八話 母は心配 (リータ)
家の門が近付くにつれてリータは憂鬱な気分になってしまう。これから母の説教だ。
門の向こうに人影が見える。
「え? サーシャ」
ぽつねんと立っていたサーシャの側へ自転車を停める。
「遅かったわね、リータ」
喧嘩する前と同じ優しい微笑み。
「いつから待っててくれたの?」
「お母さんが電話を切った後もうるさくわめいていたから出てきただけよ」
「う、やっぱりお母さん怒ってる?」
「激怒しているわ。でも安心なさい、私が言い負かしてあげるから」
「ありがとう……」
喧嘩していたのにサーシャはリータのことをあいかわらず想ってくれている。そしてこうしてリータがピンチになったら助けてくれるのだ。リータはうれしくてたまらない。
サーシャが少しうつむく。手を握ったり開いたり落ち着かない。
前の話し合いの時はサーシャの方から謝ってくれていた。今度は自分から謝るべきだとリータは気付く。
「ゴメンね、サーシャ。無神経なこと言っちゃって」
「私こそ、ごめんなさいね。リータを酷く傷付けてしまったわ」
「バカな私が悪いんだよ。外を怖がるサーシャの気持ちをちゃんと理解すべきなのに……」
涙がにじんでくる。
「リータ、あれから私は考えたの。私はリータが宗作にこだわり続ける理由が分からない。リータはなぜ私がこんなにも外を怖がるのか理解できない」
「……うん」
悲しいけど、今の二人は分かり合えていないのかもしれない。宗作はそれを認め合えばいいと言っていたけど、そんなことできるのだろうか?
「でもね、リータ。もっとじっくりと話し合えば、二人はちゃんと分かり合えると思うの。私たちがお互いのことで理解できない部分があるなんて、そんなのありえないわ」
サーシャは宗作とは違うことを言っている。じっくり話せば分かり合えるのだろうか? それとも分かり合えないのを認めた方がいい? どっちが正しいんだろう。
宗作の言うことを否定するわけじゃないけど、やっぱりサーシャとは分かり合いたい。分かり合えると信じたい。
「だよね、サーシャ。もっとじっくりお話しよう。あっ! 後で報告したいこともあるの」
「そう? じゃあ、今日は久し振りに一緒に寝ましょう」
「うん、そうしよう。じゃあ、自転車停めてくるね」
「その前に」
サーシャが唇を差し出してきたのでリータは軽く口付けをした。やっぱりサーシャとキスすると安心できる。
リータがガレージに自転車を停めて玄関へ向かうと、サーシャは玄関扉の前で待ってくれていた。
「覚悟はできている? お母さんは怒ると鬼婆そのものだからね」
「だよね、うう……」
「大丈夫よ。私に任せなさい」
そう言って、頼りになるサーシャが玄関扉を勢いよく開ける。
扉を開けたすぐ向こうに母が立っていた。腕組みをして両足を開き気味にして。
「よう、不良娘」
ドスの利いた声。
「リータは別に不良でもなんでもないわ。友だちと仲よく時をすごすことのどこが問題なのかしら? 今まで外泊は何度もしているわよね?」
リータに代わってサーシャが応じてくれる。
「宗作はただの友だちじゃないの。今はまだ友だちってだけでこれから発展していくとこなんだ。今の段階でお泊まりなんてして間違いがあったらどうする?」
「間違いが起こるだなんてお母さんが勝手に思い込んでいるだけだわ。リータと宗作は間違いなんて起こり得ないただの友だちなの。お母さんは二人をくっつけようなどと煽り立てているから、外泊の話が出た途端にゲスの勘ぐりをしてしまうのよ」
サーシャが厳しく母を睨み付けた。
「ほう、ゲスの勘ぐりとは言うもんだ。私はね、親としてリータの心配をしてるの。ちゃんと段階を踏んで、いざって時に責任を取れる関係になったらお泊まりくらい好きなだけ認めてやるよ。お付き合いが始まってすらない今はダメ」
「いざって時?」
サーシャが首を傾げる。リータには母の言いたいことが何となく分かったが、サーシャは今いちよく分かっていないようだ。
「妊娠だよ。ちゃんと責任取って結婚してくれないと困るでしょ?」
「妊娠! 結婚! そんなことまで考えているの、お母さん!」
不意を突かれたらしいサーシャが大きい声を出す。
一方で友だちの多いリータは、同年代のそういう話を又聞きの又聞きくらいの距離感で聞いていたりする。リータにはよく分からない話だが、そういうこともあるらしいと認識していた。
似たり寄ったりではあるが、チェスノコワ姉妹は姉の方がウブなのだ。
