四話 外へ出られない理由 (サーシャ)
サーシャが外へ出られなくなった理由。それをリータに説明すべきか、サーシャには少し迷いがあった。
もう二人は仲直りしたのだし、ヘンに話を蒸し返すこともないのでは? あの出来事を話すと、どうしてもリータの行動を批難してしまうことになる。
それでも心配そうに見つめてくるリータの顔を見ているうち、自分がどんなことをしたのか思い出せずにいる彼女の不安をぬぐい去るべきだと、サーシャは思い至った。
「私たち一家がモスクワからこのみもろ台へと引っ越してきたのは三才の時だったわね。お父さんの仕事の都合もあったけれど、身体が弱い私のためというのも大きな理由だったわ。
そのうちリータは幼稚園や小学校へ通うようになったけれど、私はほとんどの時間を自分のベッドで寝て過ごしていた。そんな状態が少しだけ好転したのは私たちが六歳の時。この年にした心臓の大きな手術のおかげで、私はそれまでと比較にならないくらい自由に行動できるようなったわ。リータを始め、みんな喜んでくれたわね」
「うん、一日ベッドから出てても平気になったんだ」
「リータと一緒に庭へ出たりもしたわね。今まで窓の内側から眺めるしかできなかった憧れの場所だったから、私はとてもうれしかったわ」
「うん、外の空気を目一杯吸って、サーシャは活き活きとしてた」
その辺りのことはよく覚えているようだ。リータはにこやかにサーシャを見つめている。
「七歳になった頃だった。それまで家の中と庭を歩くだけだった私に、リータは外の公園へ遊びに行こうと誘ってきたの。覚えている?」
「うーん……。ああ、そう、あったね。もうすっかり元気になってるから、もっと違う場所にも連れていきたくなったんだ。野山公園なら広いし丘もあるし、きっと喜んでくれるって思ったの」
「私はイヤだった」
「え? そうだったの?」
リータの表情が曇ってしまう。サーシャはティーカップの方へ視線を移し、紅茶の水面を眺めながら話を続けた。
「庭は今までずっと窓から眺めていたのだし、私にとって親しい場所だったわ。だけれどそんな外の公園なんて知らない場所に行くのは不安だったの」
「そうだったんだ……」
「不安だったけれどリータが何度も誘ってくれるうちに、この子と一緒なら怖くないかもって思うようになったの。だから外の公園へ行くことにした」
「そうだったね。一緒に手を繋ぎながら、門を潜って外へ出たんだ」
リータの声がまた明るくなる。サーシャはティーカップの縁をそっと撫でた。
「門の外は森になっていた。そこを突っ切らないと町の中にある公園へは行かれない。途端に私は恐ろしくなったわ。鬱蒼と生い茂った木々が、私たちがこれから行く道の上へ覆い被さるようにしていたから」
「そうなの? 私はあれ、トンネルみたいで好きなんだけどな……」
リータが絵を描くみたいに指先をテーブルになすり付ける。二人の感覚はこんなふうに違っていることがままあると、サーシャは思い出す。
「私は怖かった。だけれどリータが手を引いたから、勇気を振り絞って道を進んでいった。風で木々がざわめく中を。
ようやく森を抜けると、道を塞ぐようにして何人もの子どもたちが並んでいた。全員が私たちを見つめていたので私は足がすくんでしまったわ」
「え? それって私の友だちだよ?」
「そうね、私もしばらくしてそう気付いた。それまでも私はリータと『接続』していたから、あなたの友だちの顔は視たことがあったわ。だけれど彼らが待ち受けているだなんて話、事前に聞いていなかったから私は驚いたの」
「あれ? そうだっけ?」
ちらりとリータを見てみると首を傾げている。
「今思うと、あなたはうっかり忘れていただけ。だけれど当時の私は混乱してしまった。あなたが私を放っておいて、自分の友だちと話をし始めたから余計にね」
「私、サーシャをみんなに紹介しなかったの?」
「随分経ってからね。リータはおしゃべりが好きだから、みんなと話をするのに夢中になっていた。友だちの一人がようやく指摘して、リータは私をみんなに紹介してくれたの」
「そうだったんだ、ゴメン……」
いかにも恐縮したようなリータの声。別に今さら怒っても仕方のない話だと、今のサーシャは分かっているけれど。
