チェスノコワ姉妹は離れない

いなばー

一章

一話 チェスノコワ姉妹 (サーシャ)

 そろそろよさそうだ。

 白磁のティーポットから漂ってきた紅茶の香りにサーシャは頬を緩めた。コバルトブルーの草花で彩られたティーカップに、琥珀色をした夏摘みのダージリンをゆっくりと注ぐ。


<サーシャ、見付けたよ!>


 突然怒鳴り声が頭の中に響き、お気に入りの静謐が台無しになる。


<何人、リータ?>


 それでも努めて感情は出さず、外にいるリータに問いかけた。


<三人。サーシャ、ビンゴだ!>


 体格の違う三人。これまでの目撃情報を総合すると、犯人像はそう絞れる。彼女にしてみれば当たり前のことだ。


<おい! 待て、あんたら!>


 リータのがなり声。今度はサーシャに向けられたものではない。

 椅子に座り直したサーシャは、ティーカップに口を付けながら意識を集中させた。

 すぐに知覚が拡張する。このダイニングにはいないリータが見ているものが、はっきりと視えるように。

 まずは前方を指さしたリータの白く伸びやかな手。ピンク色のスウェットを腕まくりにしている。

 指さす先にはアメリカのスラム街のファッションを真似たのだろう、いかにも今風の柄の悪い男が三人いた。チビ、デブ、ノッポ。

 場所はゴミが散乱している上に、水はけがよくないらしく地面が濡れている路地裏。そこにリータはいる。

 言っておいたように塗料屋では声をかけず、人通りのない路地に入ってから接触したようだ。リータにしては上出来。


<なんか用か、こるぁ!>


 リータの聴覚を通して現地の音もちゃんと聴こえる。

 チビの威嚇は姉妹には少しの効果もない。視ると向こうのパーカーの袖には何色かの塗料が付着していた。指で引っ掻いたような跡も。


<リータ、警告なさい>

<お前らがひったくりやってるのは、全部お見通しなんだ! 今すぐ警察に自首しろ! それで、昨日ひったくりをしたお婆さんに謝れ! ひったくられたハンドバッグには大事な思い出があったんだぞ!>


 ドスを利かせるでもなくリータはただ元気に叫ぶ。これであっさり降参することはないだろうが、それはサーシャにとって好都合。お婆さんは転んで骨を折ったのだ。相応の報いを痛みで受けるべき。


<へっ! 大事な思い出ときたもんだ。買い取りを拒否されたぐらいのボロだったがな!>


 チビが前に出てからかうように身体を揺すった。ハンドバッグは換金ショップからほど近いゴミバケツの中で見つかっている。随分酷く壊れていたが、見てもらったリペアショップによるとどうにか修理できるという話だ。


<やっぱりあんたらが盗んだんだね!>

<盗んでねぇよ。ちょっと借りただけだ。ま、絶対返さねぇけどなぁ~>


 どこまでも調子に乗ったチビが、言って聞かせるまでもなく勝手に自供した。他人様の壁に落書きをする、その塗料代欲しさにひったくりをするような輩なのだ。基本的に脳が足りてないのだろうと、サーシャは決め付けた。

 お婆さんがひったくりの袖をとっさに掴んだら、いくつかの色の塗料が手に付いた。その色の組み合わせから連中が落書きをしているとサーシャはすぐに気付いたが、そこから一日で足取りを掴むのはそこそこ苦労している。足を棒にしたリータはよく頑張ったので、サーシャは後で褒めてやるつもりだ。


<リータ、力ずくで捕まえてしまいなさい>

<おい、あんたら! 今すぐ捕まえてやるから覚悟しろ!>


 リータが再びひったくり犯たちを指さした。見た目ただのかわいい女の子にそう言われ、向こうは不思議そうに顔を見合わせる。このゴミだらけの湿った路地裏に、自分たちが寝転がるハメになろうとは想像もしていない顔だ。かわいそうにと憐れみながら、サーシャはクッキーをかじる。