「当たり前じゃん。そもそもサーシャ、間違いってなんだと思ってんの?」
「え? それは……間違いは間違いよ?」
「間違いって言ったら、普通は成り行きのセックスでしょ? さらにその結果としての意図しない妊娠」
「ま、まぁ……そうかも? しれないわね?」
サーシャは視線をきょろきょろとさせて焦り続けている。髪を耳にかけたらその耳は真っ赤だった。姉を助けたいリータだけど、サーシャすら翻弄する母が相手では言い負かされるのは目に見えている。
そして母は腕組みをしたままにやにや笑い。
「サーシャってさ、口では知ったふうなことを言いながら、自分の言ってることにちゃんとした現実感を持ってないんだよね。だからちょっと生々しい話したら今みたいにぐだくだになるんだよ」
「お母さんの言い方が露骨すぎるからよ。下品。すごく下品だわ。さっきも言ったけれど、二人はただの友だちなの。しかも宗作はどうしようもないヘタレ。リータが外泊したところで間違いなんて絶対に起こり得ないのよ」
母に大分弱らされたサーシャだけど、まだ踏ん張ってリータの味方をしてくれる。リータはうれしく思ったけど、かなりダメージを受けている姉が心配でもあった。
「へっ! 耳年増のサーシャごときに男女の何が分かるってんだ。ただの友だちだとかまやかしを言ってても、セックスする時はセックスしてしまうもんなの。しかも今回の場合、リータの方から誘う危険があると私は察知した!」
「はあ? リータが誘う! そ、そ、そんなことあるわけないでしょ? 自分の娘をなんだと思っているの!」
リータが反論する前にサーシャが叫んだ。こんなにうろたえている姉は初めて見た。
「私は自分の娘をちゃんとした女だと思ってるよ。女だったら自分から誘うことだってあるんだ」
「そんなのって……そんなのって……」
サーシャは口をぱくぱくさせて狼狽し続けている。どうにかして助けたいけど、どうやったら助けられるのかさっぱり分からないリータ。
「じゃあ、もうちょっと掘り下げてみようか。リータ、夜になって急にお泊まりしたいとか言い出したけど、なんか事情があったんでしょ?」
そうリータに話を振ってくる。リータは自分がいかに宗作のことを考えているかを母にちゃんと伝えたいと思った。そうすれば間違いなんてあり得ないと分かってくれるはず。
「うん……今、宗作はすごく大きな悩みごとを抱えてるの。とても苦しんでる。だからずっと側にいてあげようって思ったの。私じゃたいした力にはなれないって分かってる。でも、少しでも宗作の気が楽になるように慰めたかったんだよ」
「ほら見ろ、サーシャ」
母がリータを指差してくる。今の発言のどこに問題があったかリータには分からない。サーシャも首を傾げていた。
「別になんの問題もないわ。優しいリータがダメな宗作を慰めてあげたいというだけでしょ?」
「慰めるって具体的にどうするんだ?」
「リータはハグが好きだからぎゅっと抱き締めてあげるんじゃないかしら? それにしたっていやらしい意味はないわ」
「サーシャはやっぱり分かってない。サーシャはやっぱり分かってない。女が男を慰めるって言ったらセックスに決まってるだろ? リータから誘ってセックスだ」
「えっ!」
無茶苦茶な言いがかりに姉妹揃って声を上げる。
「い、いや、そんなことしないよ、私」
思ってもみないことを言われてリータは焦ってしまう。
「そ、そうよ、リータに限って……リータに限って、そんなことするわけないわ……」
「好きな男のためだったらそれくらいする気になるもんなの。自分じゃたいして力になれないなんて思ってたらなおさらね。後、弱ってるとこ見てキュンと来たりとかもあるし」
「ちょっと待ってちょっと待って。お母さんの話は好きな男が相手の場合なのよね? リータと宗作はあくまでただの友だちなの。好きだとかそういう関係じゃないのよ。前提条件が成り立っていないわ」
「あの……サーシャ?」
「ん? 何リータ?」
サーシャはかなりやつれてしまっている。母に揺さぶられて酷い有様だ。それでもリータはサーシャにはちゃんと伝えたいと思った。
「後でちゃんと言おうと思ったんだけどね……。私、宗作のことが好きなの」
「え? そんなの初耳よ?」
サーシャが目を見開く。姉に大きなショックを与えてしまい、リータは申し訳なくて仕方がない。
「うん、今日気付いたの……」
「ほら見ろ! 恋のし始めなんて滅茶苦茶流されやすいんだから。私の判断、大正解!」