「私はもう帰りたくなっていたけれど、みんなが歓迎してくれたからそんなことは言い出せなかった。みんなで公園へ向かったわ。
リータの友だちはあれこれと私に話しかけてきた。リータはいつも私の話を友だちにしていたから、みんな好奇心でいっぱいだったようね。だけれど私はリータと文人以外の子どもとは話をしたことがなかったから、どう応じればいいのかさっぱり分からなかった。リータはリータで友だちとおしゃべりしているし……」
「うう、ゴメン……」
どうしてもリータを批難するような言い方になってしまう。少しはフォローしておかないと。
「いいえ、リータはまだ小さな子どもなのだし、そんなに気を遣ったりはできないわ。今ではそれを、ちゃんと分かっている」
「ありがとう……」
ほっとしたようにリータが言う。
「ともかく公園へ着いた。身体が弱い私に気遣って、激しく運動するような遊びはしなかったわ。ケンケンパだとか、あっち向いてホイだとか。初めて遊ぶ私にもみんな仲よくしてくれたから、私も少しずつ楽しくなってきた。そんな時、リータはかくれんぼをしようと言い出したの」
「……ちょっと……激しい運動だよね?」
「そうね、遊ぶのが楽しくなっていたリータは、私を気遣うのをほんの少しだけ忘れていたのかもね。
私はもうこの時、疲れが出ていたわ。だけれどリータとその友だちは、かくれんぼをしようと盛り上がってしまっていた。当時の私はみんなを遮ってまで自分のことを主張できなかったの。今でも私は自分のペースでなくなったらすぐ弱気になってしまう。リータもよく知っていると思うけれど。ましてや当時の私は小さかったし、初めて会う子ばかりだったわ。だから自分のことは言い出せなかった」
「そうなんだ……。ホントは私が気付かないといけなかったんだね」
かわいそうなくらい、しょげかえった声をしてしまうリータ。だけれど話はまだまだ続けないといけない。
「今となっては仕方のない話だわ。とにかくかくれんぼをすることになった。私も、ずっと隠れていれば疲れることもないだろうと思ったわ。そして私は植木の影に隠れたのだけれど、一番最初に見つかってしまったの。初めてする遊びだから、コツをよく分かっていなかったのね。オニをしていた男の子に手を引かれて、捕まった子が行く場所まで歩かされた。
この時私は、余計なこと考えてしまったの。身体の弱い私と遊ぶのを、みんなは面倒に思っているんじゃないのかって」
「え? じゃあもしかして……」
「そう、私は『読心』を使ってしまった。どうしても男の子の考えを知りたくなって、心を読んでしまったの。そうしたら、その子はほんの少しだけ、私と遊ぶのを面倒に思っていたわ。今の私なら気にしないくらい、ほんの少しだけ。
そう思うのは仕方のないことだと今では分かるわ。まだ小さな子どもなのだから、他人をそこまでいたわれないわよね。だけれど、それまでの出来事ですっかり気が弱くなっていた私は大きなショックを受けてしまった。私は邪魔者なんだ、いない方がいい子なんだ、ってね。
その子が違う子を探しに出かけたら私は一人ぼっち。みんな私を邪魔に思っている。私はここにいちゃいけない。すっかり弱気になっていた私はもうその場にいられなくなって、ふらふらと一人で公園の外へ出ていってしまったの」
「あっ!」
リータにも心当たりがあったようだ。
「公園の外はのどかな住宅街。だけれど私には恐ろしい迷宮だとしか感じられなかった。門前で世間話をしていた主婦たちが私を見たわ。ここにいるべきではない子供がいるのをとがめるような視線で。当然そんなことがあるはずもないわ。私が勝手にそう思い込んでしまったのね。もうその頃には何が何だか訳が分からなくなっていたから、全部が全部、自分に悪意を向けてきているようにしか感じられないの。じっと見つめられるのが恐ろしくて走って逃げたわ。追い付かれないように必死に。胸が苦しくなって立ち止まったら、目の前を野良猫が通りかかったの。道路の真ん中で立ち止まると、全く感情が読み取れない表情で私をジッと見る。私を品定めしているのかもしれない。猫とライオンが同じ種類だったと、私は思い出してしまったわ。思わず後ずさったら横から飼い犬に吠えられた。とても大きな犬。そいつは柵に前足をかけて立ち上がり、耳をつんざく大きな声で吠え立ててくるの。