもそんなんじゃダメだよ? リータだけが前へと駆けていっちゃう」

「余計な心配だわ。リータとはいつも繋がっているんだから」


 サーシャは痛みがなかなか引かない額を撫でながら、もう片方の手で胸から下げているペンダントをぎゅと握りしめる。


「自分にウソをつくのはやめな。後で酷い目に遭うよ?」


 そう言って、今度は両頬を片手で鷲づかみにしてくる。母の言うことはただの言いがかりだとサーシャは思ったが、それをこの人に分からせるのは苦労の割に益がないので黙っておく。

 ここで玄関からリータのただいまの声が聞こえてきた。


「お、帰ってきたね」

「私が行くわ、お母さん」


 玄関に行きかけた母を引き留め、サーシャは妹を迎えるために立ち上がる。なぜだか少しでも早くリータの顔を見たかった。






 夕食は温めるだけで食べられる出来合いのローストビーフ。サーシャは紅茶と甘いもの以外の食べ物には興味がないのでこれで十分だ。


「で、リータ、明日デートするんだって?」

「デート? ううん、遊びにいくだけだよ」


 母の言葉にきょとんとするリータ。本心からただの遊びのつもりでいるのだろう。


「男女が二人で遊べばそれはデートだよ。自分から誘ったなんてやるじゃん」


 煽り立てる母は、サーシャが睨んでも無視してくる。


「相手はどんな男なんだ?」


 父はなんだか怯えたような声を出す。ロシア人たる父は日本人とは比較にならない筋骨を備えているのに、娘のこととなると弱々しくなってしまう。


「いい人だよ。ヘンな疑いをかけたのに、すぐに許してくれたの」

「許したっていうか、気が弱すぎて自己主張できずじまいだっただけよ」

「ええ? サーシャ、そういう言い方しないでよ~」


 リータが口を尖らせる。


「気が弱いんじゃなくて優しいんだよ。いい人見付けたんじゃん、リータ。ユーラもさ、娘の成長を祝ってあげなきゃ」

「む、むぅ……」


 優しげに夫の手を取る妻だが、この人はただ娘を煽りたいだけだとサーシャは知っていた。


「それでサーシャ、どこへ遊びにいったらいいと思う?」


 リータがにこにこ顔でサーシャの方へ身を乗り出す。


「リータ、本気であんな男と遊ぶつもりなの?」


 たしなめるのは食事の後にするつもりだったが、今はっきりさせた方がいいとサーシャは判断した。


「あんな男だなんて言い方しないでよ……」


 リータがしょんぼりとつぶやいたが、ここで引いてはいけないとサーシャは気を強く持つ。


「遊ぶのはやめるべきだと思うわ。リータは無邪気だから分かっていないでしょうけれど、気弱なようでも男は男。いつ牙を剥くか分かったものじゃないの」

「そんなぁ。サーシャだって賛成してくれたじゃない……」


 身体をくねらせ甘えるように訴えてきた。


「賛成したわけじゃないわ。彼にも事情があるのだろうという話をしただけ。私はもう、この件を幕引きにしたいの」


 冷たい言い方になったが、自分の意志をちゃんと伝えれば妹はちゃんと分かってくれる。サーシャはそう確信していた。

 と、リータが姿勢を正して顔を引き締める。


「でも、私は宗作の事情をちゃんと本人から聞きたいの。自分のことを誰かに理解してもらうのは大切なことだってサーシャも言ってたじゃない」

「別にあの場で話を聞くだけでよかったのよ。いちいち遊ぶ必要はないの」

「ううん。仲よくならないと教えてくれないことはきっとあるんだ。それでもし宗作が悩んでたり苦しんでたりしたら、気持ちを共有して一緒になって考えていきたいの。それが私の罪滅ぼしなんだよ」


 お菓子の取り合いのようなくだらない話ならともかく、真面目な話をしていて妹がここまで食い下がるのは珍しい。リータの態度に、サーシャは自分の胸が不穏にざわつくのを感じた。