母が両手を腰に当てて勝ち誇る。
「で、でも、宗作は二十九才のデブダサゲームオタクなのよ? リータみたいなかわいい子が好きになるなんて、ありえないわ……」
身体をふらつかせているサーシャの肩を母ががしっと抱く。
「サーシャちゃんさぁ、あんた賢いつもりでいるみたいだけど、しょせん知識オンリーで分かった気になってるだけなんだよね。見てごらんよ、あんたの大切な妹をさ。いつもの何倍もかわいいでしょ?」
「本当だわ……」
「あれが恋する乙女なんですよ。サーシャちゃんが家に引きこもってる間に、リータちゃんは新しい世界を見付けちゃったんだ。今のままじゃ置いてけぼりになっちゃうよ、あんた?」
「う……そういう結論に持っていきたいのね……」
「ま、ここからはあんた次第だよ!」
母がサーシャの背中を平手で叩いてよろめかす。続いて母はリータの腕を強く叩いてきた。
「好きって気持ちに押し流されるなよ。着実に段階を踏むように。まずはちゃんとしたお付き合いだ」
「うん、分かった」
「よし、聞き分けのいい娘でうれしいよ」
ぺしぺしとリータのほっぺを軽く叩いてから、母はダイニングの方へ消えた。
さてと。多大なショックを受けてしまっている姉を慰めねば。リータはうなだれているサーシャの肩にそっと手を置く。
「大丈夫、サーシャ?」
「ええ……。いいえ、地面が揺れて見えるわ。ちょっとそこに座るわね」
「う、うん」
廊下の壁際に腰を下ろし、膝を抱えてしまうサーシャ。リータもその隣に座る。
しばらくしてサーシャが口を開く。
「お母さんが怒ったふりをしてみせて、私たちを団結させようと目論んでいるのは分かっていたのよ」
「あ、そうやって仲直りのきっかけをくれたんだ?」
「そうね。私もその思惑に乗ることにしたの。リータとは仲直りしたかったから。なのに……まさか私をいたぶるのが本当の目的だったなんて……」
膝に顔を埋めてしまう。
「いや、別にサーシャをいたぶってたんじゃないと思うよ?」
「でも実際に今の私はぼろぼろ。考えたくもなかった現実を……リータも生身の女なんだって現実を突き付けられたのよ……」
「生身の女……。サーシャも生身の女子じゃない。ちゃんと恋だってできるはずだよ?」
「いいえ、私は恋なんてしないわ」
顔を上げて引き締めた顔をする。強い決意を感じさせた。
「サーシャも外へ出ればいろいろと出会いがあると思うんだ。その……急には出ていけないのかもしれないけど……」
「外ね……外……。リータはいい出会いがあったものね」
サーシャが遠い目をする。どうにもいつもと様子が違うのでリータは調子が狂ってしまう。
「まぁ、外に出てもいいことばっかりじゃないけど、今回はいいことがあったよ」
「……私のことは追々でいいわ。それより宗作の方になにか問題があったのね? 前の会社に仕掛けた罠を発動させたの?」
サーシャがリータに顔を向けて聞いてくる。
「うん、カウントダウンが始まっちゃったの。明日の午後五時過ぎにサイトのポイントが全部ゼロになるんだって」
「あのバカ……」
「宗作はどうしてもあの榎本って社長が許せないんだよ」
「でも、リータを巻き込んだ宗作こそ、私は許せないわ」
そう言ってサーシャは唇を噛んだ。
「私は巻き込まれたんじゃないよ。自分の意志で、宗作と一緒にあの榎本を懲らしめようって決めたの」
リータは強い視線をサーシャに向けた。自分の決意をきちんとサーシャに伝えたい。
サーシャもリータをしっかりと見つめた。もう虚ろな目じゃない。
「……そうなのね。分かった、私はリータの意志を尊重するわ」
「ホント、ありがとう」
リータはサーシャの首にしがみつく。サーシャが分かってくれてうれしかった。
「さ、リータ。手洗いとうがいをなさい? それから夕食にしましょう」
「うん、今日は一緒に寝てくれる、サーシャ?」
「ええ、もちろんよ。聞きたくないけれどリータの恋の話も聞かせて頂戴」
「うん。私初恋だし、これからどうしていけばいいかよく分かんないの。相談に乗って?」
「ふっ……。私はしょせん耳年増だから大してお役に立てないけれどね……」
サーシャはまだいじけている。
ともあれサーシャと仲直りできた。さらに姉は、宗作と一緒に戦うことも、リータの新しい恋も認めてくれた。
この調子で語り合えば、きっと二人は分かり合えるはず。
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