十話 サーシャの決心 (サーシャ)

 サーシャの頭を揺さぶるだけ揺さぶった母がイスを引いて立ち上がる。

 去りかけた母に向かってサーシャは声をかけた。


「ちょっと待って頂戴。そのCDは結局何なの?」


 サーシャが指差したのは母が持っているCDやDVDを納める四角いケース。


「目ざといな」


 目ざといも何も、二人で話している間中、母はそのケースをテーブルの上で弄っていたのだ。

 ため息をついてから母がイスに座り直した。


「サーシャは外で怖い目に遭って、それを何ヶ月も夢で見続けたんだよね?」

「そうよ。それが強い暗示になっているの」


 悪夢を見ていた期間のことは今思い出しても身の毛がよだつ。


「うん。あんたの話を聞いて、暗示ってとこに私は引っかかった。だから本国の研究所に似たような事例がないか問い合わせたんだよ」

「ロシア軍の超能力の研究所ね。私たちのペンダントを作ってくれた」

「そうそう、そしたら向こうでも把握してたよ。超能力のせいでリアルすぎる夢を見た上にそれが暗示になるって現象」

「寝ている間に脳の中で念波がハウリングを起こしているのだと思うの。夢のイメージを念波として発信して自分で受信してさらにそれを発信する……。そうやって増幅されたイメージが意識下に刻まれてしまうのよ」

「それが要するに暗示だね。似たようなことを向こうも言ってたよ。で、研究所ではそうやって脳の奥の方にこびり付いた暗示を消せないか研究したらしいんだ。片手間で」

「……片手間で」


 若干引っかかるが続きを聞く。


「で、暗示を消す暗示をかける映像を開発したんだよ。その映像をダウンロードさせてもらって作ったのがこのDVD。実際のところは完全には消せずせいぜい緩和する程度らしいけど。個人差もあるしね」

「緩和するだけでも随分助かるわ。それを見れば私も外へ出ていけるかもしれないわね」

「もしかするとね。でも作った本人曰く、見るのはオススメしないらしい。見た時の負担がハンパじゃないんだって。脳に強く作用するからね」

「……一筋縄ではいかないのね。後、テレビで見るなら電磁波の悪影響も覚悟しないと」


 何分くらいの映像なのか分からないが、十分以上となると耐え切れる自信がない。テレビの前を素通りするだけでも軽く頭が痛くなるのだ。


「そうなんだよ。ちなみにテレビはブラウン管じゃないとダメらしい応答速度だとか残像だとか言ってた」

「今でもブラウン管の方が優れている部分があるのよ。激しく移り変わる映像なんでしょうね。基本的にサブリミナル効果を使ってくるのだろうし」

「そうなんだろうね」


 娘が超能力者として苦労しているので、母も超心理や深層心理といった話はある程度分かっている。


「電磁波はブラウン管も液晶もそんなに変わらないと聞いているわ。ブラウン管のテレビはお父さんの書斎にあったわよね?」

「でもなぁ、やっぱりサーシャには負担が大きすぎるよね。今でも渡したもんだか悩んでるんだけど」

「だから私から話を持ち出すように仕向けたと」

「まぁ、そういうこった」


 悪びれず言う母。


「お母さんが悩むことないわ。それを頂戴。明日、外へ出ていく用事があるの。多少の無茶は承知で使ってみるわ」

「じゃあ、渡しとく。見る時はバケツが必須らしいよ」

「……また吐くのか」


 見る前から憂鬱になってしまうがサーシャの決心は変わらなかった。何としてでも明日は外へ出ていかねばならないのだから。






 サーシャは母からもらったDVDと洗面所にあった一番大きなバケツを持って父の書斎に入る。父はロシア人なので置いてある本はロシア語のものが多いが、日本語も並の日本人より堪能なので日本語の本もあった。

 今のサーシャは自分専用のチューリップハットを被っている。この帽子の内側には電磁シールド材が貼ってあった。

 電磁波をある程度遮断する電磁シールド材は、チェスノコフ家のあちこちで使われているポピュラーな材料だ。厚さ数ミリの柔らかいシートなので曲面に貼ることもできる。これがないとサーシャの入浴中に洗濯機を回すことすらできない。

