三話 サーシャは脅迫する (サーシャ)

 サーシャはさっきいた喫茶店にまた戻る。そして今度はオレンジジュースを頼んだ。のどが渇いて仕方がないので出されたお冷やはすぐに飲み干す。

 ドゥヴグラーヴィ作戦の第三段階は電話さえあれば実行できるのだけれど、みもろ台を縦断して家へ帰るのは今のサーシャでは時間がかかりすぎる。作戦は立て続けに実行していく必要があった。 

 オレンジジュースを半分ほど飲むと、ノートパソコンの電磁波を受けて乱れていた意識も大分整ってきた。店の壁掛け時計を見ると十一時八分前。この店では今時ゼンマイ式の振り子時計を使っていて、そのカチカチという時を刻む音がサーシャの心を落ち着ける助けになっていた。電磁波を発しない機械はいい。

 サーシャはマスターに声をかけてまた電話を借りる。電話をかける相手は榎本だ。携帯番号はリータがもらった名刺に書いてあった。

 コール音が鳴り始めたけれどなかなか出ようとしない。もしかすると非通知の電話には出ないのか? そうなれば会社の方へ電話をする必要が出てくる。


『はい、榎本ですが』


 大分粘ってから電話に出た。思ったより丁寧な言い方だけれど不機嫌なのは隠し切れていない。周囲の雑音からして車に乗っているようだ。


「私は高杉宗作の知人で山内やまのうちというものだ。奴が君を脅迫している件で話がある」


 サーシャが低くした声でそう言うと、榎本が唾を飲む音が聞こえた。


『どういう話だ?』

「今、奴が仕掛けたカウントダウンは停止している。私が止めたのだ。まだ把握していないなら自分の会社に電話して確認したまえ。五分後にかけ直そう」

『いやいや待て。さっきその連絡があったところだ。カウントダウンは止まったが、データへのアクセスはあいかわらずできない。目的はなんだ?』


 随分切羽詰まっているようで、宗作と話をする時のような嫌みったらしさがなくなっている。今はサーシャのペースだ。


「私は高杉に同情している。だが、高杉に腹を立ててもいる。奴のやり方があまりに手緩いからだ」

『え? なんだと?』

「君は今、随分と手強い連中から資金援助を受けているようだな。『何よりも重要な出資者の皆様』。資金繰りに苦しむ君は際どい橋を渡らざるを得なかった。違うかな?」


 榎本は宗作から「何よりも重要な出資者の皆様」と皮肉られると激高した。また、カウントダウンが始まった後、リータに捻られて「僕がどれだけ苦労して連中と渡り合ってるのか知りもしないで」と力なく言ってもいた。

 連中とは出資者のことなのだろうけれど、榎本はその出資者を随分と恐れているようだ。それも、ビジネスの相手として強敵だから恐れているのではなく、もっと本能的な恐怖を抱いているとその怯え方からうかがえた。あるいは暴力すら辞さない相手なのかもしれない。


『な、何を言ってる? 何を考えてる?』

「高杉の製作したアプリケーション『babel++』はまだ私の手の内にある。高杉のやり方は実に手緩い。私なら、このソフトを『何よりも重要な出資者』様に提供するね」

『お、おい、そんなことしたら……』

「サービスが一つ終了する。その程度で済めばいいけどね。脅迫の材料を手に入れた連中は、君を思うままに操れるようになる。搾り取れるものを全て搾り取る。その程度で済めばいいけどね」


 榎本が押し黙る。絶句してしまったのだろう。サーシャも口を閉じ、相手の胸の中にじわりじわりと恐怖が浸透していくのを待つ。


『な、何が目的だっ!』


 ようやく榎本が出した声は裏返っていた。

 ここまで恐れるところからして、サーシャが思っているとおりか、それ以上の相手のようだ。

 どのみちサーシャはそんな剣呑な相手とコンタクトを取る気はない。触らぬ神に祟りなしだ。


「要求は最初と変わらない。高杉が言うページを消せばいいだけだ」

『それだけ? それだけのために僕の命を危険に晒そうというのか!』

「君が悪いのだろう? 高杉の怒りを理解しようとしなかった君がね。他人から見れば些細なことでも、本人にとっては人生を左右するほど重要なことなどいくらでもあるのだよ。織田信長もなぜ明智光秀に襲撃されたのかよく分かっていなかったろうよ」


 サーシャにしても宗作があのページにこだわる心情は理解できなかった。だけれどチェスノコワ姉妹ほど仲がよくても、姉の恐怖を妹は理解できないのだ。ただの他人同士ならなおのこと相手の胸の内なんて分からないだろう。


『でも、あんな奴の言いなりになるのは……。ちょっと考えさせてくれ……』


 榎本はこの期に及んで余計なプライドに執着していた。

 しばらく待ってみたが榎本は決断できないでいるようだ。サーシャは少し後押ししてみる。


「本当のところ、高杉の要求は欺瞞にすぎない」

『欺瞞?』

「友人たる鍋島のために大掛かりな罠を仕掛けて君を陥れる。奴は今、崇高なる目的のために罪を犯そうとしている自分に酔いしれているはず。だがこれは欺瞞だ。あくまで奴は君への私怨を晴らそうとしているだけ」