「そんなに彼をヘンタイ扱いしたことを気にしているの? あの男は不審者だって疑われても仕方がないくらい怪しげな出で立ちだったのよ? 向こうにだって非はあるんだから」


 サーシャが慰めるように言うと、リータは頭を大きく左右に振って、自分の思いをはっきりと示してきた。


「そうやって見た目だけで判断しちゃいけなかったんだよ。私はやっちゃいけないことをしてしまったの。なんて悪い奴なんだろうって、自分が恥ずかしいよ」

「それって、私を非難している?」

「え?」


 サーシャが思わず強く言うと、驚いたらしいリータは顔を強ばらせてしまった。自分の失敗にすぐ気付いたサーシャだが、一回噴き出した怒りはすぐには収まらない。


「だってそうじゃない。あいつはヘンタイだってリータに吹き込んだのは私よ? それなのに私はちっとも反省していない。リータから見れば、私はとんでもない恥知らずなんでしょうね?」

「え? 何言ってるか分かんないよ、サーシャ……」


 戸惑いを顔に浮かべたリータは目が潤んでいる。すぐにも泣き出しそうだ。


「あんたさ、逆ギレとか大概にしときなよ」


 呆れた様子の母が口出しをする。


「だって……」


 母に言われるまでもなく、自分は内心抱えている後ろめたさをリータにぶつけているだけ。サーシャは唇を噛んでうつむく。


「サーシャ」


 父が口を開く。その低い声は咎めるようなものではなく優しさに満ちていた。


「お前が妹の心配をしているのはよく分かる。だが、リータの意志をもう少し尊重してあげてもいいんじゃないか?」


 父にそう言われ、サーシャは静かに目をつむって考える。自分はどうすべきか、姉として、一番の仲よしとして……。サーシャは顔を上げると、前にいるリータをしっかりと見つめた。


「分かった。リータ、あなたの好きにするといいわ。私はもう邪魔なんてしない」

「ホント、サーシャ?」


 途端にリータは口元をほころばせた笑顔になる。


「本当よ。だけれど、明日どこへ行くかは自分で決めなさい?」

「そっか、そうだよね。うーん、どこがいいかな?」


 考え込み始めたリータが首の後ろに片手を回した途端、首に巻いていたチョーカーがするりと落ちた。


「わっ!」

「えっ!」


 チョーカーに付けてあったペンダントが、床に当たって乾いた音を出す。リータは慌てた様子ですぐにチョーカーごとペンダントを拾い上げた。


「壊れたかな?」


 妹は今にも泣きそうな顔で姉を見つめる。


「大丈夫よ、壊れていないわ」


 『接続』を試してみたが、いつもと変わりがない。


「そんなヤワなものじゃないさ」


 父が落ち着いた声で言ってくれたので、サーシャは気分がだいぶん楽になる。


「ゴメンね、サーシャ……」

「何の問題もないわ。別のチョーカーはあるんでしょ?」

「うん」


 目に涙を溜めているリータが鼻水をすすった。






 サーシャはいつも長い時間をかけて風呂に入る。バスタブにたっぷりと張った湯に身体を沈めると、こことは違う世界に足を踏み入れたような気分になった。知らない草花が生えた原っぱを裸足で駆け巡る。そんな自分の姿を、湯気の向こうに幻視した。

 だけれど本当の自分はずっと屋敷の中。超能力はなんて無力なのだろうとサーシャは思う。リータとどれだけ長い間感覚を共有しても、自分が外にいるという実感は最後まで得られない。屋敷から出ていないという事実を打ち消すことはできなかった。

 さっきペンダントが床に落ちて音を出した瞬間、何かイヤなモノが一気に眼前まで迫ってきたのを感じた。

 リータは姉の制止を振り切り外へと飛び出す。サーシャは妹を追いかけたくても外へは出られない。ずっと一緒のつもりだったのに、もうすぐ離れ離れになってしまう?

 あまりにも不吉な考えなのに、脳裏にこびり付いたままいつまでも消え去ってくれない。サーシャはバスタブの中で、ただただ震え続けた。

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