 重いし気休め程度の効果しかないが、今は少しでも電磁波の影響を防ぎたいサーシャであった。

 ゆったりしたチェアに腰を下ろし、テレビとプレイヤーの電源を入れる。二つの機器からはできるだけ距離を取ったが、それでも頭がきりきりと痛む。なんとか堪えきらないと。

 前にマニュアルを読んでいたのでDVDプレイヤーの操作に迷うことはない。電化製品を触れないサーシャだけれど、実機を想像しながらマニュアルを読むのが好きなので大抵の機器の操作ができた。

 バケツを抱え込んでからDVDを再生する。


「『アンダルシアの犬』ですって?」


 思わず表情を歪めてしまうサーシャ。

 『アンダルシアの犬』はシュルレアリスムを代表するサイレント映画なのだが、前にプロジェクタで観た時はさっぱり意味を読み取れなかった。サーシャは感覚を理屈で固めて物事を捉えていくタイプなので、感覚を強く刺激するのに理屈が通用しないこの手の映画は許せない。

 しかし今は映画の好みを言っている場合ではなかった。ぐっとこらえて鑑賞していく。

 元々の映画自体が不安感を煽るような内容な上、今のサーシャは電磁波による頭痛で体調が悪い。精神的にはかなりきつかった。

 それでもサーシャは映像に集中する。少しでも暗示を緩和して外へ出ていけるようにしなくては。

 身構えつつ意味不明な映像を追いかけているうちに十六分の映画はあっけなく終わってしまった。


「何も起きないわ?」


 電磁波の影響で頭痛が酷くて吐き気までしているが本当に吐くほどではない。

 サーシャが首を傾げていると映像の続きが現われた。


「む、また同じのだわ」


 再び『アンダルシアの犬』。

 もう止めてしまおうかとも思ったサーシャだが、この二本目こそ本命なのかもしれないと考え直す。

 画面に集中するのに苦労するほど頭が痛くなっているがどうにか我慢する。サーシャはまだこの映像に望みをかけていた。


「寸分違わず一本目と同じね」


 微妙に細工してその差異でもって意識下に働きかけてくるかとも思ったが、そういう作りでもないようだ。

 とにかく映像に目をこらす。

 女性のまぶたが男の指で無理矢理開かされた。大きく露出した眼球に添えられたのは鋭いカミソリ。そのカミソリが一気に引かれ眼球が無残に裂かれてしまう。中のものがどろりとこぼれ落ちた。


「何回見てもゾッとするわ」


 切り裂いた瞬間を狙って何か仕掛けてくるかとも思ったがそういうこともなく。

 その後も街路のシーンになるたびに外が怖いサーシャは身構えたが、路上に転がるちぎれた手首を棒で突っつく青年が延々と映るだけだったりと映画そのまま。

 そして海岸で戯れる男女。どことなく不気味だけれど何を意味しているのかはよく分からない。映画にはないものが映っていないか目を凝らしてみたが特になく。

 結局、「FIN」と表示されて映画は終わった。


「やっぱり何も……ぐかあっ!」


 突如サーシャはバケツの中へ勢いよく吐いてしまう。

 さらに目の前にちかちかと映像が浮かんでは消える。カミソリ、裂かれた眼球、吠え立てる犬、旋回する烏、路上に転がる手首、クラクションを鳴らす赤い車、棒で何かを突っつく青年、じっと見つめてくる猫、風で揺れる森林、海岸で戯れる男女、小さい頃のリータ「一人がいいならどこへでもどうぞ!」