今にも柵を乗り越えて私の喉笛に噛み付いてきそうだった。狭い場所に閉じ込められていたその犬は、きっと人間に恨みを抱いているに違いない。その恨みを、いかにも弱々しい私で晴らす気でいるんだ。私は力を振り絞って再び走り出した。すると頭上で烏が不気味な声で鳴きながら旋回していたの。それも何羽も。烏というのは残酷な鳥で、何羽もで寄ってたかって小さな動物を殺してしまうのよ。そいつらはきっと私を狙っているんだ。耳障りな鳴き声で相談しあっている。手頃なエサが見つかったぞ。どうやって苦しみながら殺してやろうか。私は何としてでも逃げないといけなかった。すると前から犬を鎖で繋いだ男が近付いてきたの。犬をけしかけて私を狩り立てる気なんじゃないか? 小さな女の子が無残に獣に殺されるところをケタケタと笑いながら眺める気なんじゃないか? 私は道を曲がってどうにか難を逃れたけれど、力を使い果たして道の真ん中で座り込んでしまった。すると後ろからけたたましい音をぶつけられたの。振り返ると血の色みたいに赤い色をした車だった。それが何度も何度もクラクションを鳴らしてきたのよ。やがて窓から若い男が身を乗り出してきて、罵声を浴びせかけてきた。とてもマトモな人間だとは思えなかったわ。今まで言われたことのないような汚い言葉で罵られた。よろめきながらどうにか道の脇に避けたら、その車はものすごいスピードで走り去ったの。危うく轢き殺されるところだと身体が震えたわ。早くここから立ち去らないと、また戻ってくるかもしれない。足を引きずるようにして歩き続けたら、いつの間にか元の公園にたどり着いたの。
すぐにリータが駆け寄ってきた。とても懐かしい顔。私は助かったと思ったわ」
リータは何も言って来なかった。サーシャは話を続ける。
「リータは言ったわ。『勝手に場所を動いたらダメなんだから!』
私はとっさに何を言っているのか分からなかった。外に出てしまったの、とどうにか伝えたら、『そんなに私たちと遊ぶのがイヤなの? 一人がいいならどこへでもどうぞ!』と言われたわ」
「言った……私、そう言った。みんなで遊んでるのに、一人で勝手なことをしてるって怒っちゃったんだ。なんで怒っちゃったんだろう?」
「遊びに夢中になっていたのかしら? 私は私で自分が体験してきたことをリータに訴えることができなかった。もう何か言う気力なんて残されていなかったのよ。ただ帰りたいとだけ伝えたら、リータは私の手を引いて家まで連れて帰ってくれた」
「何も話をしないまま家まで帰ったよね……。私はその時怒ってた。仲よくなってもらおうと友だちを紹介したのに、台無しにされたなんて思っちゃったんだ……」
「そんなところでしょうね。心が乱れてテレパシーも使えなかった私は、ただ一人で魔物のいる迷宮をさまよったの。いつも頼りにしているリータと繋がれないことで、私の恐怖はいっそう強いものとなっていた。だけれどリータは分かってくれない。私はもう黙っていようと思った。リータは平気で町を歩けるから、きっと私の恐怖を分かってくれないと思ってしまったの」
「そんな……言ってくれたら……」
リータの声は震えていた。サーシャも自分が語った恐ろしい過去の出来事に、さっきから身体が震えてしまっている。
「それから私は何ヶ月もこの時の悪夢を見続けたわ。超能力の悪影響のひとつなんだけれど、私の夢はものすごくリアルだし、夢で見たことは強い暗示となって心を支配してしまうの。それが何ヶ月も続いたの……」
「それでもう……外が怖くなってしまった……外へ出ようとしたら吐いてしまうくらい……」
ここで今まで黙って聞いていた母が口出ししてきた。
「でもそんなの昔の話だよ」
「それはそうだけれど……」
簡単に否定してくる母の言葉をサーシャは簡単に受け入れられない。
「リータだってまだ小さかったんだしさ、そんなにいつでもどこでもあんたを気遣ったりなんてできないよ」
「……そうかもしれないわね」
母はわざと突き放すみたいな言い方をしてくるけれど、サーシャも本当は分かっていた。リータを恨んじゃいけない。
文人も口を出してくる。
「今でもリータは抜けてるもんな。七才か? そんな頃ならしょっちゅう何かやらかしてたんじゃないか?」