<ちょっと待って! サーシャ!>

<ん? 何よ>

<そのクッキー! 私も楽しみにしてたんだけどっ!>

<そうなの?>


 驚いたような声を出してみたが、リータが狙っていると知っているからこそ、サーシャは今、一人で食べているのだ。


<またそういうことするでしょ~! 私もクッキー食べたい~!>

<そんな話は後になさい。先方がお待ちよ?>


 うまい具合にチビが二歩三歩と近付いてきた。これでクッキーの話は終わりだ。


<おいこら! 喧嘩売っといてクッキーとか訳分かんねぇんだよ!>


 手を上に伸ばしてリータの衿を掴もうとする。向こうの方がずっと背が低い。


<ぐぇ?>


 次の瞬間、その男は仰向けになって泥の上に転がっていた。リータが相手の手をひねったのだ。さらに容赦なく踏み付ける。


<ぐぅ!>


 首筋を勢いよく踏んだので、男は簡単に気を失ってしまった。首の骨を折らないだけ手加減している。

 さらにリータは残った二人に向かって二度ほど手招きした。サーシャからは視えないが、きっと満面の笑みだ。

 デブはたじろいて一歩引いたが、ノッポは臆せず前に出た。


<お? ボクシング?>


 足捌きからだろう、リータが敵を把握する。すぐに相手はステップを踏み始めた。

 しばらく様子を見合った後、一歩踏み出した敵がジャブを繰り出す。リータはそれを捌きながら距離を取る。


<あ、バカッ!>


 サーシャが声を出したのと、リータの視線がぐるりと一回転したのは同時。相手の顔を再び捉えた視界をリータの白い足が横切る。しかし敵はスウェイバックで難なくかわした。


<おっしぃ~!>

<惜しくない! 後ろ回し蹴りなんて大技、決まるわけないでしょ?>

<ぶぅ~>


 リータは動画で見たらしい後ろ回し蹴りにヘンな憧れがあるようだが、今まで実戦で決めたことなんて一度もない。よりにもよって今みたいに足場が濡れている場所でするなんて自殺行為だ。


<それよりリータ、奴は左目がよく見えてないわ。得意のフックで決めなさい?>


 右に比べて左側のモミアゲが雑にしか手入れされていないし、ここまでの動きを見ても左をわずかにかばっていた。


<はいよ!>


 リータが左前方に大きく踏み出す。そのフェイントに反応したノッポの左あごに、少女は大きく弧を描く右フックを叩き込んだ。死角からの打撃をまともに喰らった男が、盛大に塀際の段ボール箱に突っ込んで生ゴミをまき散らす。

 残ったデブがナイフを取り出した途端、姉妹揃ってため息をついた。


<こるぁ! 調子に乗ってんじゃねぇぞ!>


 しかし情けないほど震えている。

 リータはすたすたと近付くと、相手に何もさせずに手首とヒジを極めてナイフを奪った。途端に男がこの世の終わりみたいな叫び声を上げる。男のヒジがあらぬ方に曲がっていた。


<黙らせて、リータ>

<はいよ>


 目の前のデブが叫ぶのをやめ、水たまりの上に崩れ落ちる。リータの膝がみぞおちでも抉ったのだろう。


<リータ!>


 後ろから声がしたのは、リータが三人を結束バンドで拘束した後だった。


<遅いよ、文人あやと


 振り返ると制服を着た警官が一人。


<お前……もっと……早く……連絡しろよ!>


 ぜぇぜぇと荒い息の警官は怒っているが、姉妹は少しも怖くなかった。


<だって、モタモタしてると捕まえられないんだもん。ひったくりして、換金して、塗料買って。換金は間に合わなかったし、塗料買う時しかチャンスはないんだよ?>

<そうなのか? いや、そうかもしれんけど……>

<それよりスクーター貸してね?>

<え、なんで?>


 虚を突かれた顔の警官の方へ足早に歩いていくリータ。


<サーシャの奴がクッキー独り占めにする気なんだ>


 まだ忘れてなかったかと、サーシャは心の中で舌打ち。


<あのな、話聞けよ。もしお前らになんかあったら……>

<ある訳ないじゃん>


 リータが警官たる文人の脇をすり抜け表通りに出る。そしてクルリと反転した。


<だって私たち、無敵のチェスノコワ姉妹なんだよ?>


 文人は顔面にパイでも喰らったような間抜け面。

 無敵は言いすぎだ。サーシャは頭を横に振りながらクッキーに手を伸ばした。

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