「わあああっ!」


 サーシャの叫び声が聞こえた。自分が叫んだ自覚はない。

 ふわふわとした思考が少しずつまとまっていき、自分が両腕で抱えているのがバケツだとようやく思い出す。


「せっかくの紅茶が台無しだわ……」


 重いバケツを慎重に床へ下ろし、DVDを取り出してからテレビとプレイヤーの電源をオフにする。

 これでようやく電磁波から解放された。

 チェアに背を預けてぼんやりしていると強いショックからも徐々に立ち直ってくる。

 今まで見ていた映像について考えてみる。

 もしかすると映画の中に目には見えない短いカットを挟んでいたかもしれない。そうやって意識下に暗示をかける手法はよく知られている。

 だけれどあくまで真打ちは映画終了の二秒後から立て続けに表示されていった謎の画像群だ。曼荼羅にも魔法陣にも見えたが何なのか分からなかった。映っていた時間はトータルで三秒程度だろうか。

 前座は思わせぶりな映像なら何でもよかったはずだ。『戦艦ポチョムキン』でも、『二〇〇一年宇宙の旅』でも、『イレイザーヘッド』でも。

 そうやって映像の中に何か暗示を仕込んであると思わせておき、何ごともなく終わって気が緩んだ瞬間に仕掛ける。

 サーシャはそのホラー映画まがいの手法にまんまと引っかかったわけだ。

 結果、今のサーシャは晴れ晴れとした気分だった。頭の中にある黒いもやが少しだけ薄くなったのを感じる。

 これなら外へ出ていけるかもしれない。

 いいや、サーシャは外へ出ていかなくてはならなかった。






 嘔吐の後始末をしてからサーシャは自分の部屋へ戻る。リータはあいかわらず愛くるしい寝顔を晒していた。

 サーシャは自分のやるべきことを考える。

 今、宗作は大規模な罠のカウントダウンを始めていた。実際に発動すれば警察沙汰は免れないだろう。リータもそれに巻き込まれる。

 今さら宗作は説得に応じないだろうし、リータも言うことを聞いてはくれまい。それでもこの騒動は何ごともないうちに終わらさねば。リータからカウントダウンが始まったと聞いた時に、サーシャは自分自身の手で終わらせると決心していた。

 リータは宗作のことが好きだと言う。母が言うようにリータはすぐにでも新しい世界へと踏み出すはずだ。今はまだ心穏やかに受け容れられないサーシャだが、せめてはなむけくらいはしたかった。全部を穏便に終わらせて二人が幸せな毎日を送れるようにするのだ。

 二人の意向に沿わないことをすればリータに嫌われてしまうだろう。新しい世界へ行ったきりになって、サーシャの方へは二度と顔を向けなくなるかもしれない。

 それでもサーシャはやる。これから自分がすることはリータを想ってのこと。サーシャ自身がそう確信していれば十分だ。


「ごめんなさいね、リータ」


 サーシャはリータの手にそっと触れる。

 『読心』を使ってリータの記憶を探ると宗作がパソコンを操作している場面が目に入った。そのパソコンに表示されているのは文字だけ。CUI――キャラクタ・ユーザ・インターフェイスと呼ばれる操作を全て文字入力で行う方式だ。正確な文字コマンドが分からないとソフトを操作できない。

 カウントダウンの開始コマンドは、


genesis_11 -all


 だけれどこれだけでは停止コマンドが分からない。やはり直接宗作の部屋へ行ってノートパソコンの現物を押さえないと。幸い部屋の中のどこにあるのかはリータの記憶で分かった。

 サーシャは『飛躍』を使ってリータの脳内へ自分の意識を潜り込ませる。脳に直接刺激を加えることでリータの潜在能力を引き出すこの力は、他にもいろいろな使い方ができた。

 サーシャは脳内の睡眠を司る中枢にアクセスし、リータが二十四時間絶対に起きないように細工する。これで全部が終わるまでリータに邪魔されずに済む。そしてリータの脳内から離れる。

 リータ相手に勝手に超能力を行使した。この時点でサーシャはリータに対して取り返しの付かない罪を犯したことになる。

 もう引き返せない。

 朝まで眠って少しでも体力を回復させないといけなかったけれど、サーシャはまるで眠れる気がしなかった。

 ベッド脇に腰を下ろしてリータのかわいらしい寝顔を眺める。その首元にある姉妹のつながりを象徴するペンダントにそっと触れ。

 この子のためなら何だってできる。たとえ本人から見放されるようなことでも――

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