「その言い方は酷いよ、文人」
リータが沈んだ声ながら不満げに言う。しかし文人はお構いなしに続ける。
「リータは忘れてたんじゃない。自分がやらかした自覚がなかったんだ。間抜けだから。もういいんじゃないか? リータのせいだとか恨んだりはやめろよな」
「ええ、分かっているわ。もうリータのせいだなんて言わない」
サーシャは愛おしい妹の方を向いた。今までずっと心の中で引っかかっていたことを、ようやくぬぐい去ってしまえそうだ。
「ありがとう、サーシャ。全然気付かなかった私も悪いんだ。サーシャがそんなことぐらいで外へ出られなくなったなんて、思ってもみなかったよ」
「え?」
今、リータは聞き捨てならないことを言った。とても信じられないようなことを。
「そんなことぐらいって何、リータ?」
「え? いやだって、一人で迷子になったのが怖かったんだよね? そんなことぐらいで……」
「そんなこと? そんなことぐらいなんて言うの、あなた!」
サーシャは目が眩むようなショックを受けてしまう。自分が今までずっと囚われてきた恐ろしい体験をそんなことだなんて。
「何怒ってるの? サーシャ」
自分の失言に気付いていないらしいリータはただ戸惑いを顔に浮かべている。サーシャの苛立ちは否応なく高まっていく。
「確かにあなたにとっては『そんなこと』程度なんでしょうね? ちょっと道に迷った、その程度。だけれど私にとっては未だに引きずるほどの体験だったの! リータだったら話せば分かってくれると思っていたのに!」
「ゴメン、サーシャ。違うんだよ。ホントは分かってるよ? サーシャは怖い思いをしたって分かってるから」
リータがサーシャの肩を揺すりながら訴えかけてくる。
本当だろうか? この子は本当に自分の恐怖を分かってくれている? サーシャは無二の姉妹の本心に疑いを持ってしまった。一度抱いた疑問は否応なく胸の中で大きくなっていく。
ダメだ。こんな考えをリータに抱いてしまってはいけない。今すぐ疑念を振り払わなくては。どうやって?
「じゃあ、手を出しなさい、リータ」
「手? どう……するの?」
「あなたの心を読むわ。あなたが本当に私の恐怖を理解してくれたのか、心を読んで知るの」
「なんでそんなことするの!」
身軽なリータが後ろ向きにイスを飛び越えサーシャから離れた。
やっぱりだ。この子は何も分かっちゃいない。
サーシャの胸が酷く軋んだ。怒りと、それ以上の哀しみで。
「手を出しなさい、リータ。あなたのことを信じさせて」
「イヤだよ! なんで私の心を読みたがるの? 今までそんなのなかったよね? 心なんて読まなくても私たちは通じ合えてるはずだよ!」
「私もそう、信じたいわ。だけれど、私たちは本当に通じ合えているのかしら? 私にはあなたが宗作にこだわり続ける理由が分からない。リータは私の心の傷を理解できない。私たちは、本当に通じ合えているのかしら?」
「なんでそんなこと言うの!」
リータが涙をあふれさせながら叫ぶ。
ああ、愛おしい妹を傷付けている。サーシャはそう気付いたが、自分の中に芽生えた絶望的な考え……姉妹は理解し合えていないという考えをどうしても拭い去れなかった。こんな歪んだモノはすぐにも捨て去らなくては。
だけれど、できない。
「分かったわ。それが答えなのね」
「答えって何? 私はちゃんと分かってるよ? サーシャは怖い思いをしてずっとつらかったんだよね? 分かってる。分かってるから」
「だけれど、あなたは私に心を読ませようとはしない。だって、本当は分かっていないから」
サーシャがそう言うと、リータの顔から血の気が引いた。心を読むまでもない。
「もういいよっ! それでいいよっ! 私はサーシャのことなんてちっとも分かってないバカな奴なんだ! それでいいよっ!」
リータはそう言い捨てるとサーシャに背を向けて走り去った。
「おい待てよ、リータ!」
「やめときな、文人」
リータを追いかけようとした文人を姉妹の母が止める。
「はぁ、まいったな……」
文人のため息まじりの声を聞いてサーシャの胸から哀しみがあふれ出た。
テーブルに突っ伏して泣きわめく。
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