『そうか……そうだよな……いや、ちょっと待ってくれ……』


 大分揺らいでいるようだ。あまり判断を急がせると全部を放り出して自分のつまらないプライドを優先しかねない。ある程度は待った方がよさそうだ。

 長い沈黙が続いた後、頃合いと見てさらに背中を押す。


「奴が一番困るのは、実は君が奴の要求を飲むことなのだ。君は言ってやるといい『さぁ、君の言うとおり鍋島のページは消してやった。これで満足か? 本当に満足か? 僕を破滅させられなくて、本当は残念に思っているんだろう?』奴は自分の醜い欺瞞に気付いていつまでも苦しむことになるだろう」

『なるほど……やっぱりそうか……』


 榎本の声が晴れやかになった。もうほとんど決心は付いただろう。ここで最後の一押しだ。


「奴の要求なるものを飲むのは極めて容易だ。しかし、このままでは君はとてつもない危機を迎えてしまう。迷うことはないはずだがな?」

『ああ、見付けた。見付けたぞ……』

「見付けた?」

「見付けたぞ! 小娘が!」


 急な大声に驚いたサーシャが声のした方を向くと、榎本が入り口の扉を開け広げて立っていた。






 サーシャはなぜ榎本がここにいるのか理解が追い付かない。宗作と交渉するために榎本がみもろ台に来ている可能性はある。榎本は何度か宗作の家へ来ているのでこの喫茶店を訪れた可能性もあった。だけれど、なぜ今、サーシャがここにいると分かったのだ?

 はっと気付いたサーシャは壁掛け時計を見る。十一時九分。十一時になった時、この時計はチャイムを鳴らしていた。最近であまり聞く機会のない、ゼンマイ式振り子時計のクラシカルなチャイム音。それを聞かれたのだ。

 店内のBGMを含め、周囲の音から何らかの店舗の中で電話を掛けているとは分かるだろう。そうなっても場所の特定は困難なはずだった。だけれどそこにチャイム音が加われば話は別だ。この喫茶店の付近にいたなら確認するだけしてみる価値はあった。

 動揺しているように見せかけて、榎本は話を引き延ばしていたのだ。サーシャは自分が策に溺れてしまったのを悟る。


「ついてる。まだまだ僕はついているぞ」


 追い詰められた榎本は目が据わっていた。それより気になるのは奴の右腕。右手を覆うようにして脱いだコートを掛けているが、その手の先はサーシャの方を向いている。


「頭のいいお嬢ちゃんだ。こいつが何か分かっているね?」

「そんなものを使えばあなたもただでは済まないわ」


 ただのはったりか、せいぜいエアガン程度かもしれないけれど、本物の拳銃である可能性は十分にあるとサーシャは考えた。榎本の出資者なるものが危険すぎる存在なので、自衛手段として入手した可能性。実際は、そんな危険な相手なら刺激するだけ立場が悪くなるだけなのだけれど。


「僕はね、いつ破滅してもおかしくない状況にあるんだ。それが少しくらい早まっても別によくないかな? むしろ刑務所の中の方が安全かもしれない」


 そう言って正常な判断ができない状態にあると見せかけているだけ。サーシャはそう睨んだが、ここで博打を打つ勇気が沸いてこなかった。

 本当に拳銃を持っているかもしれない。本当に正気を失っているかもしれない。今までずっと家の中にいたサーシャは、鼻面に突き付けられた現実の暴力に立ち向かうことができなかった。誰を相手にしても暴れ回るリータの強さを今さらのように知る。

 榎本が前に踏み出してサーシャの脇腹に右手を当てた。コートとダウンベスト越しなので拳銃があるかどうかまだ分からない。


「君、会計を済ませたまえ」

「分かったわ。財布はリュックにあるの。今から下ろすけれど過敏な反応はしないで頂戴ね」

「いや、待て! やっぱり僕が出す」


 お互い異様に緊張している。榎本はコートを左手に持ち替えてから右手で内ポケットにある財布を取り出した。


「マスター、いくらだね?」

「さ、三百円です」


 マスターは二人の雰囲気にただならぬものを感じているようだ。サーシャに心配そうな視線を寄こしてくる。

 ここで下手に警察を呼ばれるのはまずい。ヤケになった榎本が何をするか予測が付かないし、榎本が宗作のことまで洗いざらい吐いてしまってはリータに累が及ぶ。


「ごめんなさいね、ちょっとした修羅場なの。私は浮気なんてしていないのに、この人ったら」

「な、なるほど……」

「おい、余計なこと言うな!」


 嫉妬深い男という濡れ衣を着せられた榎本の顔が青くなった。こいつは怒ると顔が青くなる。

 榎本は左手の先を常にサーシャの方へ向けながら不器用にお札を取り出す。サーシャは自分に向けられた拳銃が暴発しないようひたすら祈った。

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